チェコ好きの日記

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感想文:雨宮まみ『東京を生きる』

人の訃報に触れてその人の本を手にとってみるという行為は、咎められはしないもののあまり品の良い行ないだとは思えない。だけど、そういえばどんなことを書いていた人だったんだっけ、とAmazonで検索していたらどうにも止まらなくなってしまい、気が付いたときには雨宮まみさんの『東京を生きる』が自宅に届いていた。

東京を生きる

東京を生きる

読み終わったとき、私は残念ながらこの本で雨宮まみさんが描いた世界には1ミリも共感できない、とまず思った。

だけど、私はそもそも「共感」というものに、あまり価値を置いていない。共感できるから素晴らしくて、共感できないから理解できないなんて考えは、悪いけどちょっと幼稚だなーと思う。1ミリも共感できなくても素晴らしいと感じるものはあるし、すごく共感できるけどくだらないと感じるものもある。『東京を生きる』は前者だった。

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『東京を生きる』に登場する東京は、クレイジーな都市だ。

ここで私が、「東京は、クレイジーな都市だ。」という書き方をしないのは、当然ながら、クレイジーであるだけが東京ではないからである。少なくとも、私が普段見ている東京は、こんなクレイジーではない。もちろん、どちらの東京が正しい姿か、どの東京が真の姿かなんて考えるのは滑稽で、その人にそう見えているのなら、それは紛れもない「真の姿」だ。

『東京を生きる』に登場する東京は、こんなふうに描写されている。どの描写も、びっくりするくらい下品で、醜く、派手で、そして美しい。

東京の夜景の、ビルの上の赤く点滅する灯りが好きだ。
東京湾にそびえ立つ無数のクレーンが好きだ。
まばゆく光る夜景の中で、そこだけ真っ暗に沈み込む代々木公園や新宿御苑の森が好きだ。
街灯が十字架の形に光る青山墓地が好きだ。
生きている者の欲望のためにいくらでもだらしなく姿を変えてゆく、醜い街が好きだ。


ほかの街では、夢を見ることができない。ほかの街では、息をすることもできない。
(p.8)

しかしこんなような描写を読み進めていくうちに、不思議な既視感が沸き起こる。私はこれを、以前どこかで読んだことがあるような気がする。

……しばし考えて、おお、これは私が好きすぎて50回以上通読しているスコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』にそっくりの世界じゃないか〜! と思い至った。

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

グレート・ギャツビー』に登場するのは、1920年代のニューヨーク、マンハッタンだ。

大きな橋を渡る。橋梁を突き抜ける日射しが、行きかう車をちらちら光らせ、川の向こうには大都会が、白く、うずたかく、角砂糖のように立ち上がる。うさんくさい金をうさんくさいとも思わず、金で願いごとをかなえた街──。クイーンズボロ橋から見る都会は、いつ見ても初めて見るようだ。世界中の謎と美を、いま初めて差し出してくれるように見える。
グレート・ギャッツビー (光文社古典新訳文庫)』(p.111〜112)

雨宮まみさんが描く東京と、フィッツジェラルドが描くニューヨークは、とてもよく似ている。雨宮さんがよく通ったという東京のクラブは、ジェイ・ギャツビーがお城のような邸宅で開催していたパーティーと重なるし、欲望を叶えるためにはとにかくお金が必要で、都市の中で消費の渦に飲み込まれていくところもよく似ている。そんな生活を、「空虚だ」「中身がない」「地に足がついていない」と一蹴するのはたやすいのだけれど、しかしそれは、「空虚で」「中身がなく」「地に足がついていない」からこそ美しいのだ。正しいものが美しいとは限らない。上品なものが美しいとも限らない。どうしようもなく間違っていて、下品で、しかしそれ故に美しいというものが、この世界にはあるのだ。

そういえば、『東京を生きる』には、こんな描写もあった。

走る夢を見ている。マラソンのランナーのように、私は走っている。正確には、走ろうとしている。空気の抵抗が、まるで水中にいるみたいに重く、私は両手を交互に、空を切り裂くように必死で動かしながら、全身で走ろうとする。(中略)
悪夢というわけではない。ただ、「もっと速く走れるはずなのに」と思う。もっと速く、力いっぱい走れたら気持ちいいのに、と。
(p.49)

実は『グレート・ギャツビー』にも、同じような描写がある。私がこの小説で、いちばん好きな部分だ。引用が続き恐縮だが、こちらもちょっと読んでみてほしい。

ギャツビーは緑の灯火を信じていた。年を追うごとに我々の前からどんどん遠のいていく、陶酔に満ちた未来を。それはあのとき我々の手からすり抜けていった。でもまだ大丈夫。明日はもっと速く走ろう。両腕をもっと先まで差し出そう。……そうすればある晴れた朝に──
だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも。
グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)』(p.325-326)

もっと速く走れるはず。もっと両腕を先まで差し出せば、きっと自分の望む未来が手に入る。そう思って、必死にボートを漕ぎ続ける。だけどそのボートは、過去に押し戻されている。『東京を生きる』では、東京と同じくらい、雨宮さんの故郷である福岡が、憎しみとともに登場する。ジェイ・ギャツビーが目指した未来も、戦争に行く前に愛し合っていた、でも今はもう心変わりしてしまったデイジーを、もう一度手に入れることだった。前進しているようで後退している。だけど、人間なんて皆そんなものだろう。1920年代のニューヨークでも、2010年代の東京でも、それは変わらないのだ。過去に負った傷を、大人になってからも必死に塞ごうとしている。

もしフィッツジェラルドに『東京を生きる』を読ませたら、めちゃくちゃ喜ぶんじゃないかと思う。あなたが描いたニューヨークと同じ世界が、百年後の、ニューヨークとは遠く離れた場所にもあるんですよと伝えたら、彼はどんな顔をするだろう。

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ここから先は、もしかしたら読んでいて嫌な気分になる人がいるかもしれない。だけど、少し私自身のことも書いてみる。

実は私は、自分の欲しいものが、かなりはっきりとわかっている人間だ。冒頭に「1ミリも共感できなかった」と書いたが、その理由は主にここにある。『東京に生きる』の雨宮まみさんは、「自分の欲望がよくわからない」といっていて、週末の夜に、「何か」が欲しくて都心にぶらりと買い物に出かけ、孤独を感じたりしている。私は、そんなことはしない。ついでにいうと、関係があるかどうかはわからないが、私の家のクローゼットには、いわゆる「タンスの肥やし」が一着もなかったりする。実用性のないものをほとんど買わないし、うちに訪ねてきた人はだいたい家の中を見回して「モノが少ないね」というので、どちらかというと一時期良くも悪くも流行ったミニマリストの傾向に自分はあるのだと思う。物欲もほとんどない。

もちろん悩むことはあるが、それは「欲しいもの」を手に入れるための道順や効率に悩んでいるのであって、「欲しいもの」自体に迷いはないのだ。だから、人と比べて収入が少ないかもとか、もう30歳なのに未婚でどうしようとか、そういうことで私は悩まない。人と自分を比較するということをほとんどしないし、自分が人からどう見られていても、別にかまわないと思う。

だけど、『東京を生きる』を読んでいると、そんな私の生き方って何だか小賢しいし、魅力がなくてつまんないかな、と思う瞬間がある。これは謙遜でも何でもなく、本当にそう思うのだ。人はときに悩み葛藤するその姿こそが魅力的で、他の人の心を動かすことができる。だけど、私にはそれができない、と思う。

自分に不要なものをどんどん捨てていく行為は、「正しい」かもしれないけど、はたして美しいだろうか。早朝に目覚めて、香り高い珈琲を淹れて、バリバリ仕事をこなして1日を精力的に過ごすことは、「正しい」かもしれないけど、はたして美しいだろうか。それってレディオヘッドが歌うところの、「抗生物質漬けの豚」ってやつじゃないのか? 不要かもしれないものに囲まれて、欲しいものがわからず、その中で葛藤していてもいいのではないか。深夜までぐじぐじと悩んで泣いて、目覚めたら昼過ぎで、何もせずに1日が終わっても、そんな日は本当に価値がないだろうか。


フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を読んで以来、絶対に叶わない夢を私は抱いていた。彼が妻のゼルダと過ごした、1920年代のニューヨークをこの目で見ることができたら、どんなに素敵だろうと思っていたのだ。

だけど、実はその世界って、すぐそばにあったのかもしれない。人間は変わらない。百年経っても、遠く離れていても、そこで営まれる人間の行ないは、同じだ。


もう、1920年代のニューヨークが見たいと私は思わない。

そこはきっと、良い面も悪い面も、かっこいいところもダサいところも、今私が見ている世界と、そんなにかけ離れてはいないだろうから。『東京を生きる』を読んで、私はそれがよくよくわかった気がする。

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【1】サイババの弟子に未来を占ってもらってきた。

私が今年いちばん感動した本について。:国分拓『ヤノマミ』 - チェコ好きの日記

前回の書評でフライングして始まっているのだけど、11月に、バリ島を中心にインドネシアを旅行してきた。なぜバリ島だったのかというと、友人の結婚式があったからという真人間らしい理由が第一なのだが、正直なところ友人の結婚式など口実にすぎない。スペイン、モロッコ、ヨルダン、イスラエルギリシャの旅から帰ってきてもう半年以上経っている。そろそろ、どこかへ出かけないと気が狂ってしまう。そう考えていたところ、ちょうどよいタイミングで、友人からバリ島で結婚式をやるから来て欲しいというお誘いがあったのだ。


式を挙げた新婦とは小学校時代からの長い付き合いなので、「ごめん。気持ちの上では、あなたの結婚式より個人旅行がメイン」と馬鹿正直に伝えてしまった。それを聞いた彼女は、「まあ、なんでもいいよ……」という顔をしていた。

バリ島の11月は雨季だけど、結婚式の日は快晴だった。

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旅行の期間は全部で11日間で、まずはLCCの乗り継ぎの都合でシンガポールへ向かう。空港から出ずに一晩明かそうかなと思っていたけど、あまりにも時間が長くて暇だったので、マリーナベイサンズとマーライオンを見に行った。

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そして、翌日の朝にバリ島に到着。バリ島はUberが走っていて、ブルーバードなんかよりも安い。バリ島は公共交通機関がほとんど発達していないので、移動の足は主にタクシーかカーチャーターかツアーバスになると思うのだけど、空港からウブドなどへ向かうときはUberがいいと思う。

タクシーを降りてウブドの中心で散々迷い、ようやく田んぼのど真ん中にある宿を発見した私は、荷物を置いてお昼ご飯を食べる間もなくすぐに出発した。サティア・サイババのもとで学んだ女性に会わせてくれるという、ガイドさんのもとへ向かうためだ。

サイババの弟子に未来を占ってもらってきた。

サティア・サイババとは、ご存知インドのスピリチュアル・リーダーである。私がお会いした女性は、そのサイババのもとで学んだという40代くらいの人だった。なぜそんな人に会いに行ったのかというと、私は、バリ島が何であるかを知りたかったのだ。

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バリ島とはまず第一にビーチリゾートであり、海が美しく、エステとショッピングが楽しめる観光地である。だけど同時に、インドから伝わったヒンドゥー教が独自の進化を遂げたバリ・ヒンドゥーの島、多神教の神を崇拝する島でもある。バリ島でいちばん高いアグン山という山は聖なる場所とされ、今でも信仰の対象だ。観光地としての俗なるバリと、神々が棲むという聖なるバリ。どうせ行くなら、そのどちらも見てみないと面白くない。美しい海だけじゃ満足できない。私は「もっとヤバいバリ」が見たかったのである。

ちなみに、バリ島の世界観をもっともわかりやすく小説にしているのは、よしもとばななさんかなと思う。『マリカのソファー/バリ島夢日記』という作品では、解離性同一性障害を抱えた主人公が、神様がヤモリのようにうじゃうじゃといるバリ島の世界にすっとなじんでいく。山には聖なる神がいて、海には邪悪な神がいる。その他にも、よくわからない神様がたくさんいて、一部ではまだ黒魔術が信じられている。バリ島の伝統的呪術師は「バリアン」と呼ばれ、今でも島民の精神的な悩み、体の不調などの相談にのってくれるという。サティア・サイババのもとで学んだというその女性も、そんな「バリアン」の1人だ。

しかしもちろん、バリ島に何のコネクションもない自分が、そんな人にいきなり「会いたいです」といっても会ってもらえるはずがない。なので、ここは正攻法を使い、約8000円をお支払いして「客」として出向くことにした。8000円を払うと、バリアンが私の未来について占ってくれるという。正直占いにはあまり興味がないのだが、バリアンに会えるのなら背に腹は変えられない。

ウブドの中心で待ち合わせていたガイドさんは、ワヤンさんという男性だった。この後同じくワヤンさんという名前の男性に4人くらい会ったので、インドネシアではよくある名前なのだろう。とりあえず、約8000円をインドネシアルピアにてその場でお支払いし、私はワヤンさんの車に乗って山の奥深くへ入っていった。前日が空港泊で、しかも朝から何も食べていなかったため、憔悴していた私は車の中で爆睡してしまった。なので、結局どこへ連れて行かれていたのかよくわからない(起きていればGoogleマップを常に見ていたのだが)。たぶん、ウブドから2時間くらい走ったと思う。

バリアンのもとに到着すると、そこはちょっと広めの一般のお宅のように見えた。占いをしてもらう前に、通訳さんと一緒にマントラを唱えながら、ガネーシャ像の前をぐるぐると歩かされた。

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奥の離れのような建物の中に通され、そこで「バリアンに聞きたいこと」を3つ通訳さんに伝えた。1つは仕事のこと、2つはお金のこと、そして3つは旅行のこと(相性のいい国とか)。アラサーで未婚の女性であれば定番の質問であろう恋愛のことをすっとばしたあたりから、私がいかに占い自体には興味がないかをおわかりいただけるかと思う。通訳さんは、ありがたいことに日本語ができる人だった。聞きたいことを伝え終えると、通訳さんはおもむろに部屋の奥のほうにあった壺から柄杓で水を掬い、正座で座る私の頭上にそれをじょぼじょぼと垂らした。これはスピリチュアルウォーター、聖水であると彼はいった。

それから数分その場で待たされた後、ようやくバリアンの占いの準備が整ったというので、私は部屋のさらに奥に通された。もちろん写真は撮れなかったが、その部屋は、私がこの30年近い人生で見た中で、最も常軌を逸した空間であったように思う。ガネーシャや得体の知れない動物の像が並ぶ部屋の内部は、赤や黄色や金やその他原色で派手に彩られ、部屋の奥、左端にバリアンが鎮座している。私はそのバリアンに向かい合うようにして座り、またも「スピリチュアルウォーター」といわれて頭上からじょぼじょぼと水をかけられた。

占いの結果

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ただならぬ雰囲気に怯えていたが、占いそのものはわりとあっけなく終了した。まず仕事についてだが、「今後1年半は大きな動きはない」という。そしてお金についてだが、「食うに困ることはないが大きく成功することもない」と、ありがたいんだかがっかりなんだかよくわからないことをいわれた。ちなみに、今後金運が上がるとしたら、それは2年後だという。もしかしたら、1年半後に何か大きな仕事に成功して、2年後あたりにその収入が入ってくるのだろうか。そう考えるとなかなか悪くないような気がしなくもない。

そして旅行運だが、「アメリカと中東は相性が悪い」といわれたのがわりとショックであった。アメリカは私の大好きなフィッツジェラルドの故郷だし、中東は今後もばんばん訪れたい場所である。相性がいい場所はと聞くと、「タイとバリ島」。別にアジアが嫌いなわけではないが、すごく普通のことをいわれたので、こちらも少し拍子抜けしてしまった。私はもっと、マダガスカルに行けとか、エチオピアの遺跡に行けとか、アルゼンチンの最南端に行けとか、チベットの奥地に行ってシャングリ・ラを見つけてこいとか、突拍子もないことをいってもらえたらいいなと期待していたのだ。

そして最後に、私のオーラを見てくれるという。まず、私の中で最も強い色を発しているオーラは緑。緑は、調和や安定などを表す色だという。次に見えるオーラは白で、これは聡明さや賢さを表す色らしい。ちょっと嬉しい。そして3つめに見えるのは紫色で、これはアイディアなどが豊富な様子を表しているらしい。

占いに多く時間が割かれることはなく、要件をさっさと伝え終えたバリアンは、私にパワーを注入してくれるということでひたすらマントラを唱えていた。私は正座してバリアンの唱えるマントラにじっと耳を傾けていたが、途中で何度も「私は何をやってるんだ……」という思いに駆られた。マントラを唱え終わると、バリアンは木の棒のようなものを取り出し、それで私の額をとんとんとつついた。これも、パワーを注入する儀式だという。そのときは気が付かなかったが、後で宿に帰ると、棒にはインクのようなものがついていたようで、私のおでこから赤い液体が垂れていた。

感想

占いの結果については、正直よくわからない。「この人、なんで私のことを知ってるの……!?」ということもなかったし、身に覚えのあることをいわれたような気もするが、所詮バーナム効果の域を出なかったと思う。実は占いの最中、必死にいわれたことをメモっていたのだが、旅行から帰ってきた後にそのメモを紛失するというていたらくだ。直接ではないにしろ、これがあのサティア・サイババの力なのかと思うと、やはり拍子抜けしてしまった。

だけど、もしかしたら、私が信じていなかったのがダメだったのかな、などとも思う。「バリアンのパワーとやらを見てみようじゃん」という野次馬根性ではなく、もっと必死に悩んで人生の回答を求めていたら、ちがう結果が帰ってきていたかもしれない。なんとなくわかるのだが、こういう類のものは、好奇心で覗き込む程度の連中にそうやすやすと真の姿を見せてはくれないのだ。しかし、私も人生の悩みがまったくないわけではないが、それは言葉の通じない初対面の人間にいえるような単純な話ではないし、また占いで解決できるようなものだとも思っていないので、こればっかりはしょうがない。

バリアンと通訳さんにお礼をいい、ワヤンさんの車でウブドに戻る途中、地元の人で賑わっている屋台によってもらった。スイカとバナナとサテを買う。おなかいっぱい食べても200円くらいだった。バナナはなぜか、焼き芋のような味がした。
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旅行記、次回へ続く。

私が今年いちばん感動した本について。:国分拓『ヤノマミ』

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シンガポールを発った飛行機がバリ島のングラライ空港に向かっているとき、私は席で目元にウェットティッシュを当て、赤く腫れた目をごまかすのに必死であった。そしてその不自然な様子を、隣の席(正確には隣の隣の席。真ん中の席が空席だった)に座っていた白人のおばさんに、ちょっと心配されながら見られていたように思う。

それから数時間が経ち、夜がすっかり明け、飛行機がもう間もなく着陸するというときだ。

さきほどの白人のおばさんは、機体がだんだんと近付いていくバリ島の海岸線を小窓の外に見つめながら、「Very Beautiful……」とうっとり呟いた。

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どれどれと思い覗いてみると、確かになかなか悪くない光景ではあるが、空は微妙に曇っているし、海は青というよりはグレーである。BeautifulにVeryをつけるほどでもない。

と、色気のないことを考えていたら、おばさんは振り向いて自分に同意を求めてきた。しょうがないので、「はぁ……Beautifulですね……」と私はオドオドしながら答え、そんなやりとりをしているうちに飛行機は着陸してしまった。

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私が赤く腫れた目をウェットティッシュでおさえていたのは、失恋とか、親しい人との別れとか、何か色っぽい事情があったわけではない。ただ単に、飛行機の中で読んでいた本に感動して、泣いていたのである。それがこれ、国分拓さんの『ヤノマミ』だ。今回は、先月のバリ島旅行と絡めて、この本の感想文を書いていこうと思う。

ヤノマミ (新潮文庫)

ヤノマミ (新潮文庫)

緑の悪魔

著者の国分拓さんは、NHKのディレクターだ。つい最近、『NHKスペシャル大アマゾン 最後のイゾラド』というドキュメンタリーが話題になったので、記憶している人もいるかもしれない。私もこの『最後のイゾラド』を見て、『ヤノマミ』を手にとった一人だ。

文明と接触したことのない原住民「イゾラド」を初めて撮影したNスペがすごいことになっている! 国分拓ディレクター・独占インタビュー | クーリエ・ジャポン

「ヤノマミ」は、ブラジルとベネズエラの国境近くに住む先住民族である。森の奥地に住む彼らは、なんと20世紀になるまで、文明社会と接触したことがなかったという。最近ドキュメンタリーになっていた「イゾラド」とは、ヤノマミ民族の中の集落の1つみたいだ。

国分さんとカメラマンの菅井さんは、そんなヤノマミ民族の集落で、150日間寝食をともにする。もちろん、電気も水道もガスも持たない先住民族との生活はとてつもなくハードで、国分さんたちは途中でしょっちゅう体調を崩して保健所に駆け込んでいるし、一時は食べるものがなく塩と胡椒を入れたお湯を飲んで飢えをしのいでいる。蛾、蠍、コオロギ、蛇、コウモリ、蛙、ムカデ、ときに毒を持ったそれらの生き物は容赦なく人間を襲ってくる。

圧倒的な森だった。僕は平衡感覚がなくなり、息苦しくなった。何よりも、怖かった。肺からせり上がってくるのは、吐き気ではなく、恐怖感だった。
(p.23)

国分さんはヤノマミの住む森を「緑の悪魔」と呼んでいるが、この本を読んでいると、自然は本来美しいものでもなければ癒しでもなく、人間にとってはただただ脅威であり、避けるべき怖ろしいものであったことを思い知る。

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(※これはバリ島にいたコウモリ。雨宿りしている)

いちばんゾッとするのは森の夜の描写で、当然ながら電気のない集落では、太陽が沈むとあたりはまったくの闇に包まれる。深い森の中までは、月光もわずかしか届かない。闇の中で視力を奪われたら、頼れるのは触覚と聴覚と嗅覚しかない。そんな中で国分さんたちは、ヤノマミの、アハフー、アハフー、という不思議な笑い声をただじっと聞いている。虫や蛇やムカデががさがさと蠢いている音も聞こえてくる。そしてそれらが、必ずしも自分を歓迎しているわけではないこともよくわかっている。私は未だこんな恐怖を味わったことはないし、今後も味わう機会がないかもしれない、などと思う。

シャーマンと幻覚剤

ヤノマミ民族の中で、重要な役割を担っているのがシャーマンだ。シャーマンは「エクワナ」という真っ黒な幻覚剤を吸って、夜な夜な精霊と交信するらしい。病人や怪我人がいれば祈祷を行ない、呪術の力で治してしまう。ヤノマミのシャーマンになるためにはかなり厳しい修行が必要で、一ヶ月間何も食べず、幻覚剤を吸い続け、自分の精霊を天から探し出さなければならない。この過程がきついので、途中で諦めてしまう者もいるらしい。

シャーマンが一言「殺せ」といえば、集団はヒステリー状態になる。国分さんも菅井さんも、そうなったら命の保証はない。実際、シャーマンの怒りを買い、殺された人類学者も過去にいる。

「聞いているか! 聞こえているのか! 私の声が聞こえているのか!
お前らは敵か? 災いを持つ者なのか?
敵でないとすれば味方か? 味方なら何かいい報せを持ってきたのか?
本当は何なのだ! 味方か? 敵か?
〈ナプ〉なら殺すべきなのか? この〈ナプ〉をどうするか?」
(p.50)

国分さんたちはこんなことを言われながら、シャーマンに周囲をぐるぐると歩かれる。これもまた、尋常でない恐怖だ。〈ナプ〉とはヤノマミの言葉で、「ヤノマミ以外の人間」を指す蔑称だという。『家畜人ヤプー〈第1巻〉 (幻冬舎アウトロー文庫)』の「ヤプー」とか「ジャップ」とかっていう言葉があるけれど、蔑称、差別用語というのは言われているほうはすぐに自分のことだとわかる。だから国分さんたちは、ヤノマミの他の言葉がわからなくても、この〈ナプ〉という単語だけは、いつでも聞き分けることができたという。

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(※これはウブドケチャダンス)

だけど、そんなヤノマミ集落にも徐々に外の世界の文明が入り込み、中には街に出てポルトガル語を覚えたり、テレビやサッカーボールを持ち込む若者が出てきたりする。すると、高齢のシャーマンの祈祷なんかよりも、街に出て薬をもらったり病院で手術をしてもらったほうが、ずっとずっと早く病気や怪我が治ることを、彼らは知識として知るようになる。

これまで助からなかった病気が、現代の医療によって治療できるようになる。それは喜ばしいことに違いはないが、本の後半、ヤノマミの若者と長老とで病人の治療について意見の対立のようなものがあり、彼らの間には深い溝ができてしまう。

同じくアマゾンの先住民であったグアラニーという部族は、ヤノマミよりも早く文明化が進んだが、のちの彼らは80%が物乞いか、あるいは売春で生計を立てるようになったという。グアラニーマリファナを頻繁に吸うようになり、自殺者が急増した。先住民が「文明化」をすると、だいたいはこのような道筋を辿るらしい。原初の暮らしこそがユートピアで、先住民は永遠にそのままであるべきだといいたいわけではないが、一度文明化された民族は、きっともう元へ戻ることはできない。シャーマンの記憶、精霊の記憶、夜の幻覚剤の記憶。そういったものが忘れ去られ、すべての人の記憶から消えてしまうのはおそらく時間の問題だろう。そのことの善悪や是非は、ここでは論じない。ただ、あるコミュニティが受け継いできた記憶が永久に消えてしまうことは、とても悲しいことだと私は思った(それで飛行機の中で泣いた)。

白蟻の巣の中の嬰児

『ヤノマミ』のなかでいちばん衝撃的なのは、やはり女性たちが森で出産する様子が書かれているところかもしれない。ヤノマミ民族の間では、母親の胎内から出てきたばかりの赤ん坊は、まだ「人間」ではなく「精霊」だとされている。そして、母親がその手で赤ん坊を抱き上げたとき、彼/彼女は初めて「人間」になるのだ。

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出産を終えたばかりの女性は、産み落とした赤ん坊を「人間」として迎え入れるか、それとも「精霊」のまま天に返すかを決断する。その決断に、男性や他の女性の意見はまったく取り入れらることはない。赤ん坊の母親だけが決定権を持っている。そして母親が下した決断に、他の者は一切口を出す権利はない。「人間」として迎えるにしろ、「精霊」として返すにしろ、母親からその理由が語られることもない。

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(※これはバリ島にあったガジュマルの木)

四十五時間後に無事出産した時、不覚にも涙が出そうになった。おめでとう、と声をかけたくもなった。だが、そうしようと思った矢先、少女は僕たちの目の前で嬰児を天に送った。自分の手と足を使って、表情を変えずに子供を殺めた。動けなかった。心臓がバクバクした。それは思いもよらないことだったから、身体が硬直し、思考が停止した。
 その翌日、子どもの亡骸は白蟻の巣に納められた。そして、白蟻がその全てを食い尽くした後、巣とともに燃やされた。
(p.207-208)

「精霊」のまま天に返す──とはつまりどういうことなのかというと、上に引用したように、母親がその手で産まれたばかりの子どもを殺め、遺体を白蟻の巣に入れ、亡骸を食べさせることだ。文明社会に生きる者からすると、なんて残酷なことをするんだろう、と思う。実際、ヤノマミ保護のために働いている保健所の職員でさえ、ヤノマミの女性のこの行為について語るときはいつも、表情を曇らせるという。保健所で働く彼らは、カトリックの信者なのだ。

女性たちはなぜ、産まれたばかりのわが子を殺め、白蟻の巣に納めるのか。経済的に(狩猟生活なので食料には上限がある)難しい、夫の子どもではない不義の子だから、人口調整のため、我々でも理解できるような理由は外側から見ていてもけっこう思いつく。だけど、その決断を母親一人(しかも国分さんが出産現場を目撃したその母親は、わずか十四歳の少女だった)に背負わせるのは、重すぎはしないか。

理不尽だと思う理由はいくらでも上げられるのだけど、とはいえ彼らは、この生活をもうずっとずっと古い時代から絶えず続けてきている。そしておそらくだけど、我々もかつては同じようなことをしていたのではないかと思う。歴史が始まる前、金属を持つ前、土器を持つ前。人間がまだ森の中で、狩猟と採集によって生活していた頃に。こちらも、そのことの善悪や是非は論じるつもりはない。確かなことは、ヤノマミである彼らにとってこれはとても自然な行ないなのだ、ということだけだ。

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(※バリ島は雨季だったので、ときおり霧が出ていた)

150日間にもわたる取材を終え東京に戻った著者の国分さんは、しばらく食欲がなく、食べてもすぐに吐いてしまったという。おまけに、夜尿症にまでなったとか。同行した菅井カメラマンは、子どもに手をかける夢を何度も見たらしい。そしてそのときに考えたことを、こう書いている。ちょっと長いけど、すごく好きな部分なので引用したい。

ヤノマミの世界には、「生も死」も、「聖も俗」も、「暴も愛」も、何もかもが同居していた。剥き出しのまま、ともに同居していた。
 だが、僕たちの社会はその姿を巧妙に隠す。虚構がまかり通り、剥き出しのものがない。僕たちはそんな「常識」に慣れ切った人間だ。自分は「何者」でもないのに万能のように錯覚してしまうことや、さも「善人」のように振舞うことや、人間の本質が「善」であるかのように思い込むことに慣れ切った人間だ。
 ヤノマミは違う。レヴィ=ストロースが言ったように、彼らは暴力性と無垢性とが矛盾なく同居する人間だ。善悪や規範ではなく、ただ真理だけがある社会に生きる人間だ。そんな人間に直に触れた体験が僕の心をざわつかせ、何かを破壊したのだ。
(p.349)

繰り返しになるけれど、『ヤノマミ』は、文明は悪だとか、いや文明は善だとか、そんな瑣末なことを考えさせる本ではない。私もまだ上手く言えないのだけど、少なくとも、善悪を超越した何か、聖俗を超越した何かについて語っている。バリ島に行く飛行機という、非日常の中で読めたのもよかったのかもしれない。

けっこう前に自分でnoteで書いたのだけど、この本が問いかけてくるのもやはり、「あなたは誰?」だ。

異なる文化や異なる社会と接触することは、単にこちら側の好奇心を満たすためのものではない。
異なる文化、文明、社会は、常にこちら側に問いかけてくる。「あなたは誰?」と。イゾラドも、NHK取材班に聞いていた。
「あなたは誰?」と問われると、言葉に詰まる。なぜ今私は、「これ」を正しいと思っているのか。なぜ今私は、「これ」を信じているのか。
【日記/46】NHKスペシャル 大アマゾン『最後のイゾラド』|チェコ好き|note

たくさん本を読んだり、いろんなところに旅行に行ったりすると、自分がいったい誰なのかわからなくなる。だけど、まさにその瞬間こそを、私は求めているようにも感じる。

感想文:中島らも『水に似た感情』とバリ島

バリ島を舞台にした小説やエッセイをいくつか読んでいます。昔読んだ吉本ばななの『マリカのソファー/バリ夢日記 (幻冬舎文庫―世界の旅)』はもう一度目を通してもやっぱりけっこういい小説だなと思ったし、あとは椎名誠のエッセイ『あやしい探検隊 バリ島横恋慕 (角川文庫)』なども面白かった。今回は、そうした中でいちばん気に入った中島らもの『水に似た感情』の感想を書きます。

水に似た感情 (集英社文庫)

水に似た感情 (集英社文庫)

マジックマシュルームの島、躁鬱と多重人格

けっこう前に宮田珠己さんの『旅の理不尽 アジア悶絶編 (ちくま文庫)』って本を読んだのですが、バリ島編の中で、あの幻覚成分を含むマジックマシュルームを体験した話が出てきます。そして何と、この『水に似た感情』の中にもマジックマシュルームが出てくる。というわけで私の中ではすっかり「バリ島=マジックマシュルームの島」ということになってしまったのですが、この認識はもちろん間違っているので、鵜呑みにしないでください。

『水に似た感情』では、人気作家の主人公モンクが、ミュージシャンの仲間たちと一緒にテレビの取材を行なうためバリ島を訪れます。それで、なんだかんだと仕事をして一時帰国、だけどモンクの躁病が悪化してしまい、彼は友人とともに再びバリを訪れることになります。まあ話の筋としてはそれだけなので、何か大掛かりなしかけがある物語ではありません。主人公のモンクは躁鬱病なのですが、彼の感情の波とともに、バリ島の景色がゆらゆら揺れます。

そういえば吉本ばななの『マリカのソファー』でバリ島を訪れる主人公のマリカは解離性同一障害(多重人格)を患っていましたが、バリ島が躁鬱病や解離性同一障害と結びつけて語られるのは、なんとなくわかる気がしました。

「大きいものから、小さいものまで。あれ、今のなにかな? っていうものから、うわあ、でかいものがやってくる、っていうものまで。空気が生きているから、地面が力を持っているから、いやすいんだろうね。
 それに、すごく気持ちのいい存在もいる。山のほうから来る。上品で、きれいで、強くて、かわいくて、すごいやつ。大好きななにか。犬みたいな心の、美しい何か。すごく、すごく昔からいるもの。いちばん大きい椰子の木よりも古いもの。
 それから、おそろしいもの。海のほうから来る。マリカの親みたいな、でたらめなやつ。でもいる。時々気配を感じる。ぞっとするような感じ。大きくて、大切に思っていることや、ゆずりたくないことをなにもかもちっぽけなことに思わせてしまう、やっぱり昔からいるもの。
 どっちがいいとか、悪いとかではなくて、ただそういう両方の味があるというか、そういうもの。」

マリカのソファー/バリ夢日記 (幻冬舎文庫―世界の旅)』p62-63

島の中に聖なる存在と邪悪な存在がいて、それによって一つの島を成り立たせている。後に詳しく書きますが、バリ島はそういう世界観がベースにあるので、アップダウンを繰り返す躁鬱や、一人の中にいろんな人格が棲む解離性同一障害みたいな病気と、よく馴染むのだろうなどと考えました。もちろん、これは小説上の話ですが。

ダウナーは、とがった神経を和らげ、トロンとした状態にさせる。マリファナ、ハシシュ、阿片、モルヒネ、ヘロインなんかがその例だ。反対にアッパーのドラッグは気分をしゃっきりさせ、万能感を与える。メタンフェタミン、これは昔でいうヒロポン。現在ではシャブと呼ばれている。それにコカの葉っぱ、そのアルカロイドを単離したコカイン。アルコールもそうだ。勇気が湧いてくる。そして、これとは別に幻覚剤という一群がある。LSDムスカリン、マンドレイク、マジック・マッシュルームetcだ。さて、両プロデューサーがやっているのはダウナーのマリファナ、ハシシュだとおれは踏んでいる。違うかい?」

水に似た感情 (集英社文庫)』p122

山には聖なるもの、海には邪悪なもの

『水に似た感情』の中で出てくる話ですが、バリ島でいちばん高いアグン山という山があります。バリ島は海のイメージが強い観光地だと思うんですが、トレッキングブーツとか履いて気合い入れないと登るのをためらうようなけっこうガチの山もあるのです。アグン山は聖なる神が棲む山だと考えられていて、古くから島で信仰の対象になっているそう。ふもとにはブサキ寺院という、バリ・ヒンドゥー教の総本山があります(インドのヒンドゥー教とバリのヒンドゥー教はちょっとちがうらしい)。そして一方、海には邪悪なものが蔓延っている。さきほど引用した『マリカのソファー』でも触れられていた世界観です。

日本に帰国した躁病のモンクは、なぜか自分の部屋に「世界」のミニチュアを作ろうと思いつきます。机の端っこに「黄金の宮」を作り、周囲に金色のキャップがついた目薬や金色の包装紙などを並べます。そしてもう一方の机の端っこに、今度は邪悪な神の宮殿を作ります。黒のTシャツやかばんを、そのまわりに配置していきます。そして、黄金宮と黒の宮の中間が俗世であり、そこでは人間が生老病死に苦しんでいるとします。「世界」のミニチュアを作り終えたモンクは満足気に床の上に寝そべるのですが、そこに落ちていたちりめんじゃこを見て、”このちりめんじゃこはおれの母親だ”と気付きます。

ここまで読んで「はああああああ?」って感じだと思うのですが、モンクは直感でちりめんじゃこの母親のことを”苦しんでるんだ”と悟り、黄金の宮に向かって母親を助けてやってください、と六回祈ります。繰り返しますが、黄金の宮というのは自分が机の上に作ったやつで、母親というのはちりめんじゃこです。

「水に似た感情」とは

そんな感じで奇行を繰り返すモンクなのですが、タイトルの「水に似た感情」とはいったいなんなんでしょう。これは小説のラストに出てくるんですが、バリ島というのは、聖なるものと邪悪なものが同時に棲む、一つの島、一つの人間、一つの宇宙です。そして、隣にはロンボク島レンボンガン島があるわけですが、別の島とは海水、すなわち「水」で区切られています。ありえないことですが、もし海水がすべて引いて蒸発してしまえば、別々に思えていた島は一続きの大陸になれます。だけど、間に「水」があるから一つになれない。島と島とを隔てているもの、人間と人間とを隔てているもの、あなたと私を隔てているもの、それが「水」です。つまり、人間はなぜ「個」に分断されてしまっているのか──これがこの小説のテーマというか核心部分になります。

バリ島は神々の島だとかなんだとかいわれていて、ふーんと思っていたのですが、『水に似た感情』で「これは!」と思ったのは、やはりこの「島」を「人間」として見ているところです。神々の島に入るというよりは、一人の人間の胎内に入っていく。そこで美しいものも汚いものも、崇高なものも邪悪なものも見て、「なぜ私たちはわかりあえないんだろうね」という結論に続く。薬物と繰り返される奇行の小説かと思っていたら、テーマそのものはけっこう普遍的なもので、だけど人間はこの問題を小説や映画の中で何度も何度も描いています。

『水に似た感情』は、ちりめんじゃこをつまみながら雨の日とかにふわっと読むのがいいかもしれません。

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★お知らせ★

2016年秋号の「編集会議」の中で、『旅と日常につなげる』を編集者の佐藤慶一さん(@k_sato_oo)に紹介していただきました。よかったらチェックしてみてください。
旅と日常へつなげる ?インターネットで、もう疲れない。?

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浜松市楽器博物館で耳と体が変化する

妙な話から始めるのですけど、最近、薬物中毒になった人の体験談みたいなのをよく読んでいるんです。もちろん薬物にはいろいろな種類があるので、その効用はさまざまです。が、ある特定の薬物の作用で、一つだけものすごく心ときめいてしまうものがありまして。それが、「(薬物をやったときに)世界がすっごく綺麗に見える」というやつです。

チョウセンアサガオ*1の種を柿の種みたくボリボリ食べていたら、瞳孔が開きっぱなしになってしまって、その後一ヶ月くらい文字が読めなくなったっていう体験談がありまして。でも、文字が判読できなくなった代わりに、自分の身の回りの世界の色がとても鮮やかに変化して、高田馬場駅のホームから見た景色があまりにも美しくて泣いてしまったらしいんです。そういう話が、個人的にすごく好きなんですよね。ちなみにこの話は『ワセダ三畳青春記 (集英社文庫)』って本に書いてあります。高田馬場駅から見た景色が涙を流すほど美しい世界って、どういうものなんだろうってちょっと興味がわきませんか? 東京タワーからの景色じゃないですよ、高田馬場駅からの景色です。

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浜松市楽器博物館

ところで先日、知人と「さわやか」のハンバーグが食べたいという話になって静岡に行ったんですけど、ランチでお腹いっぱいになったら時間が余ってしまって、まあやることがなかったんですよね。そこで、ネットでてきとうに調べてみたら浜松市楽器博物館というのがそのときいた場所から比較的近く、かつ手軽に時間が潰せそうだったので、ほぼ何も期待せずに立ち寄ってみたのです。悪いけど、本当にマジで何も期待してなかったので外観の写真とかを撮り忘れました。

だけど入ってみたらこれがなかなか私の興味関心のツボを突いてくる博物館で、まず展示室が大きく分けて4つ。①アジアの楽器の展示室と、②オセアニア・アフリカ・アメリカ・ヨーロッパの楽器の展示室と、③鍵盤楽器の展示室と、④国産楽器と電子楽器の展示室があります。それでだいたい順番にまわっていくんですが、最初のアジアの楽器の展示室からしてすごく面白かった。パンフレットから引用しますが、アジアコーナーにはこんな楽器があります。楽器を実際に演奏してみることはできないんですが、各楽器の前にはヘッドホンが置いてあって、録音されている音を聴くことができます。

ガムラン[インドネシア 中部ジャワ]   
ガムラン[インドネシア バリ島]       
ジェゴグ[インドネシア バリ島]
・ササンド[インドネシア]
・パッタラー[ミャンマー]
・サイン・ワイン[ミャンマー]
・サウン・ガウ[ミャンマー]
馬頭琴(モリンホール)[モンゴル]
・ダマル[モンゴル]
・編鐘(ピョンジョン)[韓国]
・編馨(ピョンギョン)[韓国]
伽耶琴(カヤグム)[韓国]
サントゥール[イラン] 
・タール[イラン]
・サーランギー[インド]
・銅鼓[タイ]
・ルーシェン[中国]
・ウード[エジプト]
・タンブール[トルコ]
・カーヌーン[トルコ]

この中でわりと身近(?)な楽器は『スーホーの白い馬』で出てきた馬頭琴じゃないかと思うのですが、馬頭琴ってこんなに柔らかい音が出るんですね。


馬頭琴 | ガーダー・メイリン (嘎达梅林)

自分が大好きだった馬に、死に際に「私の体で楽器を作ってください。そうすればずっとあなたの側にいられるから……」とかいわれたら泣きません? 実際、ヘッドホンしながら私はちょっとウルっと来てしまいました。まさか大人になって『スーホー』で泣くと思わなかったです。だけど、あのモンゴルのだだっ広い平原で、馬頭琴の音が彷徨うように響いている様子を想像するともうそれだけでご飯三杯分くらい泣ける。

他に個人的に気に入った楽器は、バリ島のガムランジェゴグ、あとはイランのタール、インドのシタールとか。どれも音を聴いてみると、「ああ〜あの辺の、あのあたりの地域はこの音似合う〜絶対似合う〜」と悶絶できます。あとは、古代ペルシャの楽器バルバットが西に伝わってリュートになり、東に伝わって琵琶になった……みたいな話を聞くと(読むと)、もう壮大なロマンを感じますよね。エジプトのウードという楽器も起源が同じなんだとか。今我々に見えている国境なんてのは、所詮はあとの時代に生まれた奴が便宜的に引いたものに過ぎないんで、本当は文化はグラデーションだし全部つながってるんですよね。国境で区切るのではなく、音で世界を見ていくと、「あ、ここで"音"が変わったな、じゃあここからはちがう文化圏だ」と頭ではなく体でわかるんで、これって旅行しているときのあの高揚感にとても近いものがあるなと思って嬉しくなりました。

続いてはオセアニアのコーナーで、オーストラリアの打ち棒とか、ヴァヌアツのタムタムとか、パプアニューギニアのガラムートとかヌヌートとか。アフリカコーナーに行くとケニアのアブーとかタンザニアのンゴマとかガーナの太鼓とかがあります。この辺りの地域の楽器は、音に呪術的な力があるというか、トランス状態を誘発するような作用がある気がします。精神状態が安定していないときにアフリカの太鼓の音色を聴くと、魂を持っていかれそうになりますね。あとは楽器自体が造形的に美しいです。ちなみに私の大好きな映画であるベルナルド・ベルトルッチの『シェルタリング・スカイ [DVD]』は、このアフリカンミュージックの魔術的な側面をよく描けていると思います。


African Zulu Drum Music

それで、アメリカのコーナーとか日本の楽器のコーナーとかもいろいろ見て(聴いて)まわったんですが、この博物館的にいちばん気合を入れているのはやはり鍵盤楽器の展示室のようです。チェンバロとかパイプオルガンとかすべて素晴らしかった。だけど、この日さまざまな地域のさまざまな楽器の音を聴きまくって、その上で聴いて最高に感じ入ってしまったのは、私はなんとピアノだったんですよね。馬頭琴ガムランジェゴグも、シタールも竹笛もリンバもマラカスもヴァイオリンもオーボエもとても素敵だったのだけど、ピアノの鍵盤を2つか3つぽーんぽーんと叩いただけの音が、全身の毛穴が開くくらい美しかった。こんなに豊かで繊細で儚い音を出せる楽器が世界に他にあるだろうか、いやない! と思わず反語を使ってしまうくらい、その音は私にとって衝撃でした。

基本的にはこの博物館では録音した音だけで生音は聴けないのですが、ちょうどそのときギャラリートークみたいなのがあって、スタッフの人がプレイエルというフランス製のピアノでショパンの『別れの曲』を弾いてくれたんですよね。ピアノ自体は150年くらい前のものだそうで。2つか3つ鍵盤を叩くだけで鳥肌が立ってしまうのに、その状態でショパンを弾かれてしまったので、これはもうちょっとヤバイ感じになってしまいました。語彙が少ないのでヤバイとしかいえないのですが、ヤバかったです。


ショパン 別れの曲

おまけに、自分はどういうわけか「亡命」「ノスタルジア」みたいなワードに滅法弱くてですね、「これはフランスに亡命したショパンが、祖国ポーランドを想って作った曲です……」みたいな説明をされるともうダメなんですよね。なんか、「もう二度とあの場所へは帰れない……」的な物語が私の泣きのツボらしいんですよね。

合法ドラッグで飛ぶ

というわけで、まったくノーマークだった浜松楽器博物館で思わぬ収穫を得てしまいました。まさか、ピアノの鍵盤を2つか3つ叩くだけで、その音色が美しすぎて鳥肌が立つ体になってしまうとは考えていませんでした。さすがにこのままでいると身が持たないんで、きっとだんだん日常に慣れていって、またピアノを「ふーん?」と思いながら聴く普通の体に戻るんでしょうけど、これを書いている今はまだ効果が持続しています。

本物の薬物に手を出してしまうと、中毒になると困るし何より捕まってしまうんでダメなんですけど、「世界がすっごく綺麗に見える」という現象に私はやはり惹かれてしまいます。おそらくそれは、必ずしもチョウセンアサガオに手を出さなければ見られない世界ではありません。入り口の場所さえわかれば、お金も何もかけずに合法的に飛べる世界です。入り口の場所というのもいろいろあって、私が今回使った入り口はちがいますけど、恋をすることはおそらくその一つになるでしょう。

世界には、「美しいもの」が無数にあります。だけど、高田馬場の駅から見た景色とか、ピアノの音色とか、そんな些細なものに感じ入れるようになれたら、もう旅行なんて必要ないかもしれません。美術館にも、映画館にも行かなくていいと思います。

私はまだその域には全然達していないので、これからもたくさん旅行をするつもりだし、美術館にも映画館にも行きますけど、たぶん最終的に到達したいのは、そんなものはもう必要ない体です。少なく見積もっても、あと60年くらいかかるでしょう。到達せずに死ぬかもしれません。頑張ります。

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※これは「さわやか」のチーズハンバーグ

*1:薬物中毒患者でも絶対に手を出さないといわれている超危険なドラッグ。怖ろしい幻覚を見るらしい。