チェコ好きの日記

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『優雅な生活が最高の復讐である』にブログのサブタイトルを変えようかと思った話。

以前「退屈は人を殺す『グレート・ギャツビー』と『ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック』 - (チェコ好き)の日記」というエントリを書いたとき、はてなブックマークのコメントで、スコット・フィッツジェラルドのフランス時代について書かれた『優雅な生活が最高の復讐である』という本があることを教えてくれた方がいました。

優雅な生活が最高の復讐である (新潮文庫)

優雅な生活が最高の復讐である (新潮文庫)

フィッツジェラルド1920年、作家として華々しいデビューを飾りニューヨークで遊び狂ったあと、妻のゼルダとともにフランスに移住します。そのフランス時代に興味があったというのはもちろんですが、何よりこのノンフィクション、タイトルが素晴らしいではないですか。『優雅な生活が最高の復讐である』ですよ、『優雅な生活が最高の復讐である』。この言葉にグッとこない人と、私は友達になれる自信がない。それくらい、私の感性のツボをつく隙のない完璧なタイトルです。

というわけで以下、『優雅な生活が最高の復讐である』(何回もいいたい)の感想文ですが、この本、今は絶版になっているようで、もとは500円くらいの文庫なのに、中古で買ったら2700円もしました。ちっ。

『夜はやさし』のモデル、マーフィ夫妻

スコット・フィッツジェラルドの『夜はやさし』、私はこの後読む予定でまだ未読なのですが、フィッツジェラルドはモデルがいないと小説が書けなかった、なんて話を聞きます。当然この『夜はやさし』にもモデルがいて、それがこのノンフィクションの主役、ジェラルドとセーラのマーフィ夫妻だというのです。

夜はやさし(上) (角川文庫)

夜はやさし(上) (角川文庫)

夜はやさし(下) (角川文庫)

夜はやさし(下) (角川文庫)

本書はライターのカルヴィン・トムキンズが、このマーフィ夫妻に行なったインタビューをもとに、夫妻やそのまわりの人々の様々なエピソードが綴られています。

このマーフィ夫妻という方々は、スコットとゼルダフィッツジェラルド夫妻よりも10くらい年上で、同じアメリカ人で、同じ時代をフランスで過ごしています。本によると、この夫妻はびっくりするくらいセンスが良くて、その生活は独創的で美しく、そして訪れる人を必ず楽しい気分にさせる、そんな才の持ち主たちだったのだとか。

フィッツジェラルドは彼らに憧れ、小説のモデルにまでしてますが、マーフィ夫妻の魅力の虜になった人物は他にもいて、ピカソマン・レイ、フェルナン・レジェ、ジョルジュ・ブラックヘミングウェイストラヴィンスキーと、錚々たる名前が次々に登場します。なかでも印象的だったのは、詳しくは書かれていないのですが、ピカソがセーラ・マーフィに叶わぬ恋をしていた(かもしれない)ということ。ピカソの女性関係といえば、「どんな女でも必ず自分の虜にし、夢中にさせ、ボロボロになったところで捨てる」みたいなひどいイメージを私は持っているんですが、そのピカソに“叶わぬ恋”をさせるなんて、セーラという人はいったいどんな女だったんだ、と思ったわけです。ちなみに、ピカソの最初の妻であり本書にも登場するオルガは、ピカソに捨てられた後、ピストルを持ってパリじゅう彼を追いかけ回し、最後は気が狂ったそうです。おそろしいですね。

でも、そんなピカソとオルガの強烈なエピソードにも負けない輝きを本書で放っているのが、やはりフィッツジェラルド夫妻。輝きというか、「やっぱりスコットもゼルダも頭おかしかったんだわ」というのがよくわかります。この2人はパーティから夜遅く帰ってくるたび、岩の上から海へ飛び込む(!)という危険な遊びをくり返していたそうなんですが、セーラがそれを注意すると、

「知らなかった? あたしたち、大事に守りたいものなんて、ないのよ」

っていったそうなんです、ゼルダが。確かこの時期にはもう、フィッツジェラルド夫妻には娘がいたと思ったんですが、これ幼い娘のいる母親のいうことじゃないですよね。でも、誤解をおそれずにいえば、そんなゼルダだったからこそ彼女はスコットのミューズであり得たのだろう、と思います。

他にも彼らの悪行は事欠かず、パーティーでシャーベットに入っていたイチジクをつかんで伯爵夫人に投げつけたとか、金がちりばめられたワイングラスを壁に投げつけて3個割ったとか、本当に子持ちの夫婦とは思えない低レベルさです。もう冗談抜きで変な人たちだったんだな、というのがわかったわけなんですが、それでもこのマーフィ夫妻というのはフィッツジェラルド夫妻をときに疎ましく思いながらも見捨てず、「ぼくらがスコットを大好きだったのは、かれからはたしかに才能が噴き出していたからで、それはけっして尽きることがなかったんだ」とまで語っています。

「優雅な生活が最高の復讐である」にブログのサブタイトルを変えようかと思った話。

マーフィ夫妻には子供が3人いたのですが、うち2人を病気で亡くしています。ニューヨークの株価が大暴落したのと同じ1929年に、彼らの息子の1人であるパトリックが結核にかかり、スイスのサナトリウムでの療養生活が始まります。しかしマーフィ夫妻は陽気さを失うことなく、使われていなかった小さなバーを買い取ってバンドを呼びダンス音楽を演奏させたり、山の上の小屋を借りて趣味よく飾り付けたりと、「優雅な生活」を続けます。

そのことに対してフィッツジェラルドが質問を投げかけると、ジェラルド・マーフィはこういったらしいんですね。

『人生のじぶんでこしらえた部分、非現実的なところだけが好きなんだ。ぼくらにはいろんなことが起きるーー病気とか誕生とか、ゼルダのプランジャン入院とかパトリックのサナトリウムとか義父ウィボーグの死とか。それらが現実だ、どうにも手の出しようがない』。すると、スコットが、そういうものは無視するってことかい、と聞いてきた。だからこう答えた。『無視はしないが、過大視したくない。大事なのは、なにをするかではなくて、なににこころを傾けるかだとおもっているから、人生のじぶんでつくりあげた部分しか、ぼくには意味がないんだよ
p192、強調は(チェコ好き)

★★★

「優雅な生活が最高の復讐である」というのは、もとはスペインの諺で、「だれかを復讐したいと思うくらい憎く感じるなら、そんな嫌いなヤツのことは忘れて、自分が幸せになる努力をしよう」というどこかの自己啓発本に書いてありそうな言葉らしいのですが、マーフィ夫妻と数々の芸術家たちの生涯を綴ったこの本のタイトルからは、もっと深い意味が、私には感じ取れるのです。

生きていると、望む望まないに関わらず、いろんなことが起こりますよね。病気とか、人の生死とか、お金の問題とか、男女関係とか、仕事とか。それらは紛れもない「現実」で、目をそらしてはいけないし、けっして無視できないものではあるんですが、私は上のジェラルド・マーフィの言葉にめちゃくちゃ共感してしまったんです。「人生のじぶんでつくりあげた部分しか、ぼくには意味がないんだよ」。

これはけっこうスレスレの言葉で、「非現実の世界に逃げるってこと? 現実からは目をそらすってこと?」って思われてしまいそうなんですが、「現実から目をそらす」んじゃなくて、「現実に復讐する」んです。本書の「優雅な生活」というのには、マーフィ夫妻がたくさんの芸術家たちと親交があったこと、またジェラルド・マーフィ自身が画家であったことから、「芸術を愛する」という意味も多分に含まれていると思うのですが、「優雅な生活」というのは現実からの隠れ蓑にしかならないような、そんなヤワなもんじゃない。

で、芸術関係のことをたくさん扱っているこのブログに、『優雅な生活が最高の復讐である』っていうのがサブタイトルにくるとぴったりハマっていいなー、と思ったのでした。美術とか、文学とか、映画とか、そんなものは現実的な問題を何1つ解決しないのだけど、ただ1つ、過酷な人生に対して「復讐」はできる。私のブログの理念として、「他の人でも書けることを自分が書く必要はない」っていうのがあるんですけど、現実的な問題を解決しようとしてくれるブログは他にもあるから、このブログはそれらの現実的な問題に対して「復讐」できるブログにしようと、そんなふうに決意を新たにしたのです。

なので長年愛用してきた「旅 読書 アート いいものいっぱい 毎日楽しい」というサブタイトルを危うく変更しようかというところまで行ったのですが、ブログのトップページに「復讐」っていう言葉を持ってくるのは強すぎるのでやめようということになり、結局その思い付きはなかったことになりました。でも、それくらいこの本のタイトルと、そこに存在している精神は私にぴったりハマった、ということを書いておきたかったというわけです。というか、『優雅な生活が最高の復讐である』をマイルドにしたのが「旅 読書 アート いいものいっぱい 毎日楽しい」なんです。


全然関係ない話から始めてオチが自分語りのブログ論だった、っていう文章、私よく書いてる気がしますが、もうすっかり秋ですね。