チェコ好きの日記

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なぜ私はあの人が好きなのかしら

先日、山本英夫さんの『ホムンクルス』というマンガを全巻ほぼ一気読みした。

それで、そのまま同じく山本さんの『のぞき屋』『新のぞき屋』も全巻ほぼ一気読みした。ちなみに、『のぞき屋』『新のぞき屋』はKindleUnlimitedで読めるよ。マンガ読むのってお金かかるよね。

新のぞき屋1巻

新のぞき屋1巻

こちらは全1巻らしい
のぞき屋 1巻

のぞき屋 1巻

「人間の真の姿」を描きたい山本英夫

さて、『ホムンクルス』と『新のぞき屋』(『のぞき屋』も)で描かれているテーマは、設定こそ違えど同じだと言えると思う。2作品とも、「人間の真の姿」を描きたい、という欲求が作者にあったのではないだろうか。「人間の真の姿」というのが少々大げさに感じるなら、「あの人、本当のところは何考えてんのかな」でもいい。

ホムンクルス』ではそれをトレパネーション(頭蓋骨に穴を空けるオカルトな手術)で得た超能力によって、『新のぞき屋』では盗聴器や尾行によって、垣間見ようとする。他の作品は読んでないからわからないけど、少なくとも2作品で同じテーマを繰り返し描いているということは、山本英夫さんにとって「人間の真の姿」とはそこそこ大事な、大きなテーマなのだろう。

時系列的には『新のぞき屋』のほうが先に描かれた作品(1993年-1997年)なのでこちらのほうから触れると、主人公の見(ケン)は探偵、というか「のぞき屋」を稼業にしている。依頼主から失踪者を探してくれだの浮気・素行調査をしてくれだのと仕事を受け、盗聴器やコンクリートマイクを駆使し、あるときは尾行やピッキングなどもして、ターゲットの「真の姿」を仲間と共に暴いていく。なぜ見がこのような仕事をしているかというと、見が、のぞきが趣味ののぞき魔だからである。といっても、女性の着替えをのぞくとかそういうエッチな方面ののぞきではなくて、表で澄ました顔をしている人間が裏で何をやっているのとか、そういうのをのぞくのが「趣味」らしい。品行方正で成績優秀なあの子、実はエンコーやってんだってよ! とか、そういうのだ。

変わって、『ホムンクルス』(2003年-2011年)は超能力で人を見る。トレパネーションで特殊能力を得た主人公の名越は、右目を隠して左目で人間を見ると、その人間の深層心理に眠るトラウマやコンプレックスを、妖怪のように具現化して見ることができる。

ならべてみると(ならべるっつっても2作品だけど)「なるほど〜」という感じが私はする。つまり、『新のぞき屋』の頃の山本さんは、1人の人間を朝から晩までびっちり尾行して、家庭・会社(学校)・友人との飲み会・恋人(愛人)とのデートなどなど、すべてを見ればその人の「真の姿」がわかるはずだ、と考えていたのではないだろうか。しかし『ホムンクルス』の頃になると、人間の「真の姿」を構成しているのは現在だけでなく過去(深層心理)の要素も大きく、そこまで含めないと「真の姿」は見えない、と考えるようになっていたのかなと思う。そして名越は超能力を得たとはいえすべての人間の深層心理をのぞけるわけではなく、自分と同調するトラウマ・コンプレックスを持った人間でないと妖怪化して見ることができない。これもなかなか凝った設定だなと思う。ふむー。あなたはもし持てるとしたら、類稀なるのぞきテクと超能力、どっちが欲しいですか? 私は超能力かな(法に触れないので)。

あとはやっぱり、本当に「見る」だけならのぞきでいいんだけど、その人間に直に触れるためには深層心理的な部分にタッチせざるを得なくなる。だから同じ「人間の真の姿」を扱っているといえど、「見る」だけだった『新のぞき屋』が『ホムンクルス』になって「触れる」ところまで進んだと考えると、山本さんの中でこのテーマが発展・熟成したことがわかって面白い。『新のぞき屋』の見(ケン)は名前のごとく「見ることしかできない自分」を後半でとてももどかしく感じるようになってきていて、そういう意味では相手と直に接触を試みている『ホムンクルス』は『新のぞき屋』の姿を変えた続編だったんじゃないかとさえ言えそうだ。

ホムンクルス』はなぜバッドエンドだったのか

ところで、以下は微妙にネタバレになってしまうけど、『ホムンクルス』のラストはバッドエンドに終わる。まあ、あれをバッドではなくハッピーと見なす解釈もできなくはないかもしれないが、基本的な見方としてはやはりバッドエンドだろう。「見る」だけでなくその人のトラウマやコンプレックスに直に触れるところまで発展した『ホムンクルス』の名越は、なぜ幸せになれなかったんだろう? 読み終わったあとしばし考え込んでしまった。

「あの人が本当のところ何考えてるのか知りたい」という欲求は、「私が本当のところ何考えてるのか知ってほしい」という欲求と通じるところがある。『新のぞき屋』では前者にばかり焦点が当たって後者は不完全燃焼気味に終わるのだけど、『ホムンクルス』は後者を徹底的に突き詰めた結果、主人公が不幸になってしまう。「私のことを知ってほしい」ってそんなに狂気じみた感情で、思っちゃいけないことなのか!? これはちょっと救いがなさすぎるのではないかと一瞬思った。

と、ここで自分が昔書いたnoteの日記を思い出してみる。
note.mu

ここに書いたことを今読み直すと、『ホムンクルス』と基本通念がガチガチに通じている! と我ながら思う(自己評価です)。私たちの身の回りには「好きな人」「嫌いな人」「感じのいい人」「感じの悪い人」などなどが様々なグラデーションで存在しているわけだけど、自分に何らかの感情をもたらす人は良くも悪くも自分と同調するところがあるのだ。私はそれを、「好きな人」は自分の未来にいる存在であり、「嫌いな人」は自分の現在あるいは過去にいる存在なのではないかと考えたのだけど、この考えに沿わせると『ホムンクルス』の主人公がなぜ幸せになれなかったのかが、ちょっとわかる。

もちろん私の解釈だけど、名越は相手に、「未来」を見ていなかった。今がこうで、過去がこうだった、ということに拘りすぎていたのかなと思う。昔のことは消えるわけじゃないがとりあえず脇に置いといて、これからどうしていきたいかとか、どうなりたいかとか、そういう気持ちがないと、純度の高い「好き」は生まれないのかもしれない。まあ、打算を一切抜きに人を好きになるというのもなかなか難しいので(母が子を愛す気持ちにだって生物学レベルの打算がある)、純度の高い「好き」なんて考え方自体が幻想じみてるかもしれないけど。

そしてちょっとビビるのが、私がnoteに「すべてがつながっているような気がしてハッピーでピース」などという少々頭沸いてることを書いていることで、これは『ホムンクルス』のラストとなかなか似ている。突き詰めるとこうなってしまうわけで、私たちは永遠に、「人とのつながり」と「人との分断」の間を彷徨い続けるしかないのだろう。どちらかに振り切ると、それは精神の病につながる。


ホムンクルス』もUnlimitedの対象だったらよかったのだけど、こちらは普通のKindle版しかありません。でも面白かった。