チェコ好きの日記

だいたい木曜日の22時に更新されるブログ

わたしは痴呆老人になってもべつに平気

なんとなくだけど、おそらく多くの人が痴呆──いわゆる「ボケる」ことを嫌がっていて、だからこそ一時期「脳トレ」とかが流行ったのだろう。なぜ「ボケる」ことに恐れおののいているのかというと、家族や他人に迷惑がかかるのが嫌なんだろう。


だけど最近の私は、自分に痴呆の症状が出ることをあまり嫌だと感じない。もちろん積極的に出てほしいとは思わないが、まあなったらなったでしょうがないので、あとはヨロシク、という感じである。ただ、介護士さんとか世話してくれる人に、暴力を振るったりしないおばあちゃんだといいと願うばかりだ。

認知症」が増えているのはなぜ

「痴呆老人」は何を見ているか (新潮新書)

「痴呆老人」は何を見ているか (新潮新書)

上の本によると、認知症の患者数は、アメリカにおいてこの四半世紀のうちに10倍に増えているという。しかし、これをもって「現代人の脳がおかしい!?」と考えるのは早計だ。正確にいうと、痴呆症状が出る老人は太古の昔も今と同じように、普通にいた。ただ、その老人たちに「認知症」という病名をあたえていなかっただけだ。認知症になる老人が増えているのではなく、認知症という病名によって認識される老人が増えている、が正しい言い方である。


問題は、なぜ「認知症」という病名があたえられるようになったのか、だ。


沖縄県のとある村では、かなりの数の老人にはっきりとした痴呆の症状が見られていたのに、村の人たちは彼らを「認知症」だと思って接していなかったという。「認知症」は、痴呆症状が出ている老人の世界と、痴呆症状のない若い人との世界のつながりが断たれてしまい、その間で双方に苦痛が生じている状態を指す。つまり、老人に痴呆の症状が出ていても、彼らの世界とつながり、双方に苦痛が生じていなければ、それは目が悪いとか耳が遠いとかいった症状と同じ単なる機能低下であり、「認知症」ではない。

情報ではなく情動でコミュニケーションする

toyokeizai.net


以前書いた「思い出を愛しているの? - チェコ好きの日記」でも引用した記事だけど、上の記事に出てくる老年の母親は、毎日16時になると徘徊に出てしまう。息子はそのことにとても困っており、徘徊をやめさせようとするが、母親は激しく抵抗して暴力を振るう。この状態だと母親も息子も苦しいので、「認知症」という病名で母親の状態を言い表す。


しかし、16時に母親が徘徊に出る理由は実は、幼い息子が幼稚園のバスに乗って帰ってくるのを迎えに行っていたのである。ベテランの介護士がそれに気が付いてからは、「今日は、息子さんは幼稚園のお泊まり会で、帰ってきませんよ。バスも今日は来ませんよ」と伝えるだけで、母親は徘徊をやめた。痴呆症状が出ている老人の世界と、こちら側の世界は、こういった言葉のやりとりによって、「つながる」。双方に苦痛がなければ、痴呆症状は病気ではなく単なる機能低下である。


認知症のケアにあたる人たちの間では、「偽会話」というコミュニケーション形態が知られている。

「主人なんてやっかいなものです。でもいないと困るし……」
「そうそう、うちの息子が公認会計士になりましたんで忙しくてね」
「あら、いいじゃないとっても。浴衣を着ればステキに見えるよ」
「◯◯さん辛かったろうに。いつも△△さんって言ってましたよ」


たとえば、上の会話は支離滅裂である。互いが互いの言葉に応えていないし、何一つ身のある情報がやりとりされていない。でも、この会話のやりとりをしている痴呆老人同士は、「一緒に会話をして楽しい」という気分を共有している。それによってつながり、互いの不安を軽減している。だから、これは一見めちゃくちゃでも、きちんとした「コミュニケーション」なのだ*1

痴呆によって時間や空間が正しく認識できなくなると、老人は不安になる。だけど、その不安を取り除き、状況を理解し、痴呆老人の世界とまたつながることができれば、痴呆症状は出ていても「認知症」にはならない──というのがこの本に書かれているおおよその内容だ。

世界の構築と解体

ところで前回、私は「認知症になった老人が再現する過去とは〈いつ〉なのだろう?」と疑問を抱いていたんだけど、これは当初私が想定していた答えとあまりズレていなかった。認知症の老人が再現する過去とは、「自分がいちばん、世界とのつながりを感じていられた時代」らしい。まあ、すごく平べったくいうとやっぱり「いちばん幸せだった時代」ってことだろう。


いちばん幸せなのは〈今〉でしょ! って私はいつも思っているんだけど、痴呆症状が出て再現した過去が〈今〉じゃなくて〈あのとき〉だったらどうしようって思うし、こりゃ本当にヒヤヒヤものだ。そういうのも含めて老後が楽しみ……なんていったら不謹慎だろうか。ちょっとしたブラックジョークなんだけど。


終末期の痴呆老人をケアしていると、彼らが「この世」と「あの世」が浸透しあった「あわい」の世界にいる印象を受けることがあるという。


人間は生まれると、名前があたえられて、いろいろな言葉やこの世界のルールを覚えて、世界を構築していく。反対に、終末が近づくと、言葉を忘れ、ルールを忘れ、周囲の人との関係を忘れ、自分のことも忘れていく。詩的な表現だけど、著者はこの過程を「土に還っていく」自然なプロセスと書いていて、ああそうかもしれないと思った。


日本だといまいちピンと来ないが、アマゾンの原住民の間では、産み落とされたばかりの赤ん坊は人間ではなく「精霊」だ。母親が抱き上げて、初めて彼/彼女は人間になる。逆の発想で、構築した世界が少しずつ紐解かれて解体に向かっていく──「あわい」の存在になっていくと考えれば、私は痴呆症状をそれほど怖いと思わなくなった。(周囲の人に暴力を振るったりすると嫌だけど)自分の世界がほどけていくことは別に構わない。


まあ、だから、脳トレをやっている人はDSをつんつんするその手を止めて、一度この本を読んでみるといいんじゃないか。DSの脳トレゲームしている人、このブログ読んでないと思うけどさ。

*1:痴呆老人に限らず、こういう「偽会話」みたいなコミュニケーションは女性が本当に得意だなと思う。「中身のないコミュニケーション」をバカにしてはいけない。ちなみに私はこういう会話は苦手で、それがむしろコンプレックスである。