チェコ好きの日記

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神様は遠くにありて想うもの

初めて訪れたヨーロッパの都市は、チェコプラハだった。パリを経由して飛行機が空港に着いたとき、時計は23時をまわっていた。空港の無愛想なおばさんからタクシーの乗り場を聞き出して、私は車の窓から、初めてヨーロッパの街並みをその目で見ることになったのだった。

語学のテキストでしか見たことのなかった文字が、現実の看板や標識としてその場所にあることが不思議だった。石造りの重厚な橋は、東京にもありそうななんてことのないネオンを、見たこともない光のように輝かせた。プラハは決してニューヨークのような大都会ではなく、野心とか、成功とか、そういうギラギラした欲望とは無縁の街だ。うっすらと街灯がともる歴史ある古都は、ただそこに佇んでいるだけである。だけど、今にも消えてしまいそうなその光を、私はたまらなく美しいと思ったのだった。

あれから何年か経ち、私はその間に、たくさんの海外の都市を訪れることになった。もう私は、タクシーの窓からプラハの街並みを眺めても、それほど大きく心を動かされることはないだろう。人間は、どんな環境であっても慣れるものだ。だけど今でも、旅が始まるその国の空港から、タクシーや電車などを使って街の中心部へ向かうあの瞬間は、どうしようもなく胸が躍る。自分の知らない言語を話す人々、自分には読めない広告や看板、それらは何一つ私を歓迎しない。歓迎しないどころか、自分は、ただの旅行だとはいえたった一人でここでやっていけるのだろうかと、いつも不安を掻きたてられる。しかし、不安はスリルという、心地よいスパイスでもあることを、すでに私は知ってしまった。旅行好きは、マゾヒストであり麻薬中毒患者なのだ。


ローマを訪れたのは、プラハを旅した、その翌年だった。

唯一、歴史ある古都であるという点を除けば、ローマはプラハとは何もかもがちがう街である。幻想的で繊細なプラハと比べ、ローマは猥雑で粗野な街だ。何千年も前の遺跡が、今もここで息をして、私たちと一緒に弱肉強食の世界を生きている。信じられないレベルの絵画や彫刻がざくざくある。だけどそれらは、美術館のせせこましい空間で息を殺しているのではなく、今、この瞬間を、神様に祝福されながら心臓を動かしている。一緒に旅をしていた友人は、ボルゲーゼ美術館でベルニーニの彫刻『アポロとダフネ』を見た瞬間、涙をボロボロ流しながら泣いていた。「生きているみたい」、と彼女はいった。

照りつける太陽に向かって、真っ直ぐにのびる一本松。ひっきりなしになるクラクション。夜が更けても、ローマではあちこちの飲食店から笑い声が漏れてくる。それらは旅行者を、一向に休ませてはくれない。だけど、そんなローマのなかにも、静寂の空間を見つけることはできる。私にとってのその場所は、テヴェレ川の向こう側にあるローマ最古の教会、サンタ・マリア・イン・トラステヴェレだ。

トラステヴェレ地区で夕食をとるついでに、何の準備もせずに立ち寄ったその教会は、その日静かに讃美歌が流れていた。教会内部の中央では、黄金のモザイク壁画が光に照らされて、この世のものとは思えない輝きを放っていた。その光景はあまりにも非現実的だったので、自分は、夢を見ているんじゃないかとさえ思った。

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ローマを訪れたあの日から、もう何年もの月日が流れているけれど、私は今でも、ふとしたときにあの都市の熱と、教会の静寂を思い出す。ローマには、神様がいた。それがいわゆるキリスト教の神様なのか、別の神様なのかはわからない。だけど、神様でもいてくれないと、あの街の光の美しさが説明できない。アポロから逃げるダフネが、神の力によって月桂樹に姿を変える、あの凄まじい一瞬をベルニーニはなぜとらえられたのか? 人間の力以外に、奇跡でも働いたのだといってくれないと、説明できないのだ。

あの都市で生を授かった人たちは、あの都市で日々暮らしている人たちは、どんなに幸福だろうと何度も考えた。溢れる太陽の光を惜しみなく浴びることができる、生きることを祝福された街。病気になんてなりようがない。悪夢の入る隙がない。ローマは、都市のすべてが芸術なのだ。

トラステヴェレの教会に、歩いて通える場所に住むことができたらどんなに素晴らしいだろうと考えた。いつも手の届く場所に、あの黄金のモザイク壁画がある。それだけで、どんなに心が休まるだろうと考えた。

しかしそんなとき、私は、タクシーの窓からヨーロッパの街並みを眺めても、かつてのような感動が胸のうちに呼び起こらないことを思い出す。人間は、どんな環境であっても慣れるものだ。もしローマに住むことになったなら、眩しかったあの光は、次第に輝きを失っていくだろう。人々の笑い声と熱気は喧騒へと姿を変え、神に祝福された芸術の都だったその場所は、どこにでもある粗暴な街へ変容していく。私の足はサンタ・マリア・イン・トラステヴェレから遠のいて、教会内部の、あの刺すような静寂をかんじとることもなくなるだろう。

もしこの世に神様という存在があるのだとしたら、それは蜃気楼のようなものかもしれない。近付いたと思ったら離れていく。手に入れたと思ったら失ってしまう。目を細めて遠くに眺めているときにだけ、その幻影が見えるのだ。

ローマは美しい都市だ。だけど、だれもその美しさの本質には近付けない。エロスは金の矢をアポロに放ち、アポロはダフネに恋をした。でも、アポロの思いは届かない。ダフネに手を触れようとしたその瞬間、彼女は神の力によって月桂樹に姿を変える。ベルニーニが描いた彫刻の神話は、まるでこのローマの物語のようである。

トラステヴェレの教会のモザイク壁画は、今日も黄金に輝いているはずだ。ただし、日本にいる私にその光は見えない。心に思い描くことしかできない。だけど、それでいいのかもしれない。だってそれは、この世界に確かに「ある」のだから。


「君たちは、またいつか、必ずローマを訪れることになるよ」と旅に同行していた教授はいった。私はその予言された「いつか」を、今日も指折り数えている。この世界には、神様に愛された土地があるのだ。私たちは幸運にも、それに近付くことができる。ただし、近付きすぎたり、一体化したり、手の内に収めたりすることはできない。光は、実際に目にしたときではなく、心に思い浮かべたときに、その輝きを放つのだろう。

ローマは、日本から飛行機で行ける、天国にもっとも近い場所である。だけど、次にその場所を訪れる前に、私はもう少し、別の場所を旅するつもりだ。

焦ることはない。それは確かにこの世界に、「ある」のだから。神様は遠くにいる。手に触れることはできない。思い描くことなら、できる。