チェコ好きの日記

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観光客と旅行者/『シェルタリング・スカイ』

「観光客? ”旅行者”よ」
「どう違う?」
「着いてすぐ帰ることを考えるのが”観光客”」
「”旅行者”は帰国しないこともある」

「”旅行者”は帰国しないこともある」。

ポール・ボウルズの原作『シェルタリング・スカイ』を、ベルナルド・ベルトルッチが映画化した作品を観ました。上記のセリフは、冒頭で3人の登場人物によって語られるものです。アメリカ人の中年夫婦、ポートとキット。そしてその夫婦の旅に同行することになったジャック。3人はニューヨークから、北アフリカーーモロッコの地を踏みます。しかし冒頭のこのセリフは物語の不吉な予言にもなっていて、ポートとキットは最終的に、”観光客”ではなく”旅行者”である道をたどることになってしまいます。

シェルタリング・スカイ [DVD]

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というわけで今回は映画版『シェルタリング・スカイ』の感想文を書きます。

ポートとキットはポールとジェインなのか

さて、『シェルタリング・スカイ』の主人公である中年夫婦、ポートとキット。映画の舞台となっている時代は戦後間もない頃のようですが、彼らはニューヨークからなぜかモロッコに渡り、そこに1〜2年逗留するつもりだと冒頭で語ります。この物語の原作小説を書いたのはポール・ボウルズという作家なんですが、彼もまた、妻のジェインとともにニューヨークからモロッコに渡り、そこでアメリカへ帰らず生涯を過ごすことになります。設定が似通っているため、この『シェルタリング・スカイ』という物語はボウルズの自伝小説的な何かだと考えることもできそうですが、DVDに特典としてついていた原作者インタビューの映像を見ると、ボウルズは「自伝じゃないよ」みたいなことをいっています。信じるか信じないかは読者次第だし、まあ自伝であろうと自伝ではなかろうとどっちでもいいんですが。

ところで、『シェルタリング・スカイ』のポートとキットは、あるいはポール・ボウルズとその妻ジェイン・ボウルズは、なぜニューヨークから、モロッコという土地に渡らなければならなかったのでしょうか。数週間の旅行ならとにかく、ポートとキットは最初から1〜2年モロッコに逗留するといっているし、ボウルズ夫妻にいたっては生涯をこのモロッコという土地で過ごすことになります。普通はちょっと理解しがたい話ですよね。

これには、一般的には「北アフリカの魔術的な笛の音に魅せられて……」とか、「夢のお告げ」とか、何やらロマンチックなことが語られているらしいですが、『モロッコ流謫 (ちくま文庫)』のなかで四方田氏が推測しているのは、母国アメリカでの「赤狩り」を怖れてではないかということでした。ボウルズ夫妻は1938年に共産党に入党しているらしいんですが、当時ニューヨークの知識人の間では共産党に入党することが一種の文化的流行であったといいます。物語のなかのポートとキットと、ボウルズ夫妻を完全に重ね合わせていいのかどうかはわかりませんが、「母国にいられない理由があった」と考えると、この作品は単なるツーリストのそれではなく、また異なった響きを持った物語と考えることができそうです。

旅行という言葉から通常想起するのは、レジャーであり余暇です。多くの人には、帰る場所がある、逆にいうと必ず帰らなければならない。だけど、もはや帰るべき場所を持たない人が今いる場所を離れるとき、それはとても孤独で、危険で、しかし魅惑的な旅となります。『シェルタリング・スカイ』のポートとキットも、旅の途中で単なる気まぐれを起こして”旅行者”になったのではなく、最初からそんな焦燥感に駆られて母国を離れたのではないかと考えると、この物語のエピソード1つ1つがとても苦しいものに思えてきます。

どこまで行っても異邦人

「不思議な空だ 物体のように僕らを覆い 外にあるものから僕らを守ってる」
「外に何があるの?」
「虚空だよ 夜がある」

映画の1/3くらいのところで、ポートとキットは自転車で小高い丘へ散策に出かけます。そして眼下に砂漠が広がるその丘で、この物語のタイトルである「シェルタリング・スカイ(天蓋の空)」という言葉に関連するセリフが初めて登場するわけです。なので、きっとここは物語においてけっこう重要なシーンなのだと思われます。

詳しくは語られないけれど、夫のポートも、妻のキットも、故郷であるニューヨークにいられない理由があって、遥か遠く、北アフリカの地に旅行と称してやってきました。でも2人は、異邦人として頼れるものが互いしかいないという状況にも関わらず、夫婦の間にある決定的な溝を埋められませんでした。同じ空を見ながら、ポートは「僕らは同じ事を恐れている」といい、キットは「いいえ、違う」というわけです。そして2人はその差を解消できないまま丘を後にし、その翌日以降、さらに深くモロッコの奥地へと入っていきます。そこはもはや、白人の観光客などだれ一人としていない、衛生的にも整っていないような小さな町です。どうしてこんなところまで行く必要があるのか。その様子は旅というよりも、母国から、故郷から、2人を縛っているものから、どこまでもどこまでも遠く離れて逃れようとしているだけのように見えます。

だけど、結論からいうと彼らは距離的にいかにニューヨークから離れようとも、その呪縛から逃れることはできなかったーーように、私には見えました。モロッコの奥地で、ポートがチフスに罹って高熱を出してしまったので、キットが到着した先の町で1人で必死にホテルを探すシーンがあるんですけど、案内してくれる現地人の後をついていっても、なかなかそのホテルが現れないんですね。まるで迷路のように続くモロッコの小さな路地は、キットが決してこの地に馴染めない存在であることを暗示しているように思えます。故郷からいかに離れても、離れたその先も決して安住の地ではないということです。ベルトルッチは、ちょっと意地悪なんじゃないかと思うくらい、キットを白人の異邦人として、モロッコの現地人とは決定的に異なる存在として描写しています。服装も、言葉も、仕草も、目線も、表情も。

シェルタリング・スカイ』は、あまりにも遠くに行ってしまったために、もはや帰還が不可能になってしまった者たちの寓話であると、『モロッコ流謫 (ちくま文庫)』のなかで要約されています。そしてそれは、冒険に出て波乱万丈を経験しながらも無事に帰還するアメリカ文学の系譜からは逸脱した物語である、とも。そして、私がどちらの物語に惹かれるかといえば、もちろん前者です。

私自身の話をするならば、自分はかつて旅行者であったことはなかった、と思います。いつも現地に着いたら、自ずと帰ることを想定していました。だけど本当は、観光客ではなく、旅行者になってみたかった。でもそれが、どこまでも孤独で、危険であるということがわかっているから、進む一歩をためらってしまいます。旅行というのは、正真正銘の旅行を指してもいますが、人生の比喩でもあります。

砂漠に出ることは孤独の洗礼を受けることだ、とはポール・ボウルズによる警句です。戻ろうとしても、もはや方向がわからない。しかし、それでも誘惑に駆られて、迷い出てしまう人というのはいるものです。彼が、彼女が、行く先で幸福になれるか、ますますの不幸を背負いこむことになるかはわかりません。ただ、『シェルタリング・スカイ』のポートとキットに限定していうのであれば、わかるのは彼らは最初から帰る場所などなかったのだ、ということです。

次はこのへんを攻めてみようかと思ってます。おしまい。

優雅な獲物

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