チェコ好きの日記

もしかしたら木曜日の22時に更新されるかもしれないブログ

Twitterのフォロワー数で抜かれたくない人

少し前、大学院時代の恩師がTwitterを始めたのを発見してしまい、ひそかに戦慄した。


フォローせずにそっと見守ろうかとも思ったが、それも卑怯な気がするし、私も私でこれで一応、毎日を精一杯に頑張っているのだ。何も恥ずかしいことなどない。それに、「チェコ好き」は本名ではないから、きっと先生はそれがかつての教え子であるとはお気付きにならないだろう……というわけで、堂々と「フォローする」を押した。


おかげで私のTLには、先生の言葉が、わずかながらも毎日流れてくるようになった。

たくさんのツイートに混ざって流れていく先生の言葉はさながら、きらめく一筋の清流だ。「美しく可愛く、シックで切なく」がぼくのモットーだよ、とかつて先生は微笑みながらおっしゃっていた。すでに定年をむかえられ、先生は大学の教授職を退かれているけれど、そのかつての言葉どおりに、相も変わらず日々を美しく可愛く、シックで切ない言葉で綴られている。最近はまたイタリアとフランスを旅されていたようで、ジョルジュ・バタイユが最期のときを過ごした家を、ツイートで紹介されていた。庭園、聖堂などさまざまな場所を訪ね歩いている様子を見るに、8年前と変わらずご健脚でおられるのだなあと、私は嬉しく思った。


しかし。先生は清流のごとく静かにTwitterをやられているが、元が有名人なため、すぐに認知が広がってしまったらしい。

あるとき確認すると、あっという間にフォロワーが2000人をこえていた。この調子だと、3000人、5000人に達するのもおそらく時間の問題である。先生のツイートが200RTくらいされているところを見つけると、「先生がおバズりなさっている……!」と私はドキドキしてしまう。かつて知人が先生のことを、「え、あの方まだ生きてるの? 偉人感がパないから故人かと思ってた〜」と言っていたが、ご存命でいらっしゃいます! バリバリTwitterやってます! しかもけっこうバズってます!


先生はかつて、「ぼくは自分の名前が目に入るのが嫌で……」と、レジュメに自分の名前を印刷するのを頑なに避けていた。その代わりに、☆マークを自分の名前のしるしとして、サイン代わりに使われていた。

今も先生のツイートには、文末に必ずその☆マークが入っている。☆マークがTLできらめくたびに、私は、自分のすべてを映画研究に捧げていた二度と還れない日々を、何にもなれずどこにも行けなかった鬱屈とした院生時代を、思い出す。閉塞感が息苦しくて芸術学科に嫌気がさしていたとき、「うちのゼミにいらっしゃい」と腐っていた私を優しく仏文ゼミに迎え入れてくださったのは、先生だった。


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私が旅行を好きになったのも、今思えば先生のおかげだ。芸術学科のくせに、図々しくも仏文のゼミ旅行に混ざって連れていってもらったのである。

あの旅で見たフィレンツェの、ローマの、そしてパリの美しさは、8年以上経った今でも私の生きる支えになっている。あの旅があったから私は、もっともっといろいろな世界を見てみたいと、以降も自分の足で様々な国へ足を運ぶようになったのだ。「人生が変わる!」なんて簡単に言ったら安っぽくなるが、私の人生はあの旅行がなかったら、おそらくまったく違うものになっていただろう。「旅は、時間の芸術だよ」という美しい言葉を教えてくれたのもまた、先生だった。


足が悪く、杖をつきながらも我々生徒たちの誰よりも先に、誰よりも速く歩いていた先生。「ぼくは本当は行きたくないし、どっちでもいいんだけど」などと言いながら、さまざまな旅プランを毎週大量のレジュメにまとめあげてきてくれていた先生。

そんな先生は、少々繊細なところがあるようで、ゼミの先輩に「旅行中は、なるべくたくさんお手紙を書いてあげて。そうしないと先生は、『今日連れていったところはつまらなかったかな……?』『今日食べさせたものは美味しくなかったかな……?』と気にされてしまうから……」とアドバイスされた。そのときは「めんどくせ! 女子か!」と思ったが、先生に落ち込まれてしまってはかなわない。私はフィレンツェで、ローマで、パリで、1日の終わりに宿の部屋で先生にお手紙を書いた。眠かったけど、書いた。

先輩のアドバイスはまだ続く。「それでね、そのお手紙を直接渡してはだめ。直接渡したら、きっと先生は照れてしまわれるから……」

じゃあみんなどうしてるんだと尋ねると、「先生の寝ている部屋のドアの下に、そっとはさんでおくの」と来た。女子か、っていうか女学校か。少女漫画に出てくる50年前くらいの女学校なのかここは。しかし、郷に入っては郷に従え、それがここのルールならばと、私は眠目をこすってしたためたお手紙を、夜にそっと先生の寝ている部屋のドアの下にはさんでおいた。他にもたくさん、ドアの下にはゼミの仲間たちが書いたお手紙がはさまっていた。めんどくせと思っていたが、明くる朝、それらを見た先生の顔がぱっと明るくなって喜んでくれているところを想像したら、だんだん女子でも50年前の女学校でも何でもいいやという気分になっていった。ドアの下にお手紙をはさむなんて、あんなおとめちっくなことをしたのは私の人生でこの後にも先にもない。


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内田樹さんは、『先生はえらい』という本の中で、「恋人に出会うことと、先生に出会うことは似ている」と書いている。共通点は、「美しき勘違い」である。この人の素敵なところにただ私だけは気付いているという恋愛と、この人のすごいところをただ私だけは知っているという師弟関係。師への思いを語ることは、恋人への思いを語ることと同じだと、内田さんは続ける。だとしたら私は、このブログで盛大な「のろけ」を書いていることになる。

先生はえらい (ちくまプリマー新書)

先生はえらい (ちくまプリマー新書)


それは確かにその通りで、30歳にもなって学生時代の思い出をのろけているなんてカッコ悪いなと思う反面、私は今でも、先生の教え子だったことが誇りだ。これから先も、ずっとずっと誇りだ。先生は大事なことをたくさん教えてくれたけど、その1つ1つはどれもすごいことじゃない。「旅行中はどんなに疲れていても、日記を毎日書きなさい」とかそんなことだけど、すごいことじゃないことが、8年経った今でも残り続けているということがすごい。私は本当に、今でも先生の教えを忠実に守っているんだよ。


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……と、まあここまでで美しき師弟関係の話にしてもいいんだけど、最近の私は、いつ先生にTwitterでフォロワー数を抜かれるかと気が気じゃない。なぜなら、私ごときの人間が先生にかなうものなんて1つもないとずっとずっと思っていたのに、今、Twitterのフォロワー数だけは、まだかろうじて私のほうが先生より多いからである。せ、先生、インターネットの世界の知名度では、私のほうが上だぜ!!!

もちろん先生は、フォロワー数なんて露ほども気にかけていないはずで、その前にはたして「フォロワー数」という概念をご存知であるかどうかもわからない(なんか数字増えてるな? これなんだろ? くらいに思ってそう)。むしろ、私がそんな虚構の数字に惑わされていることがバレたら、さぞかしお嘆きになるだろう。で、で、でも、先生に、先生に負けたくないんじゃあ〜〜〜〜〜〜〜!!!

というわけで、私は先生のツイートがおバズりなさっているのを見かけるたびに「チッ」と悪態をついているのであった。まったく可愛くない教え子である。しかし、すでに確固たる地位を築き終わり、卑しい承認要求など欠片ほども持ち合わせていない人間が、何の得になるかもわからないTwitterを始めるというのはやはりすごい。先生の精神はいつまでもやわらかく、お若いのだ。ああやっぱり先生にはかなわないな、私も頑張らなきゃ、と思う。


インターネットなんて大嫌い大嫌いと毎日のように言っているけれど、先生の新しい言葉が今でも毎日読めることには、やっぱり感謝しないといけないのかもしれない。