そこまで経験豊富なわけじゃないが、どちらかといえば海外によく行っているほうだと思う。もう二十代のときみたいに一年に一回以上のペースでは旅をしないかもしれないけど、たぶんこれは性分のようなものだから、今後も思い立ったときにどこか知らない場所へ、一人でふらりと出かけることがあるはずだ。金のかかる趣味を持つ人間になってしまった。普段は酒も飲まないし家で大人しく読書してるだけの人間だから、神様ゆるして。
しかし、二十代の頃に感じていたような「わあ! あれもすごい、これもすごい、全部すごい〜〜〜〜!!!」みたいな、新鮮なわくわくは正直もう感じなくなったな、と思う。私がなぜブログやTwitterで旅行のことを発信するのかというと、当然見た人に「こんな場所があるんだ! いつか行ってみたいなあ!」と思って欲しいからで(※厳密には一人旅なので生存確認の意味もある)、そして実際本当に行ってみて欲しいからで、じゃあそんな夢壊すようなこと言うなよって感じなのだけど。まあ、風景とか建築とかじゃもうそう簡単には心動かないっすね。慣れちゃったから。
二十代の頃は、まだまだ私の知らない世界が、想像もつかないような世界があるんだと思っていた。もちろん、三十代だろうが四十代だろうが知らない世界はあるし、死ぬまでそれはなくならないけど。
でも、一人旅を繰り返して心底理解したのは、人間の本質ってのはどこの誰であろうとそんなに根本的には変わらないってことだ。本質っていうとちょっと違うかな、人間ってのはどこの誰であろうと、「だらっとした退屈な日常」みたいなものを、みんな抱えてるんだみたいなこと。
こちらは観光客だから、行く先々のものがキラキラして見えるし目新しいんだけど、当然、現地の人には現地の人の生活があって、日常がそんなキラキラしているわけではない。早く仕事終わんねえかなとか、土産買わねえのかよこのクソ観光客とか、どうでもいいから金欲しいなあ〜〜とか、まあ世界中誰でもだいたいそんなことを考えている(と、私は思う)。
でもそのことに、私はいちいち失望なんかしない。なんていうか、旅行を繰り返してきて、それこそが人間だと思うようになった。多かれ少なかれ、みんな孤独だし、怠惰だし、退屈だし、不安だ。「みんなだいたいそう」ってことに気付いたら、自分の孤独も怠惰も退屈も不安も、許せるようになった。
二十代の頃の旅行は、どこか桃源郷的なものを夢見て出かけていた気がする。この世には孤独も怠惰も退屈も不安も感じない生き方があって、身に付ければ私もそれを体現できるんじゃないかと。でも残念ながら、そんな生き方は、ない。もちろん個人差はあるし、その割合を減らすくらいはできるかもしれないけど、それらを完全になくす生き方なんてない。これが現時点での私の結論である。
まあだから、三十代の少しペースを落とすだろう旅は、もう桃源郷を夢見て出かけたりなんかしない。私は誰かの、孤独で怠惰で退屈で不安な日常に、ちょこっとお邪魔させてもらうだけだ。「この素敵な街にもし住むことになったら、最初の二カ月くらいはめっちゃ楽しいけど、すぐ飽きてつまんねーって言うようになるだろうな」なんて苦笑いしながら、カフェで街行く人を観察する。別に、世界中どこの街だろうと、街行く人がとりたてて楽しそうな顔をしているところなんてない。
でも、それでいいんだと思う。つまんなくていいんだ、日常は。不思議なことに、つまんないけど、つまんないが積み重なるとそれはそれでけっこう重みがある。つまんない日常は、別に軽いわけではない。
今はイタリアのナポリにいて、もう少ししたら日本に帰るんだけど、ナポリの道行く人、別にみんな楽しそうなんかじゃないよ。クスリやってそうな奴ならいるけど、それは楽しそうの意味が違うしな。
次がいつになるかわかんないけど、私はまた、誰かの退屈な日常をのぞきに行きたいな、行くんだろうなって思う。桃源郷なんてないけど、そんなもんはもう探してないし、なくていいんだ。