人の訃報に触れてその人の本を手にとってみるという行為は、咎められはしないもののあまり品の良い行ないだとは思えない。だけど、そういえばどんなことを書いていた人だったんだっけ、とAmazonで検索していたらどうにも止まらなくなってしまい、気が付いたときには雨宮まみさんの『東京を生きる』が自宅に届いていた。
- 作者: 雨宮まみ
- 出版社/メーカー: 大和書房
- 発売日: 2015/04/22
- メディア: 単行本
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読み終わったとき、私は残念ながらこの本で雨宮まみさんが描いた世界には1ミリも共感できない、とまず思った。
だけど、私はそもそも「共感」というものに、あまり価値を置いていない。共感できるから素晴らしくて、共感できないから理解できないなんて考えは、悪いけどちょっと幼稚だなーと思う。1ミリも共感できなくても素晴らしいと感じるものはあるし、すごく共感できるけどくだらないと感じるものもある。『東京を生きる』は前者だった。
『東京を生きる』に登場する東京は、クレイジーな都市だ。
ここで私が、「東京は、クレイジーな都市だ。」という書き方をしないのは、当然ながら、クレイジーであるだけが東京ではないからである。少なくとも、私が普段見ている東京は、こんなクレイジーではない。もちろん、どちらの東京が正しい姿か、どの東京が真の姿かなんて考えるのは滑稽で、その人にそう見えているのなら、それは紛れもない「真の姿」だ。
『東京を生きる』に登場する東京は、こんなふうに描写されている。どの描写も、びっくりするくらい下品で、醜く、派手で、そして美しい。
東京の夜景の、ビルの上の赤く点滅する灯りが好きだ。
東京湾にそびえ立つ無数のクレーンが好きだ。
まばゆく光る夜景の中で、そこだけ真っ暗に沈み込む代々木公園や新宿御苑の森が好きだ。
街灯が十字架の形に光る青山墓地が好きだ。
生きている者の欲望のためにいくらでもだらしなく姿を変えてゆく、醜い街が好きだ。
ほかの街では、夢を見ることができない。ほかの街では、息をすることもできない。
(p.8)
しかしこんなような描写を読み進めていくうちに、不思議な既視感が沸き起こる。私はこれを、以前どこかで読んだことがあるような気がする。
……しばし考えて、おお、これは私が好きすぎて50回以上通読しているスコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』にそっくりの世界じゃないか〜! と思い至った。
- 作者: スコットフィッツジェラルド,Francis Scott Fitzgerald,村上春樹
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2006/11
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『グレート・ギャツビー』に登場するのは、1920年代のニューヨーク、マンハッタンだ。
大きな橋を渡る。橋梁を突き抜ける日射しが、行きかう車をちらちら光らせ、川の向こうには大都会が、白く、うずたかく、角砂糖のように立ち上がる。うさんくさい金をうさんくさいとも思わず、金で願いごとをかなえた街──。クイーンズボロ橋から見る都会は、いつ見ても初めて見るようだ。世界中の謎と美を、いま初めて差し出してくれるように見える。
『グレート・ギャッツビー (光文社古典新訳文庫)』(p.111〜112)
雨宮まみさんが描く東京と、フィッツジェラルドが描くニューヨークは、とてもよく似ている。雨宮さんがよく通ったという東京のクラブは、ジェイ・ギャツビーがお城のような邸宅で開催していたパーティーと重なるし、欲望を叶えるためにはとにかくお金が必要で、都市の中で消費の渦に飲み込まれていくところもよく似ている。そんな生活を、「空虚だ」「中身がない」「地に足がついていない」と一蹴するのはたやすいのだけれど、しかしそれは、「空虚で」「中身がなく」「地に足がついていない」からこそ美しいのだ。正しいものが美しいとは限らない。上品なものが美しいとも限らない。どうしようもなく間違っていて、下品で、しかしそれ故に美しいというものが、この世界にはあるのだ。
そういえば、『東京を生きる』には、こんな描写もあった。
走る夢を見ている。マラソンのランナーのように、私は走っている。正確には、走ろうとしている。空気の抵抗が、まるで水中にいるみたいに重く、私は両手を交互に、空を切り裂くように必死で動かしながら、全身で走ろうとする。(中略)
悪夢というわけではない。ただ、「もっと速く走れるはずなのに」と思う。もっと速く、力いっぱい走れたら気持ちいいのに、と。
(p.49)
実は『グレート・ギャツビー』にも、同じような描写がある。私がこの小説で、いちばん好きな部分だ。引用が続き恐縮だが、こちらもちょっと読んでみてほしい。
ギャツビーは緑の灯火を信じていた。年を追うごとに我々の前からどんどん遠のいていく、陶酔に満ちた未来を。それはあのとき我々の手からすり抜けていった。でもまだ大丈夫。明日はもっと速く走ろう。両腕をもっと先まで差し出そう。……そうすればある晴れた朝に──
だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも。
『グレート・ギャツビー (村上春樹翻訳ライブラリー)』(p.325-326)
もっと速く走れるはず。もっと両腕を先まで差し出せば、きっと自分の望む未来が手に入る。そう思って、必死にボートを漕ぎ続ける。だけどそのボートは、過去に押し戻されている。『東京を生きる』では、東京と同じくらい、雨宮さんの故郷である福岡が、憎しみとともに登場する。ジェイ・ギャツビーが目指した未来も、戦争に行く前に愛し合っていた、でも今はもう心変わりしてしまったデイジーを、もう一度手に入れることだった。前進しているようで後退している。だけど、人間なんて皆そんなものだろう。1920年代のニューヨークでも、2010年代の東京でも、それは変わらないのだ。過去に負った傷を、大人になってからも必死に塞ごうとしている。
もしフィッツジェラルドに『東京を生きる』を読ませたら、めちゃくちゃ喜ぶんじゃないかと思う。あなたが描いたニューヨークと同じ世界が、百年後の、ニューヨークとは遠く離れた場所にもあるんですよと伝えたら、彼はどんな顔をするだろう。
ここから先は、もしかしたら読んでいて嫌な気分になる人がいるかもしれない。だけど、少し私自身のことも書いてみる。
実は私は、自分の欲しいものが、かなりはっきりとわかっている人間だ。冒頭に「1ミリも共感できなかった」と書いたが、その理由は主にここにある。『東京に生きる』の雨宮まみさんは、「自分の欲望がよくわからない」といっていて、週末の夜に、「何か」が欲しくて都心にぶらりと買い物に出かけ、孤独を感じたりしている。私は、そんなことはしない。ついでにいうと、関係があるかどうかはわからないが、私の家のクローゼットには、いわゆる「タンスの肥やし」が一着もなかったりする。実用性のないものをほとんど買わないし、うちに訪ねてきた人はだいたい家の中を見回して「モノが少ないね」というので、どちらかというと一時期良くも悪くも流行ったミニマリストの傾向に自分はあるのだと思う。物欲もほとんどない。
もちろん悩むことはあるが、それは「欲しいもの」を手に入れるための道順や効率に悩んでいるのであって、「欲しいもの」自体に迷いはないのだ。だから、人と比べて収入が少ないかもとか、もう30歳なのに未婚でどうしようとか、そういうことで私は悩まない。人と自分を比較するということをほとんどしないし、自分が人からどう見られていても、別にかまわないと思う。
だけど、『東京を生きる』を読んでいると、そんな私の生き方って何だか小賢しいし、魅力がなくてつまんないかな、と思う瞬間がある。これは謙遜でも何でもなく、本当にそう思うのだ。人はときに悩み葛藤するその姿こそが魅力的で、他の人の心を動かすことができる。だけど、私にはそれができない、と思う。
自分に不要なものをどんどん捨てていく行為は、「正しい」かもしれないけど、はたして美しいだろうか。早朝に目覚めて、香り高い珈琲を淹れて、バリバリ仕事をこなして1日を精力的に過ごすことは、「正しい」かもしれないけど、はたして美しいだろうか。それってレディオヘッドが歌うところの、「抗生物質漬けの豚」ってやつじゃないのか? 不要かもしれないものに囲まれて、欲しいものがわからず、その中で葛藤していてもいいのではないか。深夜までぐじぐじと悩んで泣いて、目覚めたら昼過ぎで、何もせずに1日が終わっても、そんな日は本当に価値がないだろうか。
フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を読んで以来、絶対に叶わない夢を私は抱いていた。彼が妻のゼルダと過ごした、1920年代のニューヨークをこの目で見ることができたら、どんなに素敵だろうと思っていたのだ。
だけど、実はその世界って、すぐそばにあったのかもしれない。人間は変わらない。百年経っても、遠く離れていても、そこで営まれる人間の行ないは、同じだ。
もう、1920年代のニューヨークが見たいと私は思わない。
そこはきっと、良い面も悪い面も、かっこいいところもダサいところも、今私が見ている世界と、そんなにかけ離れてはいないだろうから。『東京を生きる』を読んで、私はそれがよくよくわかった気がする。