チェコ好きの日記

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“女のいない男” ジャン=リュック・ゴダールのミューズはだれか?

村上春樹がつい最近『女のいない男たち』という短編集を発表しましたが、そんな村上春樹自身は学生時代に結婚した奥さんとずっと一緒にいるわけで、ぜんぜん“女のいない男”じゃないんですよね。なのでちょっとずるいんじゃないの? とかも思うんですが、そんな村上春樹とは対照的に、この世には何とも美しく“女に逃げられてしまう”、もしくは“女をダメにしてしまう”という天才的な才能をもつ男というのも存在していて、ある人はそれを映画監督のジャン=リュック・ゴダールだといいます。

ゴダールのミューズといえば、私のなかではアンナ・カリーナ以外存在しないんですが、ゴダールの歴史を彼の映画に関わった女性を中心に振り返ってみようという面白い本がありまして、GW中に読み返してみたので、今回はこれをもとにゴダールのミューズについて考えてみました。

ゴダールと女たち (講談社現代新書)

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1 ジーン・セバーグ

勝手にしやがれ [DVD]

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映画『勝手にしやがれ』でみんなを釘付けにしたジーン・セバーグが、ゴダールにとっての最初のミューズであるといっていいでしょう。子憎たらしいベリーショートが鮮烈な印象をあたえ、一躍ヌーヴェルヴァーグのヒロインとなります。しかしそんな彼女の晩年は、黒人解放運動に関わったこともあり不穏なゴシップが流され、精神を病んで自殺未遂をくり返します。

そんなジーン・セバーグの最期は、パリの自宅付近に停車中の車のなかで、毛布にくるまれた遺体として発見されるという惨たらしいものでした。彼女が死の前年に発したとされている以下の言葉を聞くと、何ともいえない気持ちになります。

わたしはかつて小さなお姫様だった。みんながやって来て、黒いリムジンに乗せてくれた。でも、もう誰もやって来ない」。

政治や人種問題に関わったジーン・セバーグを例にこういう話をするのはふさわしくないかもしれませんが、女優であれ、アイドルであれ、一般人や男性であれ、“若さ”を失ったときに人が何をどうやって進めていくかというのはけっこう重要な問題である気がします。ジーン・セバーグは40歳で亡くなっていますが、あの可愛らしいベリーショートの時代と同じように、みんなに愛され続けたかったのでしょうか。おそらくチヤホヤされるだけで満足するような女性ではなかったと思うのですが、いったい上記の言葉をどんなつもりで発したのか……そんなことを考えながら、『勝手にしやがれ』を観てみるというのもいいかもしれません。

2 アンナ・カリーナ


Vivre sa vie Trailer (Jean-Luc Godard, 1962) - YouTube
ゴダールのミューズ”と聞いて、私をふくめ多くの人が真っ先に思いつくのは、当然アンナ・カリーナではないでしょうか。後にゴダールと結婚することになるアンナですが、私がゴダールとアンナのエピソードで「うへ〜」と思ったのは、ゴダールが『勝手にしやがれ』を撮り終わった結婚前の1959年の出来事です。

当時、パリ中の注目を浴びていたゴダールですが、そんななかで新聞がアンナをゴダールの新しい恋人だと書き立て、ゴシップに疲れたのかアンナは泣きながら次回作への出演を辞退したそうです。そんなとき、ゴダールはアンナを慰めるために50本の赤い薔薇をもって彼女の部屋の扉をたたき、

アンデルセンの国の女の子が、泣いたりしちゃいけないよ」と、いったんだとか……。

このエピソードは単なる都市伝説だという話もあるようですが、『気狂いピエロ』をはじめ『女と男のいる舗道』や『女は女である』などなど、数々のアンナ×ゴダール映画を観ていると、その構成のすばらしさに思わず信じてしまう説得力があると思いませんか。

しかし結婚生活は長くは続かず、1964年には2人の間で離婚が成立しています。結婚生活も後半になるとアンナは自殺未遂を起こしたり、自分の洋服をズタズタに切り裂いたりと精神的にボロボロの状態に。でも離婚が成立してしばらくすると、アンナは自身で映画監督をしたり、小説を発表したりと、アーティストとして勢力的に活動します。そして今でもリサイタルで『気狂いピエロ』に登場する「私の運命線」を歌うと、サインをねだるファンが殺到するんだとか。

ジーン・ゼバーグの晩年にゴダールの映画に出演したことがどれくらい影響をあたえているかは分かりかねますが、アンナはゴダールに関わったことで一度はボロボロになりつつも、離婚後に見事に“永遠のアイドル”として復活を遂げています。ゴダールに負けないくらいの、吸い取られてもまだ余力があるくらいのエネルギーのある女性だったということですかね。

3 アンヌ=マリ・ミエヴィル

本のなかではジーン・セバーグとアンナの後、アンヌ・ヴィアゼムスキージェーン・フォンダの章があるのですが、ちょっとすっとばしてアンヌ=マリ・ミエヴィルの話に進みます。ゴダールというとやはりジーン・セバーグとアンナの印象が強烈すぎると思うのですが、ミエヴィルとは40年間も結婚生活を続けているそうで、ミエヴィルは“ミューズ”というより“パートナー”といったほうがいいのかもしれません。

ミエヴィルは女優としてもゴダールの映画に出演していますが、その存在感はジーン・セバーグやアンナに比べるとかなり小さいものに思えます。脚本・演出・編集という分野でゴダールを支えてきたことからもわかるように、どちらかというと裏方としての役割のほうが大きいようです。ミエヴィルについては謎の部分が多いらしく、私もよく知らないのですが、ときにはゴダールの聡明な批判者として、彼の作品を支えてきたことは間違いないようです。このあたりは、専門家による研究が待たれるところですね。

まとめ:人間には2種類いる。

今回この『ゴダールと女たち』という本を読み直して考えたことは、あまりにも才能のある、美しく若い、エネルギーがギラギラしすぎている男女が一緒にいると、1人の人間としてはロクなことがないということです。もちろん芸術面では、その衝突し合うエネルギーによって歴史に残るような作品を生み出されることがあるわけですが、人として幸せになることは難しいようです。年をとったゴダールと、裏方をしっかり務めているどっしりとしたミエヴィルみたいなカップルのほうが、やっぱりバランスがいいんですね。最近の日本でいうなら、高城剛×沢尻エリカはお互いギラギラしすぎて上手くいかないパターンだったんじゃないかと思います。

村上春樹の『女のいない男たち』は、うらぶれたさみしい男が多かった印象がありますが、“女のいない男”“女に逃げられてしまう男”には、ゴダールのような才能爆発タイプもいるということです。女性にも、ミエヴィルのようなどっしり型とジーン・セバーグやアンナのような鮮烈タイプがいますね。

人口的には前者のほうが圧倒的に多いので、才能爆発タイプや鮮烈タイプに生まれた方は、大変でしょうがぜひその才能を活かしてもらいたいと思います。

ちょっとまとまりがないですが、みなさま楽しいGWを。