チェコ好きの日記

もしかしたら木曜日の22時に更新されるかもしれないブログ

【感想】『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』

これは前々から思っていたことだけど、実は「カルチャーショック」よりも、「逆カルチャーショック」のほうが、3倍くらいショッキングだったりしませんか? 自分が他の文化圏を旅して異なる文化に触れたそのときよりも、異なる文化に数週間浸かってみて自国に帰ってきたとき、「なぜ私は今までこのシステムに何の疑問も抱かなかったのか?」と驚く瞬間のほうが、私にとってはやっぱり3倍くらいショックである。


ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと

ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと


『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』を書いた人類学者の奥野勝巳さんは、学生時代にメキシコの先住民テペワノのもとをたずね、日本に帰国したときのことをこう綴っている。

テペワノの日々が楽しく思い出されるとともに、自分自身がおこなっていること、日本でおこなわれていることが、何もかも虚しく感じられるようになったのである。本を読んでも、誰かと話をしても、何をやっても上の空だった。テレビを見ていても、言葉や音が私の中に入って来なかった。電車に乗って、ふと見ると、乗客に顔がないことがあった。どうしてしまったのか、まるでわからなかった。
(p.7)


私にも、似たような経験がないわけではない。中東に1ヵ月ほど行って帰ってきたあとは、日本や欧米の音楽がノイズにしか聞こえなくなってしまい、中東イスラム圏の民族音楽みたいなのをずっと聴いていた。誰かと話しているより、録音されたアザーンの音声を聴いているほうがよっぽど落ち着いた。今はそんな妙な熱病状態も冷め、やっぱりこちらの文化圏の音楽や人と話すほうが好きになっているんだけど、体が帰ってきても、頭と心も同時に帰ってこられるわけではないのである。他の旅でも、帰国したすぐあとはだいたいいつも、心身がバラバラの状態で、よく変な夢を見る。


そんな奥野勝巳さんは2006年から1年間、熱帯のボルネオ島で、プナンという狩猟採集民と生活をともにする。ボルネオ島は、マレーシア、インドネシアブルネイからなる東南アジアの島で、多様な生態系を育む自然豊かな場所らしい。『ありがとうもごめんなさいもいらない〜』は、奥野さんがプナンと暮らしながら考えたことが綴ってあるエッセイである。

反省しない

プナンと生活している中で奥野さんが気付いたことは、どうも彼らには、「反省する」という態度・習慣がないらしい。本のタイトルにあるとおり、「ごめんなさい」に相当する言葉が、プナンにはどうも見つからないのだという。プナンの人々は、過失に対して謝罪もしなければ、反省もしない。他人のバイクを盗んでぶっ壊したとしても、決して謝ったりなんかしない。


もちろん、これは現代日本に生きてる私たちからすると、だいぶ居心地が悪い。仕事でも私生活でも、過失があったならば謝罪と反省をすること。これは人として生きる上での基本中の基本であると、私たちは幼少時代から教え込まれてきた。


ではプナンは、共同体の中で何かトラブルが起きたとき、それをどのように解決するというのだろうか。本によると、失敗や不首尾をプナンは「個人」の責任とせず、場所や時間や道具、「共同体」や「集団」の方向付けの問題として扱う。1人が起こした過失はみんなの責任だから、みんなで解決策を考えるのである。このあたりは、「自己責任」という言葉が大嫌いな私はとても共感する一方で、そんなハイパーな社会が築けるわけないだろバカ、という思いもあって、読んでいてけっこう戸惑った。


なぜプナンの人々は反省しないのか、個人の過失という概念を持たないのか、奥野さんはこんなふうに分析している。


ひとつは、プナンが徹底した「状況主義」であること。反省なんてしてもしなくても、万事、上手くいくこともあれば上手くいかないこともある。彼らはそんな状況判断的な価値観の中で生きている。


もうひとつは、直線軸的な時間の観念を持っていないこと。よりよき未来を目指して向上するために、常に反省やフィードバックを重ね、自己と社会を改善し高めていく。そういった観念を、プナンの人々は持っていないというのである。よりよき未来のためではなく、彼らは常に「今」を生きている。

よい心がけ

「ごめんなさい」に相当する言葉がないのと同時に、プナンの人々は「ありがとう」に相当する言葉も持たない。これもまた、周囲の人への感謝を忘れずに生きなさいと日々諭されている私たちにとっては、なかなか受け入れがたい世界観である。


ただし、「ありがとう」という言葉の代わりに、何か自分へ物を与えてくれた人に対して、「jian kenep(よい心がけだね)」ということはあるらしい。私たちの感覚からするとずいぶん上から目線の言葉だなという気がするし、日本でこんなこと言われたらイラっとしちゃうが、彼らはそもそも「所有」に関する観念が私たちとは異なるみたいである。「貸す/借りる」という言葉もまた、プナンにはない。他人の持ち物が欲しくなったとき、プナンの人々は「ちょうだい」というし、持ち主もそう言われた際には快く持ち物を差し出さねばならない。

〈彼〉/〈彼女〉はつねに〈私〉の持ちものをねだりにやって来て、〈私〉から持ちものを奪い去っていく。〈私〉にとっての〈彼〉/〈彼女〉である他者は、何も持たない者であるからこそ、〈私〉を脅かしつづける。〈私〉はつねに物欲を抱えているからである。そのうちに、物欲とともに、〈私〉はこの仕組みの渦に呑み込まれる。〈私〉は、やがて持たないことの強みに気づくようになり、最後には、持たないことの快楽に酔い痴れるようになる。
(p.72)


プナンの人々はまた、「親しき人々」も共同で所有するらしい。子育てをする際、子には実の親と育ての親という二種の親が存在し、男女の恋愛も結婚も、排他的な権利を個人に帰属させない。あらゆるものをみんなでシェアする。反省しない、感謝しない、精神病理がない、水と川の区別がない、方位・方角に当たる言葉がない。感謝や負債という概念を、プナンの人々は持たない。

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最後に、これはごくごく私的な感想である。


もちろん、この本にあるような事実を知って、プナンの人々の社会は純粋だとか、学ぶべきところがあるとか、私たちの社会もそうなるべきだとか、そんなことはとても言えない。奥野さんも書いているが、私たちにできるのはただ、目の前にあるこの現実が、「絶対ではない」と知ることだけだ。


「絶対ではない」「絶対なんか存在しない」と知ることは、恐怖でもある。私が今必死で守っているもの、置かれている立場、生きている意味、全てを失う可能性があるからである。だけど、私はやっぱり「絶対なんか存在しない」を日々確認するために、こういう本を読んじゃうし、懲りずに旅行に行ってしまう。自ら、守るものや生きる意味を、失いに行っているともいえる。


だけど奥野さんも紹介していたニーチェの考え方に、「『無意味だからどうでもいい』と考えるのではなく、『無意味だからこそ、自由に、やりたいように、力強く生きるのだ』」とあるらしいのを知って、なんとなく、なぜ私がこういう生き方をしているのか、我ながら腑に落ちた。


「徹底した厭世観虚無主義で絶望しきることによって、逆に力強く生きる」ってのもまた、けっこう悪くないのですよ。まあそんな生き方は、なかなか他人に勧められるもんじゃないんだけど。

文学フリマという本気度100%の遊び

25日、参加した文学フリマを終えました。来てくださった方々、本当にありがとうございました。


20部刷ってすべて完売したのですが、先日書いたとおり、絶対に売れ残ると思っていたし、むしろ1冊も売れない覚悟すらしていました……。



ところでこの20冊、1冊500円で販売していたんですが、つまり完売すると10000円の利益になるわけですが、印刷代に16000円かかっています。他、参加費とか交通費とか雑費とかいろいろかかっているので、完売しても赤字の計算でした。最初から。


たくさんの時間と労力と赤字計算になるお金をかけてまでなぜやったのかというと「やってみたかったから」としか言いようがないのだけど、30代になってもこういう遊びができる仲間と環境に恵まれたことは、本当に感謝しないといけないのでしょう。創作って、まず「完成させる」っていうとても大きなハードルがあって、それはきっと私一人では乗り越えられなかったと思う。



「1回やれば満足するかな?」と夏くらいまでは思っていたのだけど、「次はこういうテーマで書きたい」「もっと上手く書きたい」とどんどん欲が出てしまったので、私はまた来年もいくつかの創作を発表すると思います。今書きたいのは、『バナナフィッシュにうってつけの日』みたいなやつと、あと百合。嫉妬と憎悪と狂気に満ちた百合。


来年は、赤字じゃなくて、せめてトントンになるようにしたいと思う。そうしないと続かないし、今年より上を目指さないとやる意味がないからです。遊びは遊びなのだが、やるならちゃんと、本気で遊んだほうが絶対に楽しいと思う。



文フリ後は力尽きたのか寝込んでいたのだけど、2018年のいい締めくくりになった気がする。何より、私たちの創作グループはもちろん、本気で遊んでいるいい年した大人がこんなにいるんだということ(※参加者過去最多だったらしい)は、けっこう希望ではないでしょうか。


社会人になったら遊べなくなるよなんて学生時代に聞いた戯言は大嘘で、私はいつもだいたい遊んでいる。来年は何して遊ぼうかな。


ご来場くださった方々、本当にありがとうございました。

ハズレのくじを引く

僕がまだ年若く、心に傷を負いやすかったころ、父親がひとつ忠告を与えてくれた。その言葉について僕は、ことあるごとに考えをめぐらせてきた。

「誰かのことを批判したくなったときは、こう考えるようにするんだよ」と父は言った。

「世間のすべての人が、お前のように恵まれた条件を与えられたわけではないのだと」

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)


一時期、フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』の冒頭は、なぜこの文章なのだろうと疑問に思っていたこともあった。だけど今は、これ以外の書き出しはないだろう、という気がしている。世の中は全然、平等なんかじゃない。そんなことは、早い人であればもう小学生の頃には気が付いている。だけど20代まではどこか、せめて隣の友人くらいは対等な存在で、自分と同じ世界が見えているはずだという幻想にとらわれがちだ。



今これを読んでいるあなたは、自分を「恵まれた」人間だと思っているだろうか、あるいは「恵まれていない」人間だと思っているだろうか。


おそらく多くの人の人生は、そんな言葉で語ることはできず、もっと多層的である。ある局面では、これ以上ないくらい恵まれている。ある局面では、同情を挟めないくらい恵まれていない。



生まれる前に、この世とあの世の境界線で、私たちは「くじ」を引く。くじは1本ではなく、何十本も、あるいは何百本も引く。何十本何百本とあるわけだから、全部が「アタリ」なわけはないし、逆に全部が「ハズレ」なわけもない。もちろん世の中は平等ではないから、アタリの割合が多い人、ハズレの割合が多い人、というのは残念ながら存在する。だけどまあ、一応は、アタリとハズレを両方持った状態で、私たちはこの世界に産み落とされる。


ただこれも、「人生万事塞翁が馬」なんて言葉があるように、アタリに見せたハズレくじとか、ハズレに見せたアタリくじとかも入っているので、実際はもっと複雑だ。時代、偶然、あるいは自分の努力や怠惰によって、アタリはハズレになり、ハズレはアタリになったりもする。


人間は、大きな苦しみを抱えると、たいてい「この苦しみには意味があるはず」と思い込む。宗教はそのために存在しているともいえる。だけど、悪いけど、苦しむことに意味なんてない。あなたのその苦しみは、「ハズレのくじを引いた」だけだ。意味なんてない。


J・D・サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』は大好きな小説だから、ことあるごとに読み返しているのだけど、そういえば『ナイン・ストーリーズ』を読むのは久しぶりだった。私はこの短編集の1話目である『バナナフィッシュにうってつけの日』を、頭のおかしな男が拳銃で自殺する、よくわからない話だと高校生のとき思っていた。


30代になった今、読み返してみると、この小説には第二次世界大戦の影がはっきりと落ちていることがわかる。あの繊細なサリンジャーが、戦争を体験して、隣で死んでいく仲間を見て傷ついていないわけがなかった。社会の欺瞞に怒っていないわけがなかった。この人は、どうやってこの苦悩を乗り越えたのだろうと思う(いや、乗り越えられなかったから、こんな変な小説を書いて森に引きこもったのか……)。


「これからは、孤独な10年の始まりだ」と、『グレート・ギャツビー』の中で30歳の誕生日をむかえたニック・キャラウェイはいう。


30歳から先の孤独とは、隣に誰かがいないことではない。「自分と同じ世界を見ている者はこの世に自分以外、誰一人としていない」ということに気付き、想像なんてしようがない他者の人生を想う。そういう類の、どうやったって解消できない孤独なのだ。

★日曜日は文フリです!★

aniram-czech.hatenablog.com

【お知らせ】11/25 文学フリマ東京会場 ブースは オ-35〜36 です。

タイトルの通りなのですが、11/25(日)の文学フリマ東京会場で、創作小説を出品します。「行く!」という人がいたら、ぜひオ-35〜36のブースにお立ち寄りくださいませ……。

note.mu


ちなみに部数は20部作ったんですが、いかんせん弱気なので、「絶対刷りすぎた、10部でよかった、在庫どうしたらいいの」と泣いています。会場で売れなかったぶんは(というか絶対に売れ残る)通販で買えるようにする予定なので、地方にお住まいで東京に行けない! という人も万が一、万が一興味があればTwitterとかで告知するのを見ていてもらえると嬉しいです。だって小説だからね。評論とかコラムじゃないから。売れないですよ。ちなみにボリュームは約10万字あります。


文学フリマで小説を売りたい人、たぶん本当は、もっとバンバンTwitterとかで宣伝したほうがいいです。でも私、恥ずかしくてできない。10万字書いといて、創作サークルまで作っておいて、20部刷っておいて、この期に及んで恥ずかしいも何もないだろうがって思うんですが、「私みたいなモンが小説なんて」という自意識から最後まで抜け出せずに当日を迎えそうです。もうほんとバカだよね。私もう31歳なんですわ。それなのにまだまだこんなにバカ。恥晒しもいいところですよ。でもやっちゃった、やりたかったんだもん。


ちなみになんですが、できあがったものを読み返してみて、「伏線を回収できてねえ」とか「登場人物の心境の変化が突然すぎる」とか「いまいち盛り上がりに欠ける」とか「セリフがあざとい気がする」とか、まあアラは自分でもわかるくらい多々見つかります。難しいもんだね。でも私、10万字も書いたんだよ。参加賞くらいもらってもいいでしょう。なので、私は私をけっこう褒めています。


小説のテーマに据えたのは「復讐」と「憎悪」だったのですが、まあ、上手く書けたとは言い難いな。なぜこれをテーマにしたかったのかは、上のnoteに書いたので、興味のある方は参照してもらえると嬉しいです。


しかし、こんなに恥晒しだなんだと言っているくせに、私たぶん来年も出るんですよ、文学フリマ。難しかったけど、上手くはできなかったけど、面白かったから……。でも来年は長編小説はやめます! 今年の目標は「下手でもバカでもとにかく完成させる」だったけど、来年の目標は「(自分で)佳作と思える短編小説集を作る」です。私『バナナフィッシュにうってつけの日』みたいなやつ書きたいのだわ。あれ素人が下手こいて真似すると絶対とんでもなく痛々しいものができるんだけどね。わかってるけど、バカなので、あんなのが書けたらさぞ楽しいだろうなって思っちゃう。


ちなみにここまで来て小説のタイトルすら発表せんのかいお前は、という感じですよね。しません。恥ずかしいからです。「あ、こいつ、こういうのをカッコイイって思う人なんだ」って思われると恥ずかしくて死んでしまうからです。私の感性の成長は中学生くらいで止まっています。


そういうわけで、会える人は当日、会場でお会いしましょう。ちなみに誰もそんなもん興味ないと思いますが、「チェコ好き」は字面がダサイので、表紙には本名を印刷しました。本名も、別にカッコよくはないです。



(※これはみんなと執筆合宿をしたAirbnbの民家に置いてあった花)

ジョン・レノンを殺した男

日々生活を送ったり、いろいろな映画や文学作品に触れていると、「あ、私、まあまあ頭やばいな」と思う瞬間がある。この文脈における「やばい」にはポジティブな意味は1ミリも含まれていなくて、ネガティブ100%の、「法に触れる罪を犯しちゃいそう」という意味だ。


この「やばい」瞬間が、今みたいに日々3秒程度におさまっていればいいが、1分、10分、1時間、半日……とかに長引くと、きっと1人や2人、殺しちゃうんだろうな。これはそういう意味の「やばい」である。


キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)

キャッチャー・イン・ザ・ライ (ペーパーバック・エディション)


ジョン・レノンを射殺した男、マーク・チャップマンJ・D・サリンジャーの名作『ライ麦畑でつかまえて』の熱狂的な読者であったことは広く知られている。チャップマンはジョン・レノン射殺の裁判で、『ライ麦畑』でもっとも有名なホールデン・コールフィールドのあのセリフ(ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ)を、朗読までしているらしい。


では『ライ麦畑』は、そういった殺人を引き起こしてしまうような「悪書」なのか? というと、チャップマンが物語において行なった解釈は誤っており、あれはそういうことを描いた物語ではない──世界は「無垢VS欺瞞」というような単純な二分構造では捉えられない、と考えるのが一般的みたいである。


一般的、といってしまうのはちょっと漠然としているけれど、少なくともこのテーマは後の『フラニーとズーイー』までサリンジャーの作品において引き継がれている。世界は単純化できない、無垢と欺瞞を両方孕んだ複雑な社会を私たちは生きていかなきゃいけないんだと、そういうふうに解釈したほうが自然である。同じ1人の人間の中にも、無垢な部分と欺瞞に満ちている部分がある。それは、そういうものなのだ。


……と、いうのがいわゆる「お行儀の良い」解釈で、私だって9割はそちらを支持しているんだけど。でも、いつどこで歯車が狂って、残り1割のほうの解釈で動いてしまうか、ちょっとわからないなって思うことはある。ものすごく悲しいことがあったり、やりきれない理不尽なことがあったりしたら、頭の糸がぷっつんと切れちゃうかもしれない。だから、マーク・チャップマンジョン・レノンを殺害したことは間違っているし、そもそも『ライ麦畑』の物語の解釈も間違っているということは前提に置いた上で、それでも「まあ気持ちはわからんでもない」と、そう思っちゃう瞬間が私にはある。1日に3秒くらい。


たぶんもともとの思想がまあまあやばくて、狂信的で先鋭化しやすいところがあるってことを、私は31年間自分という人間と付き合ってきてよくよく知っているわけだ。このあたりは、最近読んだ「連合赤軍もの」でも実感している。「革命だ!闘争だ!」と息巻いて山の中にこもったり、理想を実現するために仲間をリンチで殺したり、私、そういうことをやりかねないと思う。やりかねないと……まじで、思う……少なくとも、まったくの他人事とは思えない。


十六の墓標 上―炎と死の青春

十六の墓標 上―炎と死の青春


1日3秒が、1分に、10分に、1時間に、半日にならないために、私は何をしているか。そのために、他人と一緒にいるんだな、と思う。恋人や友人や同僚といるんだなと思う。


マーク・チャップマンに、友達はいたのかな。改めて、この人について映画とかを観てみようかなという気になった。いたのかもしれないし、いなかったのかもしれないな。いてもああなる可能性があるって話だと、私もちょっと生存戦略を考えなきゃだけど。


サリンジャーの作品は大好きなのですでにたくさん読んでいるんだけど、改めて、この人の作品をもう一度読み込みたいと思った。何度でも、何度でも。

チャプター27 [DVD]

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翻訳夜話2 サリンジャー戦記 (文春新書)

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