取材の一環で体験入店をしてみたキャバクラの入り口に、盛り塩がしてあった。以来、夜のお店とか、あとはラブホテルの入り口にある盛り塩に目が行くようになり、そういえば今まで通りかかったお店にもそういうところが多かったな、と思い出した。
最初に盛り塩に気が付いたときはつい、何かおどろおどろしいものを連想してしまったのだけれど、調べてみるとどうやら、魔除けとか幽霊が出るとかっていうよりは、単に商売繁盛を願ってという意味合いが強いみたいだ。でも、本当に商売繁盛だけでいいんなら招き猫でもいいじゃんって思うし、塩を取り替えるのってけっこうめんどくさいし、「夜のお店」に多い、っていうのはきっとその慣習に何かしらの意味はあるんじゃないだろうか。人間の欲望が入り乱れる場所なので、清めておかないと悪いものが溜まるとか考えられているのかもしれない。そういえば、シチリアのエクソシストに迫ったドキュメンタリー『悪魔祓い、聖なる儀式』では塩を水に溶かして聖水(スピリチュアルウォーター!)を神父が作っているシーンがあるのだけど、塩に魔除けの意味合いを持たせている文化圏は、世界各所にある。なんでだろ。
- 作者: 佐々木宏幹
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1996/10
- メディア: 文庫
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古い本なので今はまた変化しつつあるのかもしれないが、『聖と呪力の人類学』によると、日本の民俗学でシャーマニズムを研究する際、東京や大阪などの大都市は無視されることが多かったようである。確かに、シャーマニズム研究ってなると青森のイタコか沖縄のユタか、みたいな話になりそう。しかし、当然ながら大都市にもシャーマン(霊能者)はいて、こちらの本ではその“大都市圏のシャーマニズム”にきちんと言及している。
大都市圏のシャーマニズムの大きな特徴は、青森のイタコや沖縄のユタのような「型」がないことだという。特徴がないことが特徴、と言われているみたいで「はぁ!?」と思うが、一般の人と同じように、大都市においてはシャーマンもまた地方出身者が多い。そのため、それぞれの出身地域の型を独自に持ち込むので、「東京」「大阪」など全体としての型は定まらないんだそうだ。
ただ世界の大都市と比較してみると、実はシンガポールやクアラルンプールや台北のシャーマンには「型」があるそうで、大都市だから型がない、と一般論で語ることはできないらしい。このへんは深く掘ると、そもそもの「都市の成り立ち」みたいなのを考える話になってしまいそうなので、面白そうだけど今回は割愛。
「霊能者に会って以来、人の心が見えるようになった」と語った知人がいた。
話を聞いたときは、うわ、めっちゃ胡散くさ〜〜と思ったが、しかしまあ彼の言い分によると、知り合いのツテで会った霊能者にアドバイスされた通りに日本全国のパワースポットを巡ってみたら、眠っていた力が開花したのだそうだ。人の心が見えるので、仕事の商談などで役に立ちまくりで、その日も億単位の契約を取り付けてきた、と誇らしげに語っていた。週末になると、「今日は箱根だな〜」などと思い立って、日本全国の温泉にエネルギーをチャージしに行くという。
「私にもその霊能者、紹介してくださいよ〜〜」と揉み手でモミモミしながら言ったら「ダメ」と言われたので、話半分に受け取っているが、その霊能者はタロット占いが得意らしい。神奈川出身で関東にしか住んだことのない私は、いわゆる「東京」と「地方」の比較はできないのだが、東京は本当にいろんな人がいる。
「夜のお店」自体は地方にだって全然あるけど、ラブホテルや風俗店が百花絢爛と咲き乱れているのは、大都市だけだ。
東京って、食べ物とか建築とか自然とか、物理的な魅力はもうほとんどないんじゃないかと私は思うんだけど、唯一やっぱりまだ魅力的に映る点は、「とにかく人が多い」という部分だろう。この部分だけは絶対に地方都市は勝てない。人が多いから、人に寄せ付けられてさらに人が集まる。嫉妬も醜い欲望も、嘘も真実も全部集まる。「うさんくさい金をうさんくさいとも思わず、金で願いごとをかなえた街──。」これは私がブログで何度も引用している、フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』に出てくるマンハッタンを形容した一節だけれど、いつ読んでもなんて美しい文章だろうと感心してしまう。
東京の飲食店や風俗店の入り口にある盛り塩を全部合わせたら何キロになるだろう。それらを持ってしてもなお浄化できない、大都市に入り乱れる醜い欲望のことを、私はやっぱり嫌いになれないのだった。