「せんせー、テストを担当するせんせーは、だれに、なる、ますか?」
私の横で、上手とカタコトの中間くらいの日本語でトレーナーに質問しているのは、フランス人のシルヴィである。
「あー、担当トレーナーは当日まで教えられない規則なんですよ。申し訳ないけど」
「え〜〜、でも、わたし、初めてのせんせーだと、日本語が、聞きとれないかも……です。フランス人だから」
シルヴィいわく、慣れているトレーナーならばアクセントの癖などを把握しているので日本語の指示が聞きとれるが、対面するのが初めてのトレーナーだと言葉を聞きとりづらいことがあるらしく、それが不安だというのである。
「そういうことなら、ちょっと掛け合ってみるけど、僕からはなんとも言えないっていうか」
「せんせー、お願い。お願いします〜〜〜」
棒のように突っ立っている私の横で、トレーナーに必死に懇願するシルヴィ。私も一緒になんかいってあげようかなと思ったけれど、ていうか本来はそのために横にいるんだけど、いうべきことが思いつかない。トレーナーとシルヴィの顔を交互に見ながら、「そっスよね」「うん、そっスよね」といった具合で、無言で頷くことしかできなかった。
シルヴィとは、練習日のタイミングが重なることが多く、気が付いたら毎回一緒にペアを組んで練習する仲になっていた。シルヴィは私よりだいぶ身長が高いし筋肉量も多いので、体格の上で最適な練習相手といえるかどうかはわからない。とはいえ、いつも誰と組むかわからない状態で練習に行くよりは、「今日もシルヴィがいるかも」と思いながら教室に行くほうが精神的にはだいぶラクだ。そのうち、通っている回数もほぼ同じであることが会話しているうちに判明し、「一緒の日に昇級テストを受けようぜ!」という中学生のような約束を、私とシルヴィは交わした。
「わたし、顔面を防御する練習のとき、すごく不利〜〜。なぜならフランス人で、鼻が高いから。フフフ」
彼女はいつも絶妙なフレンチ・ジョークで私を笑わせてくれる。文章で書くとあんま面白くないが、実際に彼女がいうと、なんだかとても気の利いた冗談であるような気がしてしまう。うーん、これがエスプリってやつなのだろうか。私もウィットに富んでかつエスプリの効いたジョークをさらっとかませる人間になりたいぞ。
さらに、シルヴィと話していると、自身の日本語能力を試されている気分になる。
「あのー、日本語の質問デス。わたしは、テストを、受ける。せんせーは、テストを、なんという?」
「えっ、『受けさせる』じゃない……???」
「へ〜〜、ほんとに? ほんとに『受けさせる』〜〜〜!?」
「え、たぶん……。間違ってたら、ごめん…………」
他、「足の指のことはなんという?」「えっ、足の指は、『足の指』でいいんじゃない……?」などなど、私はシルヴィに日本語の質問をされるといつも挙動不審になりオドオドしてしまう。そしてその場でiPhoneを取り出しGoogle先生に「足の指 別 言い方」とあまり賢いとは思えないお伺いを立て、「いや、やっぱ、足の指は『足の指』だと思う……」と自信なさげに再度返答し、「ほんとに〜〜!?」と疑われ、ますます日本語の自信を失っていくのであった。
(※これに関しては後日、シルヴィは「親指」「中指」など個別の指の名称を知りたかったのだということが判明した。)
そんなシルヴィに、「テストについて、せんせーに聞きたいことがあるから、一緒に来てっ」と頼まれると断れない。冷静に考えると「大人なんだから質問くらい一人で行ってくれよ」という感じであるが、シルヴィの前では私はどうも「NOと言えない日本人」になってしまうらしかった。
かくして、齢30歳にして「友達が先生に質問するのにくっついてく」というめちゃめちゃ既視感のある貴重な体験をさせてもらうことができ、シルヴィが「せんせー」と呼びかけている横で、「うわ、これ昔めっちゃやったやつ。中学生のときにやったやつ」と私は15年前の記憶を蘇らせていた。なんか、テスト範囲とかについてやたら細かい質問を先生にしたがる女子、いませんでしたか。私はそういう子に、こんなふうによく「一緒に来てっ」と言われてくっついていって、先生とその子のやりとりを何も言わずに聞きながら「早く帰りてえな〜」と思っていた。それからさ、私も一応女子だったから、得体の知れないカラフルなペンで手紙とか書いて、それをハート形に折って授業中に友達と回したりしていたんだよネ。大人になって、そんなこと、もうすっかり忘れていたよ。
何の話をしてるんだっけ、そう、格闘技の話である。そんな具合で私とシルヴィはともに6月上旬の昇級テストに臨むことになったのだが、申し込みの際に「テストの受検に、月謝とは別に8000円と受検用Tシャツ代3000円をいただきま〜す」と受付のお姉さんに言われ、そのときは「ちくしょ、ボロい商売しやがってクソが」と思った。
4時間にわたる体力テスト、打撃テスト、護身テストになんとか耐え、結論からいうと、私は昇級テストに合格した。
後日トレーナーからいただいた講評は、意訳すると以下のようなものだった。
総合評価(A〜E) B−合格
長時間のテストたいへんお疲れ様でした。
打撃・護身ともにフォームに忠実であり、頭では、非常によく動きを理解していると思います。なぜそこで体重移動をするのか、どこで力を最大限にすべきなのか、頭では、とてもよくわかっているという印象を受けました。
さて、頭で理解しているということは、教室内ではそれなりの力を発揮できますが、逆にいうと、パニックになって頭が真っ白になってしまったら、手も足も出ないということです。つまり、一歩教室の外に出てしまったら、あなたはチンピラに襲われても何もできません。上級クラスではぜひ、頭ではなく身体に染み込ませるように動きを覚え、頭が真っ白になっても、何も考えられなくなっても、考えるより先に手足が出るようになりましょう。
それと、あなたの体格だとどうしても打撃の威力に限界があるので、今もけっこう頑張ってるとは思いますが、さらにもうちょっと頑張って筋肉をつけましょう。以上
頭では、という部分がいやに強調されていた気がする文面だったが、それは私が超言語優位の人間で、いつも頭の中で理屈をこねまわしていることをコンプレックスに思っているが故の被害妄想かもしれない。しかし何はともあれ、合格は合格である。
後日、上級クラスの時間帯に合わせて練習に行くと、そこにはシルヴィの姿があって、私たちは中学生みたいに手を取り合って互いの合格を喜んだ。30歳になっても私は「一緒に来てっ」と言われて友達の質問にくっついていくし、中学生みたいに友達と合格を喜んでいる。この事実を15年前の私が好ましく思うか、それとも失望するかわからないが、それはそれとして、私はこんな大人になってしまった。
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さて、上級クラスの練習は、下級クラスの練習よりも、とても面白い。どこがどう変わって、どこがどう面白いのか説明しろと言われると難しいのだが、覚える技が少し高度になって、「私の体でもこんなことができるんだ!」という発見がある。
人間の体には、強い部分と弱い部分がある。弱い部分は一般的には「急所」といい、男性のだいじなところなどがその代表例であるわけだが、「ここね、急所なんだよ〜ホラ」とトレーナーにひざのあたりを軽く突っつかれて「ぎゃあああああああ!」と悶絶している人を見ると、私たちは本当に自分の体なのに何も知らないんだな、と思う。「ここをこうするとね、力のない女性でも簡単に相手の骨を折ることができるんだよ」などというトレーナーの説明を、私はものすごく熱心に聞いている。いつ使うつもりなんだその知識。
さしあたって、今の悩みは、上級クラスで使用することになった「シンガード」だ。こういう、練習に必要な備品を教室ではレンタルしてくれるのだが、私は足が短いので、シンガードを足にはめると上がだいぶ余ってぺこぺこしてしまうのである。「女性用(ていうか、短足用)はないんですか……?」と受付のお姉さんに聞いたら「ない」と言われたので、私は今、ぺこぺこを我慢するかマイ・シンガードを買うかで悩んでいる。別にケチってるわけじゃなくて、まあケチってもいるけど、あれを練習日のたびに家から持って行ったり持ち帰ったりするのがめんどくさいのよ。
そんなわけで、私の格闘の日々は、まだ続きそうだ。