チェコ好きの日記

旅 読書 アート いいものいっぱい 毎日楽しい

この世に完全なるオリジナルは存在しない

突然ですが、下の画像を見てください。

f:id:aniram-czech:20131204095155p:plain
これは、チェコが生んだ奇才、ヤン・シュヴァンクマイエルの『ヴァイスマンとのピクニック』という短編映画の1ショットです。『ヴァイスマンとのピクニック』は、こちらのDVDに収録されています。

ヤン・シュヴァンクマイエル 短篇集 [DVD]

ヤン・シュヴァンクマイエル 短篇集 [DVD]


で、次です。
f:id:aniram-czech:20131204100553j:plain
これは、私が2008年にチェコに旅行に行った際、プラハ市内のお土産屋さんの入口で撮影した写真です。

上の画像と、似てません? 似てますよね??

この世に完全なるオリジナルは存在しない

チェコ人の映画監督であるヤン・シュヴァンクマイエルという人は、独特の世界をもった映像を作る人です。そして私は、シュヴァンクマイエルが描く独特の映像世界は、彼が自力で、独力で、“創作した”世界なんだと思っていました。自分で実際に、チェコプラハに行ってみる前は。

でも、プラハに行ってみたら、ちがった。シュヴァンクマイエルの世界は、“完全なるオリジナル”なんかじゃなかった。そういう話を、今回は書いてみようと思います。

私が大学4年で卒論を書くことになって、「チェコ映画のシュヴァンクマイエルについて書きたいです」とゼミの教授に報告したとき、真っ先にいわれたのが、「じゃあプラハに行ってこないとね」ということでした。

そのときの私は国内だけで資料を集めて淡々と研究を終える予定だったので、「そこまでする必要ある!?」と教授の言葉をすぐには受け入れられませんでした。でも、教授が「行かないの?」「絶対行ったほうがいいよ」「つーか行ってこい」とだんだんイライラし始めたので、私はアルバイトを頑張ってお金をため、泣く泣くチェコに行くことになったのです。同時にチェコ語も習い始め、簡単なチェコ語なら理解できるようになりました。(現在はチェコ語の知識は完全に吹っ飛んでいます)

当時は「めんどくさいなぁ」と思っていたところも若干あったのですが、実際に行ってみた今からすると、なぜ教授がイライラし始めるほど「行ってこい」と強調していたのか、死ぬほどわかります。なぜかというと、シュヴァンクマイエルが“創作した”オリジナルだと思っていた世界が、冒頭の写真のように、プラハではすぐ眼前に“現実”の光景として広がっていたからです。映画の世界に自分が入り込んでしまったようで、一瞬目眩を覚えました。と同時に、シュヴァンクマイエルの作品はここで、プラハという場所の影響を強く強く受けながら生まれた作品なんだということが、ものの3秒くらいで理解できたのです。

実は、先輩からも似たような話を聞いたことがあります。その某先輩は、フェデリコ・フェリーニの映画を研究しようと思ってゼミで発表すると、案の定教授に「じゃ、イタリアのリミニ(フェリーニの出身地)に行かないとね」といわれたんだそう。先輩は「それ、関係ある?」と思いつつ、しぶしぶリミニに旅立ったそうなのですが、行ってびっくりしたみたいです。

フェリーニの映画って、巨乳巨尻でけたたましく笑うどぎつい女性がたくさん登場しますが、先輩はそれを、やっぱりフェリーニの“創作した世界”だと思っていたらしいんですね。でも、リミニに行って地元の電車に乗ってみたら、本当に巨乳巨尻のどぎつい女性がたくさんいて、みんなでゲラゲラうるさく笑っていたんだとか。

先輩は、「あれはフェリーニの創作じゃなかったのか……」と、愕然としたといいます。

映画監督も、画家も、そしてたぶん私たちも、自分が思っている以上に、生まれた国や都市や町の影響を受けています。

その人オリジナルの発想かどうかなんて、ぱっと見ただけではきっとわかりません。その人オリジナル、自分オリジナルだと思っていたことの源流が、実は自分が生まれた場所や今の生活圏にあった、とかっていうのはおそらくよくある話です。あと逆に、自分や自分たちが“普通”だと思っていたものが、1歩外に出てみるとすごくおかしなものだったことに気付いたとかいう話も、よく聞く話ですね。このことをもう少し卑近な例で語ると、2013年に問題になってしまった「twitterでおバカな画像を晒してしまったアルバイト店員」みたいな話にも発展させられるのかもしれませんが、そこまで話を広げると私の今回の主張と若干ズレるので、割愛します。

しかし、こういうことを語るとやはり特異な存在に思えてくるのが、村上春樹という作家です。批評家先生がよく指摘なさっていることですが、彼の小説の世界にはそういう「ローカルさ」がないのです。おそらく、村上春樹の出身地である神戸に行っても、彼が長く暮らしていた(暮らしている?)神奈川県の某所に行っても、「そうか、この場所だからこそムラカミの小説は生まれたんだ」とは思いません。逆にいうと、日本でも韓国でもドイツでもアメリカでもフランスでもベトナムでも、「ムラカミの小説は実はこの場所で生まれ、この場所のことを語っているんじゃないか?」と思えてしまう。その“開かれっぷり”が、私は気になりませんが、批評家先生は気持ち悪いといいます。村上春樹の“失われたローカル”みたいな問題は、引き続きじっくり考えてみたい私の課題です。

いろんな方面に話がとびましたが、今回私が結局何をいいたかったのかというとですね。
好きな作家や画家、映画監督がいる人には、ぜひその人の生まれた場所、作家として多くの時間を過ごした場所に、実際に行って観てくることを勧めたいということです。そうすると、自分の好きな作品のいろいろな表現がどうやって生まれたのか、一瞬で理解することができるからです。「この人はここでこういうものを観て育ったから、こういう表現が作品に入っているんだな」というのが、驚くくらいあっさりとわかるのです。

シュヴァンクマイエルの創作の源流がプラハにあることがわかると、プラハ出身の別の作家のことを映画監督に限らず知りたくなりますし、そもそもプラハが歴史的にどういう都市なのかも調べたくなってきます。源流の、源流の、そのまた源流をたどっていく、永遠に続くめくるめく世界の始まりです。


このめくるめく世界に、だれかを巻き込んでみたくてこんな文章を書いているんですが、はたして。