めちゃめちゃ暗い話なんだけども、数年前、あるブログを夢中で読んでいた。具体名は伏せるが、ブログ主の彼は、自殺を決意していた。
勤めていたエロゲーの会社を退職し、あとは働かずに貯金で生活、お金が尽きたところで死ぬという。ブログには、死をむかえるまでの日常が、丁寧な筆致で綴られていた。その人がブログに書いた最後の記事は、「これから樹海に行きます」だった。
もちろん、真偽は不明である。私がそのブログを発見したのは、最後のエントリが更新されてからさらに3年くらい経ったときだったので、ブログ主と交流したりとかはなかった。それでも、そのブログが悪趣味な嘘であったらどんなにいいかと思った。もしくは、「樹海に行きます」のエントリを更新した後、気が変わって「やっぱやーめた」ってなっていたら、とか。
ブログ主亡き後に読む、彼の日常は平坦だった。
朝起きて、朝食をとって、近所の図書館に行く。一晩中かけてゲームをする。FXで貯金額を増やしたり、あるいは減らしたりする。気が向けば、公園を散歩したり、2泊3日くらいの小旅行にも行く。もしそれが「自殺を決意した人のブログ」でなければ、彼が書く日常生活はマイペースで、文化的で、なかなか快適そうにさえ見えた。そして同時に、これ以上ないくらい平和で、つまり、退屈だった。
だけど時折彼は、唐突に、「死ぬのが怖い」と言い出す。無論、死ぬのは誰だって怖い。首を吊る苦しさってどれくらいだろうとか、薬を大量に飲んだものの死に切れずに障害が残るだけだったらどうしようとか、電車に突っ込んだらやっぱり遺族が払う金額パないのかな、それともそれって都市伝説なのかな、とか。仮に自殺するとして、そういうのは私も怖い。死ぬ瞬間の痛みがおそろしい。それはよくわかる。
でも彼は、そういった瞬間的な痛みへの恐怖はとうに克服しているようで、それよりも、「自分の存在が消えてなくなってしまうことがおそろしい」と書いていた。死んだら自分はどこへ行くのか? 何もかも消えるのか? 何もかも消えるとはどういうことだ? 彼はそれを考えるために、よく図書館で借りてきた哲学の本を読んでいるようだった。こちらの恐怖は、実は私はよくわからない。それは、私がまだ「自分の死」というものを、実感をともなってイメージできていないからだろう。
(だけど1つ言うんであれば、自分の存在がまったくの「無」である状態、それを私たちは皆すでに経験済みである。それは、生まれる前だ。つまり「あの状態」にもどるのだ、と考えれば、私はやっぱりそんなに怖くないけどな)
それが最後の晩餐なの?
収入がないので当たり前だが、彼の貯金額は日に日に減っていった。あと100万、あと50万、あと30万。減っていく金額は、死へのカウントダウンである。だけど死が迫るにつれて、彼は「死ぬのが怖い」とはあまり書かなくなっていた。何かしら自分の中で結論が出たのか、覚悟ができたのか、同じことを繰り返し書いてもしょうがないと思ったのか。そして、残る金額があと3万くらいになったところで、彼はいよいよ自殺を実行する意をブログで表明していた。
「これが最後の晩餐です」という言葉とともにアップされた写真は、ファミリーレストランのハンバーグだった。たぶん、1200円くらいのやつ。確かに、これがなんでもない平日のランチとかだったら、まあまあ豪華な食事かもしれない。だけど、最後の晩餐としては、その茶色いソースがかかったハンバーグは、あまりにも質素だった。
本当に、これをこの世の最後の食事にする気なの?
なんかもっと、残金が10万くらいのときに銀座のめちゃ高い店に(比喩じゃなく)死ぬ気で入ってみるとか、5000円くらいのヨーグルトを取り寄せてみるとか、そういうことをなぜこの人は考えなかったのだろう、と思った。ちなみに私の場合、もし明日死ぬということがわかっていたら、最後の最後は自宅で好きなものを作ってゆっくり食べたい。だけど、死ぬ1週間前とか1ヶ月前とかに前ノリで高級店に入りまくって、この世の贅を知り尽くしたい。しかしこのブログ主はそういったこともせず、本当に最後の最後にした唯一の贅沢が「ファミリーレストランのハンバーグ」だったのだ。
なぜ? とずっと考えていた。「死ぬのが怖い」と言っていたから、自殺はするけども1日でも長く生きたいと思い、節約していたのか。でも、どうせ死ぬんだから1日2日、むしろ1ヶ月くらいどうでもよくないか? 変な話、大切な友人や恋人がいるなら1日でも長く生きていたいと思うかもしれないけど、このブログ主は友人もいないようで独り身で、ブログに誰か他の人物が登場したことはなかった。じゃあいいじゃん、1日1日を細々と生きるよりパーっとやってパーっと死んだらいいじゃん。貯金だって、最初は200万くらいあったのだから、2泊3日の小旅行なんかじゃなく、バックパッカーになって世界一周だってできたのに。
ひどいことを書いているようだが、これはすべて「私が彼だったらそうする」という話である。私だったらついでに、「死を覚悟したブロガーの世界一周ブログ!」とかで稼げないかなとワンチャン狙う。上手く行ったら「みなさんのおかげでもう一度生きようと思いました」とかテキトーに感動っぽくまとめればいい。失敗して死ぬことになってもちょっとした伝説になれる。私だったら絶対にそうする。汚い話を抜きにしても、世界中の美しいものを見ないまま自殺なんてごめんだ。
だから何となく、このブログ主の彼の行動は長年、疑問だったのである。「死ぬのってそんなにおっかないのかな〜」などと考えていた。銀座の高級店で死期を1ヶ月早めるのなら、1日でも長く生きてファミレスのハンバーグ。人間ってそういうもんなのかな、と考えていた。
想像力の向こう側
もちろん、真意は自殺した(かもしれない)彼にしかわからない。だから以下のことは、あくまでも私の推測である。
ブログ主はおそらく、想像できなかったのだ。あるはずの選択肢を除外したのではなく、最初から選択肢などなかったのだ。
って書くと、銀座の高級店くらい思いついてもいいだろと思うけど。だけどやっぱり彼は、「銀座の高級店に入る自分」というのを、思いつかなかったのだと思う。思いつかなかったというか、上手く思い描けなかったというか。その姿を、リアルに想像することができなかったのだと思う。
同じように、「バックパッカーになって世界一周する」ことも、「5000円のヨーグルトを取り寄せてみる」ことも、おそらく頭に浮かぶことさえなかったのではないかと思う。「そういうことをやるより、1日でも長く生きたかった」のではなく、「そういうことはそもそも思いつかなかった」のだ。
人間は、想像力の範囲内でしか動けない。
イタリアをリアルにイメージできない人は、イタリアに行く意欲なんてわかないから、イタリアに行けない。5000円のヨーグルトがあることを知らない人は、そんなものを頼むことをそもそも思いつかない。『シン・ゴジラ』が上映していることを知らなかったら、怪獣映画を観に映画館に足を運ぶことはない。知っていることしかできない。知っている範囲でしか動けない。想像力の向こう側には行けないのだ。
もちろん、この世のすべてを知り尽くすなんて神じゃない限り不可能である。だから私たちは例外なく、常に何かを知らずに、何かを見落として、何かの可能性を潰して生きている。それはしょうがない。彼が惨めだとも思わない。私にだって、想像力の限界がある。自殺するんならその前に世界一周したいけど、ある人は「世界一周ごときで済ますの?」と私を気の毒に思うだろう。でもその人だって、やっぱり想像力には限界があって、それはだれだって同じで、だれかの想像力の貧困さを笑える人間なんていないのだ。「ファミレスのハンバーグ」はだから、彼がリアルに想像できた範囲内では本当に、この世でいちばん贅沢な食事だったのだと思う。
想像力には限界がある。想像力の向こう側へは行けない。
だから、まだ知らないことを悔しいと思う。すでに知っていることを尊いと思う。全部はちょっと処理しきれないけれど、だれかが教えてくれたものは試したいと思う。自分も知識の出し惜しみをせずに、(余計なお世話にならない範囲で)だれかに教えてあげたいと思う。今日より明日の世界が豊かでありますように、今日より明日の選択肢が広がっていますように、と願う。
ブログ主が最後のエントリを更新したのは夏だった。私がそれを読んだのも、夏だった。だから夏になると毎年思い出してしまう。あの、ファミレスのハンバーグのこと。
(1つ言うんであれば、想像力の限界を突破できるものも私は知っている。それは他者がもたらす「偶然」である。他者は人間であることが多いけれど、必ずしも人間であるとは限らない。でも長くなるので、その話はまた別の機会に)