チェコ好きの日記

もしかしたら木曜日の22時に更新されるかもしれないブログ

【2】私は島とセックスできただろうか?

バリ島旅行記の続き。

【1】サイババの弟子に未来を占ってもらってきた。 - チェコ好きの日記

バリ島の伝統的呪術師「バリアン」のいまいちすっきりしない占いを体験した日の夜、私はガイドのワヤンさんにすすめられ、ウブドの中心地で伝統芸能ケチャダンスを鑑賞してみた。

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しかし当然といえば当然なのだけど、「観光客向けにやっている」感が否めない。それもそのはず、ケチャ1920年代から30年代にかけて、廃れきっていたところをドイツ人の画家が再興させバリの伝統芸能ということに「した」、なんて話を聞いた。日本の初詣も明治から大正にかけて鉄道会社が行なったキャンペーンがもとになっているという話があるけれど、まあ伝統の中にはそんなものもあるのだろう。

が、じゃあケチャはつまらなくて見る価値がなかったかというと、もちろんそんなことはない。火の玉を素足で蹴っとばすショーがあったのだけど、あれは普通に危ないしどうやってるんだろう? と思った。足の裏の皮が厚いのだろうか。そういう問題じゃないのだろうか。

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それよりも印象に残っているのは、ケチャダンスの鑑賞を終えて宿に戻ろうとした帰り道だ。私は宿泊先をAirbnbで予約したのだけど、この宿が田んぼのど真ん中でだいぶ辺鄙なところにあり、昼はいいが夜になると街灯もなく真っ暗だったのである。iPhoneのライトを点けなければ足元がまったく見えない。

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(※これは明るいときに撮った写真だが、この場所が暗くなったときを想像してみてほしい)

まったくの闇──というのをきっと、都心に住む日本人の多くは久しく体験していないのではないだろうか。日が暮れて太陽が沈んでも、街はネオンや街灯やオフィスビルの電気で、眠ることなくぴかぴかしている。だけど私が歩いた、宿へと帰る道には、そんなものは一切なかった。iPhoneのライトという頼りない明かりで(それだってないよりはだいぶマシだが)、この道で合っているのかと不安になりながら、虫や蛙の声を聞きながら一人で歩いた。途中、道を間違えたらしく変な畦道に入り込んでしまい、だいぶ焦った。

だけど、私はこの「まったくの闇」、頼るものが視覚以外の自分の五感しかないという状況を、ずっとずっと求めていたようにも感じた。バリ島到着前の飛行機で読んでいた『ヤノマミ (新潮文庫)』という本は、「闇、なのだ。全くの、闇なのだ」という一文から始まるのだけど、私はこの一文でかなり動揺してしまったのである。「まったくの闇」を私は知らないし、知っていたとしても、だいぶ昔に忘れてしまった気がする。漆黒の闇と吐き気がするほどの恐怖。私は、人類が必死で逃げてきたはずのそれを、なぜか今ものすごく懐かしく思っている。

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(※本当に田んぼのど真ん中にある宿)

翌日は、ガイド・ワヤンさんの車で終日バリ島を観光した。ティルタ・エンプルとか、ブサキ寺院とか、キンタマーニ高原とか、ゴア・ガジャとか、カルタゴサとか、そのあたりの有名どころの寺院を巡る。

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ふと疑問に思ったので、ワヤンさんに「インドのヒンドゥー教とバリのヒンドゥー教は何がちがうんですか?」と聞く。いわく、バリには4世紀頃インドからジャワ島を経てヒンドゥー教が伝わったが、オリジナルのヒンドゥー教がバリの土着の多神教と合体し、それが今あるようなヒンドゥー教になっているらしい。日本の神仏習合みたいなものだ。ヒンドゥー教では牛は神聖な生き物なので食さないことになっているが、バリ・ヒンドゥーではカーストの階級によっては一部食べる人もいるし、他にもいろいろなローカルルールがあるらしい。

だけど、実はインドネシアでは、バリ島に住む人々以外のほとんどがイスラム教を信仰している。なぜかバリ島だけ*1が、後から伝わってきたイスラム教が根付かず、そのままヒンドゥー教の島として残ったのだ。理由はよくわからない。この島は、よっぽど多神教の世界観が強固なのかもしれない。

それぞれの寺院は、地元の人と観光客が入り乱れていてなんだか不思議な雰囲気だった。私たちがパシャパシャ写真を撮る傍で、地元の人が熱心に神様に祈りを捧げている。キリスト教の教会でも、エルサレム嘆きの壁でもそうだけど、「祈る人々」を見るというのはすごく変な気持ちだ。

彼らはそれを信じている。だけど、私はそれを信じていない。彼らには見える。だけど、私には見えない。人と人との間にある断絶を、まざまざと見せつけられている気分になる。

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「バリ島にいると、何だかこの島とセックスしているような気持ちになる。とても不思議な気分だ。他の島ではこうはならない。バリ島だけだ。このクタ・ビーチで波を眺めている間に、ふと気がつくと十八年もたっていた」(p.153)

中島らもの小説『水に似た感情 (集英社文庫)』はバリ島を舞台にしていて、この島を一人の人間になぞらえている。バリ島に入ることは一人の人間の胎内に入ることであり、いわくクタ・ビーチで波を眺めていると島とセックスができるらしい。もしそれが本当なら、こんな極楽はないと私はわくわくして出かけたのだが、私が島とセックスできたかどうかは疑問が残る。やはり小説にあるように、マジックマッシュルーム*2でもやらないとそんな没入感は得られないのだろうか。

バリ島の11月は雨季なので、お昼頃から雨が降ってきてしまった。しかし、雨が降ると生き物が喜んでいるのがわかる。なんだか得体の知れないものがたくさんいるのがわかる。だから、私はバリの雨はとても好きだと思った。

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次回へ続く

*1:正確には、バリ島近くのレンボンガン島などもバリ・ヒンドゥーの島であるらしい。私は宗教分布に生物分布境界線が関連していると考えていて、これに関しては後日書く。

*2:もちろん犯罪です。

祈る人々

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2010.イタリア.トスカーナ
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2016.イスラエル.エルサレム
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2016.イスラエル.エルサレム
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2016.イスラエル.エルサレム
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2016.イスラエル.エルサレム
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2016.イスラエル.エルサレム
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2016.イスラエル.エルサレム
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2016.パレスチナ自治区.ベツレヘム
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2016.インドネシア.バリ島
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2016.インドネシア.バリ島
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2016.インドネシア.バリ島
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2016.インドネシア.バリ島
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2016.インドネシア.バリ島
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2016.インドネシア.バリ島
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2016.インドネシア.バリ島
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2016.インドネシア.ロンボク島
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2016.インドネシア.ロンボク島
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2016.インドネシア.ジャカルタ
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2016.インドネシア.ジャカルタ

2016年、4人のクレイジージャーニーたちを見て思ったこと。

世間の多くの人はもうだいたい、「仕事納め」というやつも終わり、年末休みで家族と家でのんびりしているところなのだろうか。私もまあ似たようなものではあるけれど、しかしそれはそれとしてブログは書く。

2016年を振り返ると、まず公の出来事としてはイギリスのEU離脱とトランプ氏の当選が印象に残っている。あとは、不倫には芸能人であっても身近な人であってもめちゃくちゃくちゃくちゃめちゃくちゃ興味がないのだけれど、それでもなんだか不倫報道が多い一年だったなあという印象はある。

個人的な出来事としては、2016年はやはり中東を旅行で訪れたことのインパクトがいちばん大きい。単純な旅行期間としては1ヶ月くらいだったけれど、日本に帰ってきてからもずっと中東のことやイスラム教のことを考えたり書いたりしていたので、2016年がまるまる中東だったといっても過言ではない。中東熱は未だ冷めないので、この傾向は2017年もしばらく続くと思う。

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(※モロッコ・タンジェからマラケシュへ向かう夜行列車。私は写真が下手)

それで、その中東旅行が自分の中でかなり衝撃的だったことの影響があるのだけど、TBSの『クレイジージャーニー』が面白かったなあという印象があって、振り返ってみたらこの番組に出演していた旅行者4人のトークイベントにこの1年で足を運んでいた。ブログに書いたのはそのうちの1人、丸山ゴンザレスさんのみなのだけど、他にもヨシダナギさん、佐藤健寿さん、高野秀行さんの話を聞きに行っていた。ちなみに、なぜブログにイベントに行ったことを書かなかったのかというと、ミーハーなのがバレて恥ずかしいからである(結局今、これを書いてるが)。

aniram-czech.hatenablog.com

「無視する力」が強すぎる

やっと本題に入るのだけど、まずこの4人の話を聞きに行って思ったことは、どなたも「無視する力」が強すぎる、ということだ。「無視する」とは何を無視しているのかというと、世間の流行や動き、世代に共通する価値観みたいなものである。

たとえば、先に話をあげた丸山ゴンザレスさんは、世界のスラムやメキシコの麻薬カルテルを取材しているけれど、今世間でスラムが来ているか、スラムがアツいかと問われると、全然そんなことはない。ただし麻薬カルテルブームみたいなのは確かにちょっとあって、昨今けっこうな数の小説や映画が出ていたりはする。だけど、ゴンザレスさんはカルテルがブームだからメキシコに行ったというよりは、もともとメキシコのカルテル的なものに興味があって、それがたまたま流行った、という感じだと思う。世間が動いたから自分もそこに行く、あるいは世間の動きを予測してあらかじめ移動しておくというのではなく、自分は「好き」な場所にただただじっとしていて、世間がそこに注目してくれるのを一人でぽつんと待っている。クレイジージャーニーの旅行者たちからは、全員そんな印象を受ける。


もちろん、「無視する力」が弱い人たちは、疑問に思うだろう。「たまたま波が来たから良かったものの、もし一生、自分がじっとしているところにブームが来なかったらどうするの?」と。だけどそれはやっぱり「無視する力」が弱い人だけが抱く疑問で、この力が強い人にとっては、おそらくそんなのは愚問である。なぜなら、損得勘定を抜きにして、本当に「好き」だから。だから、自分がじっとしているところに上手いことブームが来ればそれは「ラッキー」、来なかったら「ま、しょうがないよね」なのだ。


「『ま、しょうがないよね』ってあんた、お金稼いで食っていかないといけないでしょうよ」と、これまた「無視する力」が弱い人たちは疑問に思うだろう。なんなの、クレイジージャーニーたちは実家が金持ちなの? と。これに関しては、私はもちろんこの方々の実家の経済力に関する情報は持っていないのでなんともいえないけど、なんだかみんな地味に知恵を絞ってお金を工面している、という印象がある。佐藤健寿さんは『奇界遺産』が代表作で、世界中の奇妙なものを取材しているけれど、そのかたわらでグラビアの撮影などもしているみたいだ。そしてグラビア撮影のときは、名前を出さない? らしい。そしてこの点でいうと、高野秀行さんは苦労が多すぎてまったく笑えない。この人はなんと、学生時代に作家デビューするもののそれ以降本が売れなさ過ぎて、40代になるまで年収200万円をこえることがなかったと以下の本で語っている。普通の神経ならとっくに筆を折っていたはずだ。

そして、私は4人の中で作家としては高野秀行さんがいちばん好きなのだけど、同世代の女性ということもあってか、トークイベントという単位で考えるといちばん興味深い話をしてくれたのはヨシダナギさんだったかなあと思う。

ヨシダ,裸でアフリカをゆく

ヨシダナギさんはアフリカの少数民族を撮影してまわっている写真家なのだけど、幼い頃からアフリカが好きで、将来はアフリカ人になりたいと幼稚園くらいのときに思っていたらしい。それだけでもなかなかインパクトのあるエピソードだけど、私が感銘を受けたのは、会場のお客さんからの質問で、「結婚や出産、今後のキャリアについてどう考えていますか?」と聞かれたときのヨシダさんの回答である。


ヨシダさんはなんと、この質問に対して、「そういうことは、考えていません。」と言い放っていたのだ。

いわく、ヨシダさんは遺伝子こそ違えど思考は先住民族アフリカ人なので、今日何がしたいか、明日何がしたいかまでしか考えることができない。1年後とか、3年後とかのことを考えられないのだそうだ。だから、結婚をどうするかとか、出産をどうするかとか、キャリアについてとか、そういうことは頭にないらしい。

これもまた、「無視する力」が弱い人たちにとってはちょっとありえない考え方だと思うが、私はこのヨシダさんの回答に、非常に励まされた。私は普通の人なので、それなりに今後のことなどについて考えてはいるが、それでもまわりで話に聞く限りだと、結婚や恋愛や女性のキャリアなどへの関心がかなり薄い。それよりも、中東問題とかアピチャッポンの映画とかイスラム教とか麻薬のこととかを考えているほうが好きなのだ。これは、強がっているわけでも都合の悪い臭いものに蓋をしているわけでもなく、神に誓って本心からそうなのである。

だから、ヨシダさんの「そういうことは、考えていません。」という潔い回答を聞いて、そっか、アラサーの女性だからって無理してそういうこと考えなくてもいいんだ、と勇気をもらったのだ。いや、本当は考えたほうがいいし、ここでみなさんに「そういうことは考えなくてもよろしいのですよ」などということはいえないのだけど、でも勇気をもらってしまったものはどうしようもない。


「無視する力」が「弱い/強い」という書き方をしているので、あたかも強い人はエラくて、弱い人はダメみたいな印象をあたえてしまっているかもしれないけれど、これはもちろんそういう話ではない。むしろ、「無視する力が強い」というのはたぶんおおよそロクなことがないので、どちらかというとこんな力は弱いにこしたことはない。ちゃんと世間がどちらを向いているかを見て、将来のことをきちんと考えたほうがいいと思う。ちなみに、「無視する力が弱くて最強な人」として、今年『君の名は。』などをヒットさせたことで有名な川村元気さんなどをあげることができるだろう。だから、こんな力はやっぱり弱いほうがいいのだ。


だけど、今年痛感したこととして、私は残念ながら、「無視する力」がそこそこ強いみたいである。これは自慢ではなく、完全に「残念なお知らせ」だ。世間が今、どう動いているかなんてわからない。これからどういう動きが来るかなんて予測できない。女性だけど、女性の気持ちなんてわからない。もちろん、男じゃないから男の気持ちなど知る由もない。まあ、エラそうにそういうことを語ってみたくなるときもたまにあるのだけど、基本的に、私のいうことは全般的にアテにならん、と我ながら思う。

2017年も、たぶん自分の好きなことについてしか書けない。ただし、私は「無視する力」がそこそこ強いが逆にいうとそれほど強力に作用しているわけでもないので、きっとまた中途半端に流行りものにも手を出すと思う。まあ、それでもいいか。

とりあえず、「評価されなくてもずっと続ける」というのは常軌を逸した行為なので、作家生活二十ウン年ずっと「売れない売れない」といい続けしかし筆を折らずまわりに迎合するでもなく酔狂なことをやり続けた高野秀行さんがいかにスゴイかということが伝わればよい。高野さんはスゴイ。

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(※年明けはたぶん旅行記から再開)

2016年に読んで、面白かった本ベスト10

12月になると毎年自分でやっている、恒例の「今年読んで面白かった本ランキング」。完全に自己満足だけど、これを書かないと気持ちよく年を越せない気がする。ちなみに昨年のランキングはこちら。
aniram-czech.hatenablog.com

今年はいろんな本に手を出してしまい、あまりにも絞りきれなさすぎたので、昨年ベスト5だったのを2倍にして、ベスト10にしてみた。なのでちょっと長いけれど、まずは10位から振り返ってみようと思う。(※2016年に発売された本ではなく、2016年に私が読んだ本です。)

10位 『アヘン王国潜入記』高野秀行

アヘン王国潜入記 (集英社文庫)

アヘン王国潜入記 (集英社文庫)

まずは辺境ノンフィクションライター・高野秀行さんの『アヘン王国潜入記』から。今年私は高野さんの本にどハマりしてしまい、このランキングも本当は10位から1位まで、すべて高野本にしたい勢いだった。が、それではさすがに芸がないので、「高野本は3冊まで」というルールを設けてランキングを作成することにした。つまり、この後まだ2冊高野本が登場する。

それはさておき、『アヘン王国潜入記』は、ミャンマーの国境付近でアヘンを密造している(いた)「ゴールデントライアングル」という地帯に高野さんが潜入、7カ月滞在し、その様子を綴ったルポである。あらすじを読むと「反政府ゲリラ」に「アヘン」にと、ヤバそうな単語が並ぶのでどんな禍々しい書かと思うのだが、高野さんはケシ栽培を行なう村の人々をとってもハートフルに、ユーモラスに描いている。ゲリラとの交渉からインフラがまるで整っていない辺境での滞在、そして取材のために自らアヘン中毒になるという体当たりすぎる姿勢に、「これが、本気の、本気の、本気の旅か……!」と非常に感銘を受けた。私もこういう旅がしたいんだ! と強烈に思ったのだけど、いかんせんハードルが高すぎる。ちなみに高野さんはこの後、アヘン中毒を脱するためにアル中になったそうだ。

だけど、『クレイジージャーニー』などのテレビ番組をご覧になった人はわかると思うのだけど、高野さんは決して「屈強な男」という感じの人ではない。いつもニコニコしているし、なんならめっちゃいい人そうだ。道とかすごく親切に教えてくれそうでもある。そこがまたカッコイイなあと思う。

9位 『奇界紀行』佐藤健寿

奇界紀行

奇界紀行

写真家・佐藤健寿さんが珍しく写真より文章多めで綴った旅行エッセイ。台湾、アフリカ、南米、はては奥多摩の話まで載っている。私がいちばん好きな話は、佐藤さんが占い師の警告を無視してタイの海に潜ったら、溺れて死にかけたというやつ。あとは、アフリカで霊感商法に騙されそうになったという話も。アフリカの呪術師市場は私もいつか行ってみたいと思っていて、ワニとかフクロウの死骸や、得体の知れない動物の骨が売られているところを生で見てみたいなあと思う。ちなみに、この本に書いてあるインドネシアで有名なジャコウネコのうんちコーヒー、コピ・ルアクは私も現地で飲んでみた。けっこう美味しかったし、知人にお土産で買って行ったのもわりと好評だったように思う。

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(※バリ島。コーヒー豆をすりつぶしているところ)

8位 『世界屠畜紀行』内澤旬子

肉は毎日のように食べているけれど、牛や豚が解体されるところは見たことがないという人は多いはずだ。ノンフィクションライターの内澤旬子さんが世界を旅して「屠畜」に迫った禁断のルポである『世界屠畜紀行』は、写真こそないものの、内澤さんによるイラストで、解体や食肉加工の詳細を知ることができる。

この本で内澤さんは、東京にとどまらず、韓国、バリ島、エジプト、他それぞれの国・地域で食肉業を営む人々が、どのように差別感情と闘っているかなどを書いている。かなり差別意識が強い地域もあれば、生活にゆるやかに同化していて「なんで? だってみんな肉は食べるでしょう?」って感じの地域もあり、その差を作り出しているのが宗教なのか、あるいは偶然なのか、読んでも実はよくわからない。

バリ島とチェコはそういった差別意識の弱い地域だそうで、確かに、バリ島では絞めた鳥を持って歩いている人が普通にいた(下の写真)。チェコも、私は昔研究していたので覚えているのだけど、映画の中で普通に鳥を絞めるシーンがあった。見慣れてないので一瞬「うわっ」と思うのだけど、映画はその後も普通のテンションで展開していった。「シュールだな〜」と思っていたのだけど、その謎が解けた気がする。

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7位 『優雅な獲物』ポール・ボウルズ

優雅な獲物

優雅な獲物

美しい歌声をもつ者は、やがて惨たらしい死を遂げる/ポール・ボウルズ『優雅な獲物』 - チェコ好きの日記

詳しい感想は以前書いたので割愛するけど、ポール・ボウルズを読むと、モロッコを旅したときの楽しさが2倍になる。ボウルズの描く、「あまりにも遠くへ行きすぎたために、もはや帰還が不可能になった旅行者」という主題が私は大好きだ。

しかし「帰還が不可能」ということは、ボウルズの時代ならいざ知らず、インターネットでどことでも繋がることが可能になった現代ではほぼ「死」とイコールである。ポール・ボウルズの小説のような旅行がしたい。死にたくはないけれど、死の直前、あるいは生のギリギリまで行ってみたい。これは危険思想だろうか。ポール・ボウルズの文学は、「ハマったらダメ、でもハマっちゃう」というなんともヤバイ魅力に溢れている。ヤバイ

6位 『インドへ』横尾忠則

インドへ (文春文庫 (297‐1))

インドへ (文春文庫 (297‐1))

【日記/42】ヒッピー文化、わかりました|チェコ好き|note

これも実は以前に感想を書いているので詳しくは省略するけれど、画家の横尾忠則がインドを旅したときのエッセイだ。とりあえず登場するのは薬物、薬物、薬物。ニューヨークでラリった後にインドでドラッグをやるとは、ヒッピー文化ここに極まれりという感じである。だけど、横尾忠則自身はヒッピー文化ど真ん中に浸りながらも、最終的には「ヒッピーなんて全然自由じゃない。こんなのは自由とはいわない」みたいな結論を出していて、そこが私としてはすごく好きだ。

5位 『東京を生きる』雨宮まみ

東京を生きる

東京を生きる

感想文:雨宮まみ『東京を生きる』 - チェコ好きの日記

これも先日感想を書いたばかりなので詳しくは割愛。私は実は雨宮まみさんの『女子をこじらせて』が苦手だったのだけど、『東京を生きる』はもっと普遍的に、女性だけでなく、男性にも読める本なのではないだろうか。だけど逆に、すごく個人的な心情について書かれているので、「私の苦しみを代弁してくれた!」みたいなことにはならないのではないかと思う。そして、『東京を生きる』が好きな人にはぜひフィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』と『夜はやさし』、そして『マイ・ロスト・シティー』を一緒にすすめたい。

4位 『腰痛探検家』高野秀行

腰痛探検家 (集英社文庫)

腰痛探検家 (集英社文庫)

自己啓発と婚活と腰痛病院 - チェコ好きの日記

高野秀行さんの本、私はすっごく好きなのだけど、きっとこれを読んでいる人の中には「辺境とか興味ねーし」という人もいるだろう。そんな人におすすめしたいのが『腰痛探検家』。世界中のありとあらゆる辺境を旅してきた高野さんだけど、無理が祟ったのかひどい腰痛になり、東京中の整体・病院・マッサージを渡り歩くことになってしまう。

私はこの本を、今、仕事や恋愛に悩んでいる人にぜひ読んでみてほしいと思っている。仕事や恋愛に悩んでいる人に辺境ライターの腰痛本をすすめるとは前代未聞もいいところだと思うが、しかしこれは本当にそういう本だ。整体師、医師、鍼師、だれを信じればいいのかわからない。何が本当なのかわからない。そんな中で、高野さんが何とか自分の力で、オンリーワンの腰痛治療法にたどり着くという感動・涙・全米が泣いたエッセイだ。私はこの本に「世界の真実が書いてある」と強く主張しているのだけど、残念ながら同意してくれる人はまだいない。

3位 『ひと皿の記憶:食神、世界をめぐる』四方田犬彦

ひと皿の記憶: 食神、世界をめぐる (ちくま文庫)

ひと皿の記憶: 食神、世界をめぐる (ちくま文庫)

映画批評家四方田犬彦さんが著者のこちらの本は、並の食エッセイとはちょっとスケールがちがう。幼少時代に食べたお菓子や大阪や金沢の美食から、韓国、インドネシアコソボ、イタリア、フランス、ノルウェーなどなど世界の食べ物について書かれているのだけど、道楽として食の贅沢を楽しむにとどまっていない。世界には様々な食文化があり、食と民族、食と政治、食と宗教などといったテーマにかなり深く切り込んでおり、文化人類学の本としても読める。

四方田さんの凄いところは、食べる専門ではなく、やはり自分で実際に料理をしてみているという点にあると思う。フォアグラを食べたことのある人は世に腐るほどいるけれど、はたしてフォアグラを市場で割安で買ってきて、自分で調理をしたことがあるという人はどれくらいいるだろうか? あと、「イタリア語を勉強するためにイタリアに語学留学するだけでなくイタリアの料理教室に地元の主婦に紛れて通った」などというエピソードはなるほど、と思う。

しかし、幼少時代のエピソードなどをしっかり読みすぎてしまうと、「やっぱ四方田さんは金持ちのぼっちゃんだからな。庶民とはちがうんだわ〜」などと思ってしまい、卑屈になるので注意。少なくとも私はこの本に出てくるような上品な菓子は食っていなかった。

2位 『西南シルクロードは密林に消える』高野秀行

西南シルクロードは密林に消える (講談社文庫)

西南シルクロードは密林に消える (講談社文庫)

私がいちばん好きな、高野秀行さんの本。途中まで絶対にこれが2016年の1位だと思っていたのだけど、先月バリ島旅行中に読んだ『ヤノマミ (新潮文庫)』がいい本すぎたので、泣く泣く1位を譲る。30代後半の高野さんが、中国・四川省成都から、ミャンマー北部を通過、インドに到達するという「幻の西南シルクロード」を4ヶ月かけて旅した記録である。

シルクロードの旅か〜快適そうでいいな〜〜」と一瞬でも思ったあなたは、今すぐ土下座して謝ってほしい。このあたりは政情が複雑で、一般旅行者はまず立ち入ることのできないエリアである。反政府ゲリラと共に身分証を偽造する密入国の旅、しかも象に乗って進む行程は過酷すぎるアジアのジャングル。そして衝撃のインド。高野さんがなぜ死んでないのか不思議である。シルクロードという綺麗なタイトルがついてしまっているので表向きはわからないけど、この旅、『アヘン王国潜入記』のさらに2段階くらい上を行くハードさだ。

1位 『ヤノマミ』国分拓

ヤノマミ (新潮文庫)

ヤノマミ (新潮文庫)

私が今年いちばん感動した本について。:国分拓『ヤノマミ』 - チェコ好きの日記

というわけで、2016年に読んでいちばん面白かった本は、国分拓さんの『ヤノマミ』。すでに感想を書いてしまっているので詳しくは語らないけど、本当にいい本だった。民族と記憶とか、民族と呪術とか、どうして私はこの世界に生きているのかとか、生きることはなぜ苦悩が伴うのかとか、真面目なことをいっぱい考えた。

来年もまた、面白い本にたくさん出会えたらいいなと思う。いやしかし、自分に嘘を吐かず、正直にランキングを考えたら、「不良に憧れる中学生」みたいになってしまいとても恥ずかしい。

感想文:雨宮まみ『東京を生きる』

人の訃報に触れてその人の本を手にとってみるという行為は、咎められはしないもののあまり品の良い行ないだとは思えない。だけど、そういえばどんなことを書いていた人だったんだっけ、とAmazonで検索していたらどうにも止まらなくなってしまい、気が付いたときには雨宮まみさんの『東京を生きる』が自宅に届いていた。

東京を生きる

東京を生きる

読み終わったとき、私は残念ながらこの本で雨宮まみさんが描いた世界には1ミリも共感できない、とまず思った。

だけど、私はそもそも「共感」というものに、あまり価値を置いていない。共感できるから素晴らしくて、共感できないから理解できないなんて考えは、悪いけどちょっと幼稚だなーと思う。1ミリも共感できなくても素晴らしいと感じるものはあるし、すごく共感できるけどくだらないと感じるものもある。『東京を生きる』は前者だった。

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『東京を生きる』に登場する東京は、クレイジーな都市だ。

ここで私が、「東京は、クレイジーな都市だ。」という書き方をしないのは、当然ながら、クレイジーであるだけが東京ではないからである。少なくとも、私が普段見ている東京は、こんなクレイジーではない。もちろん、どちらの東京が正しい姿か、どの東京が真の姿かなんて考えるのは滑稽で、その人にそう見えているのなら、それは紛れもない「真の姿」だ。

『東京を生きる』に登場する東京は、こんなふうに描写されている。どの描写も、びっくりするくらい下品で、醜く、派手で、そして美しい。

東京の夜景の、ビルの上の赤く点滅する灯りが好きだ。
東京湾にそびえ立つ無数のクレーンが好きだ。
まばゆく光る夜景の中で、そこだけ真っ暗に沈み込む代々木公園や新宿御苑の森が好きだ。
街灯が十字架の形に光る青山墓地が好きだ。
生きている者の欲望のためにいくらでもだらしなく姿を変えてゆく、醜い街が好きだ。


ほかの街では、夢を見ることができない。ほかの街では、息をすることもできない。
(p.8)

しかしこんなような描写を読み進めていくうちに、不思議な既視感が沸き起こる。私はこれを、以前どこかで読んだことがあるような気がする。

……しばし考えて、おお、これは私が好きすぎて50回以上通読しているスコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』にそっくりの世界じゃないか〜! と思い至った。

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)

グレート・ギャツビー』に登場するのは、1920年代のニューヨーク、マンハッタンだ。

大きな橋を渡る。橋梁を突き抜ける日射しが、行きかう車をちらちら光らせ、川の向こうには大都会が、白く、うずたかく、角砂糖のように立ち上がる。うさんくさい金をうさんくさいとも思わず、金で願いごとをかなえた街──。クイーンズボロ橋から見る都会は、いつ見ても初めて見るようだ。世界中の謎と美を、いま初めて差し出してくれるように見える。
グレート・ギャッツビー (光文社古典新訳文庫)』(p.111〜112)

雨宮まみさんが描く東京と、フィッツジェラルドが描くニューヨークは、とてもよく似ている。雨宮さんがよく通ったという東京のクラブは、ジェイ・ギャツビーがお城のような邸宅で開催していたパーティーと重なるし、欲望を叶えるためにはとにかくお金が必要で、都市の中で消費の渦に飲み込まれていくところもよく似ている。そんな生活を、「空虚だ」「中身がない」「地に足がついていない」と一蹴するのはたやすいのだけれど、しかしそれは、「空虚で」「中身がなく」「地に足がついていない」からこそ美しいのだ。正しいものが美しいとは限らない。上品なものが美しいとも限らない。どうしようもなく間違っていて、下品で、しかしそれ故に美しいというものが、この世界にはあるのだ。

そういえば、『東京を生きる』には、こんな描写もあった。

走る夢を見ている。マラソンのランナーのように、私は走っている。正確には、走ろうとしている。空気の抵抗が、まるで水中にいるみたいに重く、私は両手を交互に、空を切り裂くように必死で動かしながら、全身で走ろうとする。(中略)
悪夢というわけではない。ただ、「もっと速く走れるはずなのに」と思う。もっと速く、力いっぱい走れたら気持ちいいのに、と。
(p.49)

実は『グレート・ギャツビー』にも、同じような描写がある。私がこの小説で、いちばん好きな部分だ。引用が続き恐縮だが、こちらもちょっと読んでみてほしい。

ギャツビーは緑の灯火を信じていた。年を追うごとに我々の前からどんどん遠のいていく、陶酔に満ちた未来を。それはあのとき我々の手からすり抜けていった。でもまだ大丈夫。明日はもっと速く走ろう。両腕をもっと先まで差し出そう。……そうすればある晴れた朝に──
だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも。
グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)』(p.325-326)

もっと速く走れるはず。もっと両腕を先まで差し出せば、きっと自分の望む未来が手に入る。そう思って、必死にボートを漕ぎ続ける。だけどそのボートは、過去に押し戻されている。『東京を生きる』では、東京と同じくらい、雨宮さんの故郷である福岡が、憎しみとともに登場する。ジェイ・ギャツビーが目指した未来も、戦争に行く前に愛し合っていた、でも今はもう心変わりしてしまったデイジーを、もう一度手に入れることだった。前進しているようで後退している。だけど、人間なんて皆そんなものだろう。1920年代のニューヨークでも、2010年代の東京でも、それは変わらないのだ。過去に負った傷を、大人になってからも必死に塞ごうとしている。

もしフィッツジェラルドに『東京を生きる』を読ませたら、めちゃくちゃ喜ぶんじゃないかと思う。あなたが描いたニューヨークと同じ世界が、百年後の、ニューヨークとは遠く離れた場所にもあるんですよと伝えたら、彼はどんな顔をするだろう。

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ここから先は、もしかしたら読んでいて嫌な気分になる人がいるかもしれない。だけど、少し私自身のことも書いてみる。

実は私は、自分の欲しいものが、かなりはっきりとわかっている人間だ。冒頭に「1ミリも共感できなかった」と書いたが、その理由は主にここにある。『東京に生きる』の雨宮まみさんは、「自分の欲望がよくわからない」といっていて、週末の夜に、「何か」が欲しくて都心にぶらりと買い物に出かけ、孤独を感じたりしている。私は、そんなことはしない。ついでにいうと、関係があるかどうかはわからないが、私の家のクローゼットには、いわゆる「タンスの肥やし」が一着もなかったりする。実用性のないものをほとんど買わないし、うちに訪ねてきた人はだいたい家の中を見回して「モノが少ないね」というので、どちらかというと一時期良くも悪くも流行ったミニマリストの傾向に自分はあるのだと思う。物欲もほとんどない。

もちろん悩むことはあるが、それは「欲しいもの」を手に入れるための道順や効率に悩んでいるのであって、「欲しいもの」自体に迷いはないのだ。だから、人と比べて収入が少ないかもとか、もう30歳なのに未婚でどうしようとか、そういうことで私は悩まない。人と自分を比較するということをほとんどしないし、自分が人からどう見られていても、別にかまわないと思う。

だけど、『東京を生きる』を読んでいると、そんな私の生き方って何だか小賢しいし、魅力がなくてつまんないかな、と思う瞬間がある。これは謙遜でも何でもなく、本当にそう思うのだ。人はときに悩み葛藤するその姿こそが魅力的で、他の人の心を動かすことができる。だけど、私にはそれができない、と思う。

自分に不要なものをどんどん捨てていく行為は、「正しい」かもしれないけど、はたして美しいだろうか。早朝に目覚めて、香り高い珈琲を淹れて、バリバリ仕事をこなして1日を精力的に過ごすことは、「正しい」かもしれないけど、はたして美しいだろうか。それってレディオヘッドが歌うところの、「抗生物質漬けの豚」ってやつじゃないのか? 不要かもしれないものに囲まれて、欲しいものがわからず、その中で葛藤していてもいいのではないか。深夜までぐじぐじと悩んで泣いて、目覚めたら昼過ぎで、何もせずに1日が終わっても、そんな日は本当に価値がないだろうか。


フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を読んで以来、絶対に叶わない夢を私は抱いていた。彼が妻のゼルダと過ごした、1920年代のニューヨークをこの目で見ることができたら、どんなに素敵だろうと思っていたのだ。

だけど、実はその世界って、すぐそばにあったのかもしれない。人間は変わらない。百年経っても、遠く離れていても、そこで営まれる人間の行ないは、同じだ。


もう、1920年代のニューヨークが見たいと私は思わない。

そこはきっと、良い面も悪い面も、かっこいいところもダサいところも、今私が見ている世界と、そんなにかけ離れてはいないだろうから。『東京を生きる』を読んで、私はそれがよくよくわかった気がする。

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