ニューヨーク出身、のちにモロッコのタンジェへ移住した作家、ポール・ボウルズに激ハマリしています。異郷・北アフリカの猟奇と野蛮を好んで描くグロテスクな作家、といった偏見が強いボウルズですが、彼が描く異郷の物語は、どこか普遍性を持っているようにも思います。アッラーという絶対的な神がいるその土地で、人間とは、動物とは、自然とは、また異教徒であるユダヤ人とは。私たちはなぜ異郷に魅せられるのか、そして危険とわかっていながらもなぜその地に誘惑され迷い込んでしまうのか……ボウルズの小説のなかには、人間を「旅」に向かわせる、何か本質的なものが隠されている気がします。
というわけで今回は、ボウルズの小説の感想文第2弾。「だれが読むのこれ」感満載の、私しか得しない楽しい更新です。前回のボウルズのエントリはこちら(小説というより、ベルトルッチの映画の感想ですが)。
私が今回読んだのは、『優雅な獲物』という短編集です。表題作のほか、『遠い挿話』『昨夜思いついた話』『ハイエナ』『庭』『過ぎ去ったもの、まだここにあるもの』『学ぶべきこの地』『時に穿つ』などなどの不思議な物語が収録されております。
なかでも、私がハイパー気に入ったのは『遠い挿話』、表題作の『優雅な獲物』、そして『庭』。これらの短編について、きっちり感想を残しておきたいと思います。
- 作者: ポールボウルズ,四方田犬彦
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1989/06
- メディア: 単行本
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『遠い挿話』 A Distant Episode (1945年・ニューヨーク)
『遠い挿話』は、ボウルズの初期の短編を代表する作品であるそうです。南モロッコの方言を調査をするため現地に訪れた白人の教授が、現地人に誘われるまま町外を歩き回り、道に迷ってしまいます。そして教授は彷徨った先で舌を抜かれ、精神が狂い、異郷の地で奇怪な見世物芸人へと姿を変えてしまうのです。
あらすじとしては、のちにボウルズが描いていく「あまりにも遠くに行き過ぎたため、もはや帰還が不可能になってしまった旅行者」の物語を、わかりやすく踏襲しているといえます。ベルトルッチが映画化したボウルズの代表作、『シェルタリング・スカイ』の物語に通じる作品です。
私がこの短編を好きなのは、ボウルズの描く物語のわかりやすい典型であるからという理由もありますが、なんかこの作品の、「月」の表現が好きなんです。教授が現地人に誘われた先で迷ったとき、空にぽっかりと、月が浮かんでいる描写があるんですね。明るく輝く月は、美しくも少し妖しく、砂漠の地の静寂の夜を表しています。その輝く月の下で、教授はなぜか崖を降りていき、底に達したところで現地の犬に襲われ、さらに背中に銃を突きつけられます。そして翌朝、教授は舌を抜かれてしまうわけです。
ちょっとネタバレをしてしまうと、見世物芸人へと姿を変えてしまった教授は、ラストでなんとか精神を取り戻し、飼われていた現地人から脱走を試みるのですが、彼が向かった先は、なぜか砂漠。彼がもといた文明社会ではなく、「砂漠に出ることは孤独の洗礼を受けることだ」とボウルズが警句していた、あの砂漠なのです。日が沈む砂漠へと向かい、大気が徐々に月の冷気を帯び始めてきたところで、物語は終わります。「月」とは、美しさの象徴であり、危険と誘惑の象徴であり、冷たい夜の象徴です。日が沈む砂漠で踊り狂う教授、これぞボウルズの描く、「あまりにも遠くに行き過ぎたため、もはや帰還が不可能になってしまった旅行者」なのです。
『優雅な獲物』The Delicate Prey (1948年・ニューヨーク-ジブラルタル)
続いて表題作、『優雅な獲物』です。登場するのは、モロッコ東南部のフィララ人の、3人の隊商。その3人のうち、最年少の青年が旅の道中で、ムンガル人に陵辱され、死に至ります。ムンガル人が、剃刀で、フィララ人の青年の性器を切り取る描写がある。性器を切り取ったあと、ムンガル人はフィララ人の青年と、事を愉しむわけですね。ムンガル人の目的は性欲を満たすことではなく、相手を陵辱し、屈辱をあたえることのようです。読んでいて気分が悪くなる残酷描写ですが、このあと、事態を知ったフィララ人にこのムンガル人は復讐され、彼もまた死に至ります。ムンガル人は砂漠で、フィララ人が掘った穴に、顔だけを出した状態で埋められてしまうのです。
ここでもやっぱり気になるのは、砂漠と太陽、そして月の描写です。砂漠に埋められたムンガル人のかんじる、月の冷気、そして灼熱の太陽と乾き、炎、幻覚。ムンガル人はその美しい歌声で、唄いながら死を遂げるのです。
ボウルズはこのグロテスクで美しい物語を、どのようにして思い至ったのか。『優雅な獲物』を、彼はニューヨークからジブラルタルに移動するなかで書き上げたということになっています。ジブラルタルとはモロッコの先にある、スペインの町です。つまり、ボウルズはこの作品を書いた時点ではまだモロッコに、タンジェに住んでいません。移住したあとのボウルズは、現地の青年たちが語る奇想天外な逸話や空想の物語を自身の作品へ組み込んでいくことになるのですが、『優雅な獲物』は彼が本格的にモロッコの地に入る前に、行く先の異郷の地をなかば予言的に描いた作品であるといえるのかもしれません。だからボウルズの物語は、北アフリカという地に縛られながらも、どこか普遍的な「異郷」への想像力を、私たちのなかにかき立てるのでしょう。
『庭』 The Garden (1963年・アシラ)
この短編集のなかでいちばん私のお気に入りになったのが、この『庭』です。『庭』と名のつくものは、小説でも映画でもいいのが多いですね(私の趣味的に)。ヤン・シュヴァンクマイエルの『庭園』っていう短編映画が私は大好きです。
それはいいとして、『庭』では、ある男が自身の綺麗な庭を、いつも丁寧に手入れしているんです。庭はオアシスのようで、そこにある花々や樹々の美しさに男は満足し、いつも恍惚とした表情で家に帰ってくるのです。だけど男の妻は、彼に疑いをかける。彼がいつも満足した表情で家に帰ってくるのは、庭に宝物を隠しているのにちがいないと。そして妻は、夫の食事に毒を盛り、彼を病気にしてしまいます。だけど、弱った夫に庭の宝物の在り処を吐かせようとしても、彼はなかなかそれをいいません。はじめから宝物なんてないから当たり前なのですが、妻は諦めて、病気の夫を残し家を出ていってしまいます。
妻の姿が見えなくなると、男は妻を殺した疑いを村人たちからかけられます。そして村の代表者であるイマムが、ある日庭の手入れをしている男を訪ねてくるのです。
イマムは男に、美しい庭のことをアッラーに感謝せねばならない、と伝えます。だけど男は、忘れてしまったのか”アッラー”の名がわかならい。
「それはだれのことですか。聞いたことのない名前だなあ。わたしはこの庭を自分で作ったんですよ。溝という溝を掘り、樹を一本ずつ植えて。だれも手伝ってくれなかった。だからだれにも借りなんてありませんや。」
アッラーの名を知らないという男を、イマムは気が狂ったと決めつけ、彼をこれ以上この村で生かしておくことはできないとします。小さな子供たちですら、彼に石を投げ、汚い言葉を浴びせます。子供たちの投げた石が頭に命中すると、男は「どうしてわたしに石を投げたりするのかね。」と問うのですが、子供はもちろん答えません。そしてその後、やってきた一行に男は鍬と鎌で殴られ、殺されます。
この物語はさまざまな見方ができると思うのですが、私が思ったのは「正義という名の暴力」みたいなことです。こんなふうにわかりやすい言葉にしてしまうと陳腐になってしまうんですけど、男はただ庭の手入れをして、その美しさに満足していただけだったわけです。それが、妻に毒を盛られ、アッラーの名を忘れたことで異端とされ、子供にまで暴力を振るわれ、最後に殺される。残ったのは、荒れはてた庭に枯れた樹々。そして庭は、いつしか風化し砂漠と化します。
この物語にあるようなことは、いつの時代、どの社会にだって起こりうることです。小説の主題としては、それほど珍しいものでもないのかもしれない。だけど私は、最後、男の美しい庭が砂漠と化した、というちょっと幻想的な描写にウッとなるのです。暴力によって、美しいものは失われます。そしてそれは、いつしか砂漠へと姿を変え、もうそこに美しいオアシスがあったことなどだれも思い出さなくなるのです。私はそういうことをとても悲しく思うので、これちょっと泣けましたね。2016年初泣き小説です。
話を変えると、『庭』を読んでいて思い出したのは、ボウルズの妻、ジェインに関する噂話です。ボウルズの妻でありながらもレズビアンであった彼女は、現地の無学文盲のベルベル人の女に誘惑され、財産から家まで搾り取られてしまいます。女は、ジェインの食事に毒を盛っていたとか、いないとか。それから、ボウルズとジェインの住んでいた家の「庭」から、女がジェインの精神をおかしくさせるために使った黒魔術の品が、出てきたとか出てこなかったとか。『庭』は、妻のジェインと、その妻を誘惑した現地の女、シェリファの物語が元になっているのではないかと、私は邪推してしまいました。
次はどれいこうかな
というわけで、『優雅な獲物』の感想文はおしまいです。次は少し先になりそうですが、『蜘蛛の家』とか読んでみようかな。
『優雅な獲物』の巻末には、訳者によるボウルズへのインタビューが載っているんですが、ある時期までモロッコの地では、イスラム教徒でない者はおしなべて恐ろしい連中だ、ということになっていたらしい。ボウルズが現地の子供に金をせがまれたので叱りつけると、代わりに子供はボウルズを、ジュウ、ジュウ、と囃し立てたそうです。ジュウとは、ユダヤ人のことです。スペインから逃れてきたユダヤ教徒セファルディは、モロッコでどんな扱いを受けていたのでしょう。そして彼らが戦後流れ着いた、イスラエルでは?
歴史と文学はつながっています。旅と文学もつながっています。だから私は、旅をしながら、その地の美しさを、文学が語る物語を、そして文学を生み出した歴史を、全身で浴びてかんじたいなあと、いつもいつも思うのです。
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