チェコ好きの日記

もしかしたら木曜日の22時に更新されるかもしれないブログ

「毒」の含有量

かつてマザー・テレサは、「世界平和のために、私たちは何をするべきでしょうか?」と問われたのに対して、「家に帰って、家族を大切にしてあげなさい」と答えたという。実は私、この考え方にはけっこう前からあまり賛同できなかった。


これは屁理屈じゃないよ、じゃあさじゃあさ、たとえばだけど、たとえばだけど〜〜! 「家にナイフを持った強盗が入ってきたので、自分と家族の命を守るため、強盗を銃で撃ち殺しました」は「家族を大切にする」に含まれますか〜!?


みんな、それぞれの正義がある。でも、それぞれの正義を思い思いに貫き通すと矛盾が生じるから、今の世界は平和じゃないんだ。家に強盗*1が入ってきて自分と家族の命が危ういとき、どういう行動をとることが「家族を大切にする」ことになるのかなんて決められないだろう。家族を大切にするのもだいじだけれど、カート・ヴォネガット風に言うならば、「だけどもう、それだけじゃ足りないんだ」。これが私の長年の考えである。


みんな家族を大切にしていないわけじゃない。むしろ、みんなそれぞれのやり方で家族を大切にしている。その結果が、「今」なんだ。保守派カトリックだったマザー・テレサは中絶手術に反対していたそうだけど、中絶手術に否定的な立場をとることが「家族(隣人)を大切に」なのか、肯定的な立場をとることが「家族(隣人)を大切に」なのか、誰にも決められないでしょ。だから世界はこうやって対立しているのでは〜〜?

「毒」の含有量

マザー・テレサはだたの話の枕なんだけど、つい鼻息が荒くなってしまった。本題はここからである。


最近の私が考えていたのは、〈心に混ぜておける「毒」の含有量は人によってちがう〉という、とてもとてもシンプルなこと。この場合の「毒」とは、皮肉だったり、ちょっと意地悪な気持ちだったり、あるいは誰かに対して怒りの感情を抱いたりすることをいう。


たとえば私自身は、心に混ぜておける毒の含有量がけっこう多くても大丈夫なようにできている。何しろ、卒業論文修士論文のテーマが「チェコ映画におけるブラックユーモアの表現」だったのだ。私にとって、一定量の毒はむしろ薬である。悪意や怒りが活動のモチベーションになることがある。心に混ぜておける毒の含有量が少ない人は、たぶん私のことを「なんて邪悪な人間なんだ!」と思うんだろうけど……別にダークサイドに落ちてしまったわけではなくて、なんか、もともとこうなんだ。


「あなたは今、幸せですか?」と問われたとき、私はいつも言葉に窮した結果、「定義によりますが」とか言いながらはぐらかしている。でも最近考えたのだけど、おそらく「幸せ」のもっともわかりやすい定義は、「明日が来るのがそれほど嫌じゃない」ってことだ。「明日が来るのが超楽しみ!」まで行ったら毎日めちゃめちゃ楽しくて完璧かもしれないが、この手のヤツはあまりハードルを上げすぎないほうがいい。何かを手に入れられたらとか、何かになれたらとか、何かができるようになったらとかじゃなくて、「明日が来るのがそれほど嫌じゃない」ならば、私もあなたもひとつ幸せってことでいいだろう。(もちろん、これだって考えようによっては十分高いハードルで、「明日が来るのがそれほど嫌じゃない」って思うのが難しい状態にある人もいるってことはわかっている。)


ただ、この自分で決めた定義をガン無視すると、未だシリアでは「今世紀最大の人道危機」といわれる内戦が続いているわけで、自分が直接その被害を目にすることはなくても、シリアの人たちと同じ世界に生きていながら「幸せ」になんてなれるかコンチクショウ、という思いも私にはあるんだよな。まあだから、改まった機会でないと聞かれることもないが、「あなたは今、幸せですか?」なんていわれても困る。シリアのことも考えていいのなら私は幸せじゃない。


前述したように、私は長年、マザー・テレサの発言に賛同できなかった。「家族を大切に」する程度で平和になるんなら、もうとっくになっとるわい! と思っていた。でもなんか、「家族を大切に」をスローガンに日々を過ごすほうが「ハマる」人もいるんだろうなと、今は、想像だけど思う。心に混ぜておける毒の含有量が少ない人がいて、そういう人は、遠くの(自分と関係のない)世界の不幸まで抱え込んでいると、マジで病んでしまうらしいと最近ようやく知った。私は、遠くの世界の不幸を抱え込んでいても、怒ったり考えたりするだけで、あんまり「病む」ことはないんだけど……。それは心に混ぜておける毒の含有量がもともと多いせいだろう。マザー・テレサの発言を目にすると突っ込みたくてイライラしちゃうんだよな。それでそのイライラこそがエネルギーだったりもする。


どっちが良くてどっちが悪いという話ではもちろんない。こういうのは体質だ。私は肝臓がダメでお酒がほぼまったく飲めない。アルコールを分解する酵素をそんなに持っていないのだ。それと同じ話である。

まとめ

今週はそんなことを考えていたのだけど、特に結論はなし。ていうか、マザー・テレサはあくまで話の枕のつもりだったのだけど、結局こっちが本題だな! 

どう思う? ねえどう思う? 私、こういう話どうしても突っ込みたくなっちゃうんだよね。


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(※これはマルタ島で食べたごはん。)

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(※これは最近観たマシュー・ハイネマン監督のドキュメンタリー。シリアの市民ジャーナリズム団体RBSSがイスラム国に対しスマホSNSを武器に闘っている。今のところ私の中で2018年ベスト映画である。)

*1:ちなみにここでは、「もし仮に本当に世界中の人が家族を大切にしたならば、強盗は生まれないのでは? という反論への反論が出てくると思うのだけど、私の考えでは、「大切にする」の定義が人それぞれちがい、人と人との関係においてそうした行き違いをなくすことはほぼ不可能だと思っているので、これを反論への反論への反論とする。

彼らは、「選べなかった」のではなく「選ばなかった」

前にこのブログで『サピエンス全史』の感想を書いたんだけれど、この本で私にとっていちばん衝撃的だったのは、「狩猟採集生活と農耕生活を比べたとき、必ずしも後者のほうが快適だったわけではない」っていうのがわかったこと。なんなら、そのままの狩猟採集生活を続けていたほうが人類は幸福だったのでは? なんて考えも浮かんでしまう。


とはいえ、農耕民族が生まれてからも、地球上のすべての人類が農耕を軸とする生活に移行したわけではない。そのままの狩猟採集生活を続けている民族は、なんなら今だって普通にいる(ヤノマミとか)。ただ、私たちはどうしても、彼らのことを「農耕を軸とした文明社会を〈選べなかった〉人たちである」と考えがちだ。山間部にいたとか、大陸の発見自体が遅かったとか、様々な地理的な事情により、文明が彼らのもとに届かなかったのだと。


しかしこの人たちは、文明社会を〈選べなかった〉のではなく〈選ばなかった〉のだとする説が、最近にわかに力を持って浮上しているらしい。


辺境の怪書、歴史の驚書、ハードボイルド読書合戦

辺境の怪書、歴史の驚書、ハードボイルド読書合戦


というわけで今日は、ノンフィクション作家の高野秀行さんと歴史家の清水克行さんの対談本、『ハードボイルド読書合戦』で印象に残った部分のメモ。

『ゾミア 脱国家の世界史』

ゾミア―― 脱国家の世界史

ゾミア―― 脱国家の世界史


まず、『ハードボイルド読書合戦』は特定の本を題材に高野さんと清水さんが話し合う〈書評本〉なので、このエントリは〈書評本の書評〉というマトリョーシカみたいな構造になってしまうんだけど……まあいいや、とりあえず『ハードボイルド読書合戦』で最初に取り上げられるのは、『ゾミア 脱国家の世界史』である。この本で話題になるのは、中国西南部から東南アジア大陸部を経たインド北東部に広がる丘陵地帯だ。



(※このへんの地域の話)

このあたりの山間部に住む人々は今もなお原始的な生活を維持しているらしいんだけど、私たちはつい、前述したように「山間部だから、文明が届かなかったのかな?」と考えがちだ。しかし『ゾミア』は、様々な証拠をもとに、「彼らのもとに文明が届かなかったのではなく、むしろ彼らは文明を知っていて、あえてそれを放棄し山間部に〈逃げた〉のだ」という論を展開しているらしい。


『ゾミア』について高野さんと清水さんが語る際にあげる〈文明〉の主な要素は3つで、農耕、文字、そしてリーダー。


農耕生活のデメリットは『サピエンス全史』にも書かれているのだけど、『ゾミア』で新たに取り上げられるのは、その国家的な性格だ。水稲耕作は、収穫高が計算しやすく、何かと「管理」がしやすい。中国西南部やインド北東部の山間に住む人々は、この性格を理解した上で、水稲耕作を〈選べなかった〉のではなく、知っていて、〈選ばなかった〉。国家的なものに管理されたくないから。


さらに、彼らは「文字」や「リーダー」が存在しない社会に長らく生きていたらしいのだけど、これも文字を持てなかったのではなく、持たなかった。文字が書かれた餅を食べてしまったので文字を失ったとか、水牛の皮に書かれていた文字を食べてしまったので失ったとか、そういう伝承がいくつか残っているらしいのだけど、『ゾミア』の著者はこれを、文字を意図的に放棄した証拠ではないかと見ているらしい。


文字を持ってしまうと、顔を合わせたことがない相手との意思疎通も可能になる。でも、互いに顔を合わせられる範囲で、大事なことは顔を突き合わせて話せる関係を維持できる社会であれば、確かに文字は必要ない。


『ハードボイルド読書合戦』で取り上げられるもう1冊『ピダハン』も、歴史を持たない民族についての本だ。ピダハンは「直接体験したことしか話してはいけない」という究極の社会らしい。ソースが自分か、もしくは直接の知人でないといけない。こんな社会ならばデマもフェイクニュースも出回りようがない。


ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観

ピダハン―― 「言語本能」を超える文化と世界観


そして最後のほうで触れられるのが、リーダー。『ゾミア』で語られる社会は、リーダーを意図的に作らなかった。リーダーとは別の社会、チームと接触する際の「窓口」である。窓口をあえて作らない(誰と接触すればいいのか外部の人間にはわからない)状態であれば、他の社会に取り込まれることもない。

世界は無政府状態に近づいているのでは

今回はちょっとしたメモというか走り書きになってしまったんだけど、ここ数年の間で、「大きな政府」から逃れよう逃れようとしている話をよく耳にする気がしている。「農耕社会のデメリットを書いた本によくぶちあたる」のはその1つだ。農耕社会というのは管理社会だから、大きな政府からの管理を逃れて遊牧民的に生きようというメッセージを暗に感じる。


さらにそれをヒシヒシと感じるのは「お金」に関する分野で、今後100年くらいの間に、人類にとっての経済のあり方がガラッと変わったりしそうだ。なんとなく、世界は無政府状態に近づいているのでは、という気がしている。


それは今のところ私にとって耳に心地いい話のほうが多いが、実際はどうなんだろうな。

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(※これはヴァチカン美術館の出口)

SNSが過剰に発達したディストピアを描いた『ザ・サークル』はあんまり面白くなかったけど面白くなさ故に考えたことがある

「コイツ、趣味悪いな!」と思われたら悲しいのだが、ディストピアもの」が好きである。「ディストピアもの」なんてジャンルは正式にはないので私が勝手にそう呼んでいるだけだけど、未来/近未来/平行世界などに存在する魔境を舞台に描かれた物語には、昔からどうしても惹かれるものがあった。それらはSFの形態をとっていることが少なくないが、私はSF好きというよりはディストピアが好きなのだった(ことに最近気が付いた)。


ディストピアものが好きな理由は、何も現代社会に恨みを抱いているからってわけじゃない。いや嘘、ちょっと抱いてるな。まあ恨みは恨みとしてあるのだが、どちらかというと思考実験の機会を提供してくれるところが好きな気がする。ディストピアものは現代社会のある要素をあえて露悪的・風刺的に描いていたりするわけだけど、そこまでやってくれるからこそ自分が何のどこを恨んでいるのか考えやすく、言語化しやすくしてみせてくれる。そんな感じで私はディストピアものが好きなのです。


GW中にAmazonプライムビデオで観たのがエマ・ワトソンが出てる『ザ・サークル』。以下は物語の核心部分を含むネタバレをやっているので、ネタバレが嫌な方は映画を観たあとにまた読みにきてください。



映画「ザ・サークル」日本版予告

思っていたのとなんか違った

ザ・サークル』はエマ・ワトソンがアメリカの巨大インターネットに企業に入社して、「シーチェンジ」という超小型カメラの被験者となって自分の24時間をフォロワーにシェアするSNSを使うようになる……という話。TwitterInstagramを風刺的に描いた物語やアートはもともと好きなのだけど、なんでそういうのが好きかっていうと、人間の肥大化していく承認要求について考えさせられるから。『ザ・サークル』も承認要求の話をやってくれるのかと思ったら、これはどちらかというと「民主主義とは何か?」みたいな話だった。


SNSで何を発信し何を発信しないべきかは個々人の考えがあるだろうけど、一つ重要なのは「任意性」だ。自分の24時間をシェアするなんて絶対に病むからやめたほうがいいと思うけど、本人が「やりたい! そんでフォロワーにちやほやされたい!」というんであれば、周りの人間があーだこーだいう権利はない。本人が「任意に」SNSを使う上で出さなくていいところまで出すようになったり、いわなくていいことまでいうようになったりしたらそれは承認要求の話になるけど、エマ・ワトソンが映画で使うSNSはこの「任意性」がないものだった。つまり、強制的に24時間をシェアしなければならないものだった。これは「え、それはダメに決まってるじゃん」としか私は思えず、あまり考えるのが楽しくない話になってしまった……。

社会は必ず一定のリスクと矛盾を孕んでいる

エマ・ワトソンが入った会社が運営しているSNSは「すべてをシェアする」ことを目的としている。いつどこで何をしていたか、誰と誰が友人なのか、趣味は、過去にハマっていたことは、両親の病気は、などなどすべて。それらは本人の任意性に基づくものではなく、加入者は強制的にすべてをシェアしなければならないみたいな作りになっている。そして、最終的にこのSNSへの加入をアメリカ国民すべてに義務付けて選挙のときに利用しようという話まで出てくるのだけど、すべての人が登録され行動が逐一記録されているので、指名手配犯とかを一発で捕まえることもできるのだ。


途中、エマ・ワトソンが「秘密とは嘘です」「秘密があると犯罪が起きる可能性があります」というセリフをいう場面があるのだけど、確かにこのSNSを使えば、殺人もレイプも強盗もなくすことができる。すべての人の24時間を誰かしらが監視しているので、犯罪の防止になる。ただ「すべての人が強制的に24時間をシェアしなければならない」なんてのは人権侵害になることが明らかだ(「これ、ありうるかも?」と思わせてくれるからディストピアものは面白いのであって、「それは絶対にない」と思ってしまうとつまらなくなっちゃうんだよな!)


人道上の理由で「すべての人が強制的に24時間をシェアしなければならない」SNSなんて絶対に作れないので、そうである以上、殺人もレイプも強盗も根絶したいのはやまやまだが、社会は常に一定のリスクや矛盾を孕まざるを得ないのだろうな……なんてことを考えた。リスクのない社会は、たぶん作れない。

まとめ

というわけで、『ザ・サークル』は期待していた承認要求の話とはちょっと違ったので私はそこまで面白いと思わなかった。ただいろいろ考えさせられることはあって、たとえば日本はまだお会計のときに現金で支払うことが多い(私も情弱なのでまだ基本的に現金派である)。けどそれがLINEPayとか電子マネーで支払うのが一般的になったら、自分の買い物がAmazonみたいにすべて履歴に残ることになるので、それって『ザ・サークル』の世界につながっている。すでに諸外国では現金で支払う機会が少なくなっているみたいなので、日本がそうなるのも時間の問題ではありそう。買い物以外にも、近い将来いろいろ履歴が残るようにはなりそう。


「任意性じゃないからこのSNSはありえない。つまらん!」と思ってしまったのだけど、よく考えたら案外ありえない世界の話ではないのかな?


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(※ローマ近郊にあるムッソリーニが構想した近代都市E.U.R。シュールで不気味な「お散歩できるディストピア。おすすめの観光スポットです。イタリアもまだ現金払いのことのほうが多かったな)

「人」はいない。「状態」があるだけで、それは環境によって変わる。

あくまで私の場合だけど、旅行なんて遊びに行ってるだけなので、そこから得た学びなんてそう多くはない。だけど世界の様々な地を歩き回った中で、確信を持ったことが一つだけある。


それは、「人間は環境の奴隷だ」ということだ。

「人」はいない、「状態」があるだけ。

この考えがちゃんと伝わるかどうかあまり自信がないんだけど、たとえば、あなたが日頃仲良くしている「とっても感じのいい人」を誰か一人思い浮かべてみてほしい。彼/彼女はいつも上機嫌で楽しそう、他人を悪く言ったり無闇に嫉妬したりせず、何かと気が利いて、自分の仕事や夢にいっしょうけんめい。「何だか感じの悪い人」がもしいるとしたら、これをそっくり反対にすればいい。そういう人は、いる。


ただし最近の私が思うのは、「感じのいい人と、感じの悪い人がいる」という言い方は実は適切ではなくて、「感じのいい"状態"を保てている人と、保てていない人がいる」という言い方のほうが、より正しいんじゃないかってこと。なんていうのかな、「感じのいい」はあくまでその人に状態として一時的に宿っているだけで、その人自体が感じいいわけじゃない、みたいなこと。



鹿児島で会社をやっている友人のシモツくんがある日こんなツイートをしていたけど、「物欲」も同じだと思う。物欲のある人とない人がいるのではなくて、物欲がある状態の人と、物欲がない状態の人がいる。私自身の場合でいえば、私は「物欲がない状態が数年間ずっと続いている」。思い返せば、私も大学生くらいのときは今よりももう少し物欲があった。「私は物欲がないです」という言い方は、したがって適切ではない(知人としゃべってるときはこんな言い方をするとめんどくせえので「物欲ないです」で良いと思うが)。


で、じゃあその「状態」を作り出すのは何かというと、これは「環境」としか思えない。シモツくんに物欲が生まれたのは彼が鹿児島に引っ越したからで、彼が渋谷にとどまっていたら、きっとこうは言ってなかったはず。同様に、「感じのいい人」は感じの良さが求められる環境にいるからたまたまそう振る舞っているだけだし、「感じの悪い人」はある種、感じの悪さが有効に働く場にいるのだろう。人間自体には良いも悪いも美しいも汚いもない。みんなだいたい一緒だ。


ちなみになぜ旅行でこのことを悟った(?)のかというと、一昨年訪れた中東の砂漠気候が、私の中で衝撃だったのがある。日本やアジアやヨーロッパにいると「一神教? なんで?」と思ってしまうんだけど、中東の砂漠気候の中に身を置くと、一神教の思想というのは「さもありなん」って気がしてくる。神様は世界にたった一人、アッラーのみだ。当たり前だろそんなん、って気になる*1。人間の思想は環境が作る。人間は動物だから、環境に合わせて生きやすいように自分を変える。人間はすべてカメレオンだ。


note.mu
※詳しくは前にnoteに書きました

他にも、話し出すと長くなるからほどほどにするけど、バリ島付近はウォレス線を境に気候分布が分かれていて、そのラインで宗教が変わっている。本当に面白いよね。

場所が変われば人間は変わる

なんでこんなことを書こうかと思ったのかというと……最近、「黒人」が登場する本を何冊か集中して読んだ。具体的には、トニ・モリスンの『青い眼がほしい』とマーク・トウェインの『ハックルベリ・フィンの冒険』だ。それらの本に今回のようなことが直接書かれていたわけではないので、今回の論は私の中での飛躍がだいぶあるのだけど、とにかくそれらの本を読む中で、改めて今回のようなことを考えた。


池澤夏樹さんの『世界文学を読みほどく』が大好きで、10年前くらいから毎年1回は読み返しているのだけど、この中に非常に興味深い『ハックルベリ・フィンの冒険』論がある。詳しくは割愛するけど、当時のアメリカで、黒人差別を支持していたのは誰だったか。「白人」と一言で片付けてしまうと、本質を見失う。黒人差別を支持していたのは、白人の中でも特に、「プア・ホワイト」と呼ばれる貧しい白人たちだった。

自分たちは白人であるけども、貧しい白人であって、何かと不満の多い苦労の多い生活をしている。だから、白人でないくせに裕福になっている奴が許せない。

これは妬みの基本心理です。人間にとって始末の悪いもので、みんなのこういう妬みが横に連結して一つの制度になると、差別になるわけです。「差別はいけない」とか、「人間は平等だ」とか、「民主主義」「みんなに投票権を」というのは、表の論法、表に出てくる言葉であって、その背後には必ず、気に入らない、許せねえ、足を引っ張りたい、裏で言いたい放題を言いたい、という「2ちゃんねる」的な思いを、人は持っているものなのです。そういう心理はずっと人についてまわるし、それは議論やお説教や制度ではなかなか始末がつけられない。


池澤夏樹世界文学を読みほどく: スタンダールからピンチョンまで【増補新版】 (新潮選書)』p.293


なんとなくだけど、この『ハックルベリ・フィンの冒険』論を読んで、憎むべきは「人」ではなく「環境」なのではないかと思ったのだ。気に入らねえ、許せねえ、足を引っ張りたい。仮に今、あなたがそういう醜い妬みの感情を抱かないでいられるとしたら、それはあなたが素晴らしい人間だからではない。あなたがそういう妬みの感情を持つ場所にいなくて済んでいるからってだけだ。ただの「偶然」だ。このことを前提にいろいろなことを考えないと、あんまり物事は上手く進まないんじゃないかなーと思う。


(※ただ、逆に「今の自分はそういう妬みの感情が強いぞ〜!」という自覚がある人は、「俺のせいじゃない。環境のせい」と思ってしまうと他罰的になって結局また自分の首を絞めるので、もしこのブログをお読みの方でそういう人がいたら、そこは「どうしたら妬みの感情が少ない場所に"移動"できるかな?」と考えるのが有効な気がする。確かにあなたは悪くないが、工夫して環境の"移動"をするための知恵を絞るくらいはしてもいいんじゃないか。しかし、「これは妬みだ」という自覚があるだけで物事はずいぶん良い方向に向かっているように思う。本当に妬んでいる人はおそらく「これは妬みだ」という自覚がない。私は、妬みの感情っぽいものを抱いてしまったときはなるべく自分しか見ない紙の日記に書くようにしている。)


性悪説」とか「性善説」とかって言い方があるけれど、私は「性中庸説」みたいな立場をとりたいと思っている。本来、人間に良いも悪いもないんだ。ただ、環境によって出る面が変わるだけ。ルービックキューブみたいなものだ。「だから何だよ!?」と言われると「べ、べつに……」ってかんじなんだけど、最近の私の人間観は、こんなふうになっている。


青い眼がほしい (ハヤカワepi文庫)

青い眼がほしい (ハヤカワepi文庫)

ハックルベリー・フィンの冒険(上) (光文社古典新訳文庫)

ハックルベリー・フィンの冒険(上) (光文社古典新訳文庫)

ハックルベリー・フィンの冒険(下) (光文社古典新訳文庫)

ハックルベリー・フィンの冒険(下) (光文社古典新訳文庫)

たぶん関連エントリ

aniram-czech.hatenablog.com

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※イタリアの写真がたくさんあるのでサムネイルとして使っていきたい所存

*1:って思うんだけど、この論だとイスラム教やキリスト教の信仰がなぜ全世界に広がっていったのかあまり上手く説明できない。もちろんこれには私なりの仮説があるのでさらに説明を重ねたいんだけど、今回のエントリではそれは本題ではないのでいつかの別の機会に譲る。すべて根拠はなくただの私の与太話です。

秘密のイタリア、極私的ディープコレクション11

イタリアを旅行していると、ときどき「人間とは、何と罪深い存在なのか」と目眩がする瞬間がある。


雑事に追われる凡庸な一般人である私たちは、日常において知らず知らずのうちに、己の限界を設定してしまう。よりよく、健全に、罪なき存在として生きようとしてしまう。だけど、この奇想の王国を旅行していると、人間は、もっと自由に、もっと極限まで、もっと大胆に、己の快楽を追求することだってできるのだと、思い知らされる。


それは、神に叛く行為かもしれない。だけど、たとえ罪を背負ってでも追求すべき至高の快楽が、この世にはあるのでは?──イタリアとは、そんな禁断の扉の向こうを見せてくれる国でもあるのだ。


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と、いきなり「なんだお前」なテンションで始めてしまったけれど、私は23歳のときに2週間、そして今年31歳のときに2週間、合計すると1ヶ月くらいイタリアを旅行している。もちろん定番の観光地にだって行きまくっているが、今回以下に並べるのは、その中でも少々マニアックな、「禁断の扉の向こう」が見える場所だ。


これからイタリアを旅行する予定がある人は、以下に並べる場所をどうか1箇所でも、ぜひ訪れてみて欲しいと思う。ローマのコロッセオだってカッコイイし、パスタだってピッツァだって美味しいには違いないが、イタリアの魅力をそれだけだと勘違いして欲しくない。「イタリアとはこの世で唯一、神からの寵愛を受けた土地である」と言ったのは村上春樹だ。私は、この言葉ほどイタリアという国を適切に表しているものはないと思う。美しさと快楽と官能と、欲望と怠惰と退廃。それらがギュッと凝縮されてつまっているのがイタリアだ。天国もあるし、地獄もある。輝くオレンジ色の陽射しと、おぞましいほどの深い闇がある。


御託を並べるのはこれくらいにして、まずは今回訪れた南のほうから……なお、一番下にはイタリアのディープスポットをよく知るための参考文献をまとめました!

パレルモ

【1. カプチン修道会の地下墓地】

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(※ポストカード)

まず断っておきたいのだけど、ディープスポットはディープであるが故に(?)写真撮影禁止となっている場合が少なくない。なので場の臨場感をありのままにお伝えできないのが非常に残念なのだが、なんでもネットで見ることができるこのご時世、「その場にいかないとわからない」という場所が世界にいくつかあってもいいだろう。パレルモにあるこの「カプチン修道会の地下墓地」も、出口に売っていたポストカードの画像でお茶を濁させて欲しい。


ここには、約8000体(!)ものミイラが一堂に並べられている。階段を降りて足を進めると、地上とは違うひんやりとした空気が肌を刺す。私が訪れたときはちょうど前にイタリア人の団体さんがいたのでそれほど「怖い」という感じはしなかったが、たった一人でここを歩いたらけっこう怖いかもしれない。


並べられているミイラをよくよく観察していると、わずかながら表情のようなものを読み取れることもある。この人は生前ちょっと神経質な男性だったのだろうとか、この人は生前なかなかダンディな女泣かせだったのだろうとか。もちろんそれが正しいかどうか確かめる術はないけれど──彼らがかつて、私たちと同じように生きて、悩み、泣き、迷い、喜び、笑う存在だったであろうことは伝わってくる。生きていたときの、「痕跡」のようなものがちゃんと見える。それは確かにあまりにも生々しく、ショッキングではある。私はキリスト教徒でもないし、カプチン修道会とも宗教的に関係がないので、死んでもミイラになることはない。だけど、死後自分がここに並べられるところを、想像せずにはいられなかった。


私の体からいつか魂が抜けるとき、その亡骸はどんな表情をしているだろう?

【2. ヴィラ・パラゴニア】

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パレルモから電車で15分ほど行った先に、バゲリーアという小さな街がある。静かな駅を出ると閑静な住宅街といった風情で、特に面白いものはなさそうだ。しかし、その駅から20分ほど歩いたところに、このヴィラ・パラゴニアが佇んでいる。正門には不気味な笑いを浮かべた怪物が2体、奥へ進むと塀の上一面に小人や半獣半人や畸形者の彫刻が並べられている。かつて文豪のゲーテもここを訪れ、「悪趣味」「パラゴニア式無軌道」と散々disってはその様子を『イタリア紀行(中)』に記した。


澁澤龍彦の『旅のモザイク』によると、かつてこの邸宅を建てた主人は「たいそう醜いせむし男*1」であったという。その主人が、なぜ自分と同じ不自由な体を持つ者の彫刻を、塀の上一面に敷き詰めたのかは誰もわからない。あるいは高度な皮肉だったのか、ユーモアだったのか。この邸宅が現役だった18世紀当時、周辺の住民からはたいそう気味悪がれたようで、妊娠した女性がこの邸宅を見ると怪物を産むという不吉な噂まで流れた。


庭を囲んでぐるりと並ぶ塀の上の彫刻は異様である。かつての主人がなぜこんなものを作ったのか、それは今となっては誰にもわからない。ただこの場所にいると、自分の、想像力の限界の枠が、するすると崩れ落ちていくのがわかる。人間はこんな世界を作れるのだ。私はまだ世界を何も知らない、と思う。

マテーラ

【3. サンタ・マリア・デ・イドリス教会】

【4. サンタ・ルチア・アッレ・マルヴェ教会】

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マテーラは「サッシ」という洞窟住居で有名な街。このマテーラ、写真だと伝わりにくいのだが、外側が谷のようになっており、崖の上に街が浮かんでいるような具合になっている。なんとも異様な光景で、ちょっと衝撃なので、決して行きやすい場所ではないものの(鉄道の乗り換えが面倒)南イタリアを旅行する機会があったらぜひ訪れてみてほしい。


街の様子だけでも十分「マジかよ」という感じなのだけど、せっかくなのでマテーラに来たら「サンタ・マリア・デ・イドリス教会」と「サンタ・ルチア・アッレ・マルヴェ教会」に入ってみてほしい。イドリス教会のほうは上の写真にある通り、岩に十字架をぶっさしたような異様な外観の教会である。例によって内部は写真撮影禁止だったのが残念だ。


イドリス教会もマルヴェ教会も、内部はとても質素な作りである。言っちゃ悪いが、岩を削って壁に絵を描いただけだ。イタリアには黄金のピカピカモザイクもあるし、何より訪れる人すべての目を眩ますであろうヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂もある。こんな、岩を削って絵を描いただけの教会に何の用があるんだ、と思う人もいるかもしれない。しかし、私はこれらの教会の、特にマルヴェ教会のほうで涙腺が崩壊してぽろぽろ泣いてしまった。私はスピリチュアルなものに対してはどちらかというと疑ってかかるほうだが、マルヴェ教会は聖なるパワーがすごい。きっと迫害を逃れてこの地にたどり着いたギリシャ正教の人々が、必死に祈り、守ってきた教会なのだろう。人の念というのは場所に溜めることができるのだな、と思った。

ナポリ

【5. サン・ジェンナーロのカタコンベ

【6. イル・ソットスオロ・ナポレターノ】

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ナポリと言ったら普通はピッツァであり、事実ピッツァは美味しい(あと安い)。しかしそんなナポリにはもう一つの顔があって、ナポリとは実は地下都市の街なのだ。ヴェスヴィオ火山近くのナポリの岩盤は加工しやすいので、地下が発達したらしい。地上は陽気さと喧騒にまみれ、しかしその地下には人知れず冷んやりと、もう一つの秘密の都市が網目のように広がっている。夢があるでしょ〜!


そんな夢の「アンダーグラウンドナポリ」を堪能するために訪れたい場所は二箇所で、一つはサン・ジェンナーロのカタコンベパレルモカタコンベと違って8000体のミイラがあるわけじゃないが、そのぶん広くて、ガイドと一緒だけど地下を探検しているみたいでわりと楽しい。そしてもう一つ、イル・ソットスオロ・ナポレターノはナポリ地下水道を探検できるツアーで、だいぶ観光客向けに作ってはあるが、これもまあまあ楽しい。イル・ソットスオロ・ナポレターノは、真っ暗な中かなり狭い路地をロウソク(の形をしたキャンドル、よく雑貨屋にあるアレ)片手に進むのだけど、狭すぎて途中でだんだん不安になってくる。


この地下都市は戦中防空壕としても使われていたようで、何やら生々しい念のようなものを感じるし、古代ローマの奴隷がこの水路を死にそうになりながら掘っているところを想像すると、今自分がそこを歩いていることをとても不思議に感じた。やはり、人の念は場所に溜まる……。

ローマ

【7. サンタ・マリア・インマコラータ・コンチェツィオーネ教会】

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(※ポストカード)

ここは今回紹介する中で、好きすぎて、人生で二度行った場所。二度目に訪れてもやっぱり素敵な場所だった。サンタ・マリア・インマコラータ・コンチェツィオーネ教会、通称は骸骨寺。ここも例によって撮影禁止なのだが、どういった場所かというと、内部の壁一面が人間の骨で装飾されているという「ギャーッ!」って感じのスポットである。


ただ私、この骸骨寺をホラー好きやゲテモノ好きに訪れてほしいとはあまり思っていなくて、どちらかというと、普通の、ただイタリアに遊びに来たよっていう観光客の人におすすめしたいんだよね。ローマ中心部からも徒歩で行けるし。


この骸骨寺に行くと、軽く死生観がひっくり返る。人間の骨を一面に敷き詰められたら普通は「ギャーッ!」だと思うのだけど、なぜかこの骸骨寺のガイコツは、私だけかもしれないけど、嫌な感じがしない。それが、なぜなのかはよくわからない。骸骨寺のガイコツを見ると、とても神聖な、穏やかな気持ちになる。地域の人に愛されて、大切にされてきた教会なんだなあと、ほっこりしてしまう。ガイコツを見て、ほっこりするのである。すると、「死=嫌なもの、忌避すべきもの、怖いもの」という自分の中の概念が、くるっと音を立ててひっくり返ってしまうのだ。


出口のところに「汝の姿は、われらが過去 汝の未来は、われらが姿」という言葉が刻んであるのも、なかなか心を震わせる。彼らはかつて、私たちのように息をして、心臓を動かしていた。そして私たちもいつか、彼らと同じ、骨だけの存在になるのだ。

【8. ボマルツォの怪物公園】

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ここからは前回私が23歳のときに訪れた中部イタリアになるのだけど、まずはボマルツォの怪物公園。澁澤龍彦がエッセイ『ボマルツォの怪物』でこの場所のことを書いていたので、一部の日本人の間で知られるようになった。1552年、オルシニ公というちょっと変わった趣味をお持ちになっていた貴族が、ここを造ったらしい。パレルモのヴィラ・パラゴニアもそうだが、イタリアの貴族ってのは少々イっちゃった趣味をお持ちの方が多かったみたいである。


ボマルツォは美術的にはマニエリスムの時代に区分される公園で、中に入るとちょっと笑っちゃうカワイイ怪物たちがたくさんお出迎えしてくれる。大口を開けた怪物、足を大きく広げたエロい女怪物、傾いた家、などなど。しかしこの公園、長く忘れ去られていた時代があったみたいで、1552年の完成後すぐに放棄され、1920年頃に発見されたのだとか。発見当時は怪物たちに木々が絡まり完全に森と同化してしまっていたというが、森を歩いていて突如こんな怪物が現れたらけっこう怖い気がする。

【9. ランテ荘】

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イタリアは実は有名な庭園の宝庫なのだが、日本庭園と大きく異なるのは、やっぱちょっとイっちゃってるというか、デカダンスの香りが色濃く漂っていることである。日本庭園のように心が洗われないというか、どちらかというと汚れた心でニヤニヤしてしまうのがイタリアの庭園だ。無駄にエロい彫刻とか、「これ何の意味があるんだよ?」「バカにしてんのか!?」みたいな仕掛けとかがよくある。


それもこれも、やっぱりイタリアは変態貴族が多かったのだろう。多かったというか、変態を許す土壌があったというか。ボマルツォもそうだけど、「俺の趣味大爆発庭園」みたいなのがよくある。そしてこの「俺の趣味大爆発庭園」を見ていると、私は自分の常識の枠がガラガラと崩れ落ちるのを感じ、とても自由な気分になれる。


ランテ荘もそんな「俺の趣味大爆発庭園」の一つだが、目を引くのは写真にある通りの「ぐるぐる」である。迷路みたいになっている。なぜこんな「ぐるぐる」を造ったのかまったく意味がわからない。「はあ?」という感じである。ここを訪れて視界一面に広がる「ぐるぐる」を見たとき、意味不明すぎて腰の力が抜けた。まじで、「はあ?」しか言葉が出てこない。


なお、同系統(?)の庭園として、ローマ近郊に「エステ荘」というのもあるんだけど、そっちはまだ私行けてないんだよなあ……!

シエナ

【10. ヴァーニョ・ヴィニョーニ温泉】

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古代ローマ人は『テルマエ・ロマエ』などで知られているようにお風呂が好きだったようで、ローマにもカラカラ浴場跡などの有名な観光スポットがある。しかしローマの外を出ても、けっこういろいろなところに古代ローマ人が造ったお風呂はあって、とりあえず「こいつらどこにでも風呂造ってたんだな!」というのがよくわかる。私はロンドン郊外のバースという街に行ったことがあるんだけど、このバースも古代ローマ人たちが造ったお風呂の街だ。バースは「Bath」の語源だとも言われている。


ヴァーニョ・ヴィニョーニもそんな感じで古代ローマ人が造った温泉街なのだが、温泉(と、言っても今は入れないんだけど)をぐるりと囲むように家が建っている。特筆しておきたいのは、ここがアンドレイ・タルコフスキーの映画『ノスタルジア』のロケ地であったことだ。私は『ノスタルジア』が大好きすぎるので、それだけでもうヴァーニョ・ヴィニョーニを絶賛したくなってしまう。


刺激的な要素はなく、観光客も街の人も、みんな縁に腰掛けてぼぉぉぉぉっと温泉のゆらゆら揺れる水を見つめている。それで気付くと30分くらい経っている街なのだけど、よく考えるとけっこうやばい。気付くと30分くらいがぼぉぉぉぉぉっと過ぎていく場所です。

フィランツェ

【11. ラ・スペーコラ】

解剖百科 (タッシェン・アイコンシリーズ)

最後に紹介したいのはフィレンツェにあるラ・スペーコラ。こちらも写真撮影禁止のスポットなので画像とともに紹介できないのが残念なのだけど、「ラ スペーコラ」で画像検索すると閲覧注意のグロ画像がたくさん出てくるので興味のある人はググってね。


ラ・スペーコラはどういった場所なのかというと、「イっちゃった博物趣味」の極みみたいなスポットだ。入り口をくぐると、まずは『へんないきもの (新潮文庫)』とかに載ってそうな奇怪な動物・海洋生物などの剥製や標本がずら〜〜〜〜と並んでいて、「何でこんな生き物がいるんだろ? 神様って頭おかしいのかな?」などと頭痛がしてくる。しかしここの本番は何と言っても、狂ったようにずらずらと並べてある人体標本だろう。ちなみに蝋人形製。


私がこの場所を気に入っているのは、言い方がものすごく悪いが、動物と人間をまったく同列に扱っていて、人体をただの博物趣味でしか見ていないところだ。マッドサイエンティスト的というか、サイコパス的である。人体に夢も理想も抱いていない。人間の中身がどうなってんのか知りたかったから開いてみただけだよ! とでも言いたげな、純度の高い狂気と無垢さみたいなのを感じる。あと内臓の中でも特に女性器へのこだわりがすごくて、女性器だけを並べた女性器!女性器!女性器!女性器!女性器! みたいな一角があるのだけど、ここも必見。グロすぎてセックスする気が失せるだろう。こんなに女性器のコーナーが充実しているのは当然研究者が男だったからだろうけど、エロではなく、「俺がどこから出てきたのか、産まれてきたのか、俺のルーツが知りたいんだよう! 俺とはいったい何なのだ!?」的な、フロイトっぽい感じのコーナーである。


ラ・スペーコラ、大好きな場所なのでまた行きたいな。ふざけているわけじゃなくて、私、真面目にこの場所が好きなのだ。どうしてもゲテモノっぽい書き方になってしまうんだけど、「純度の高い好奇心」みたいなものに触れることができる。純度が高いというか、高すぎるが故にマッドサイエンティストな方向に行ってるんだけど、この場所にいるとかつての研究者の好奇心に感染する。

まとめ

以上が、私がオススメしたい11のイタリアのディープ・スポットだ。エロもグロもナンセンスもあり悪趣味だけど、こういうアンダーグラウンドな観光地が充実しているところもまたイタリアの魅力。美術館とパスタとピッツァとリゾートで終わらせるのは本当にもったいない。


かつて、ルヴェルディは恋人のココ・シャネルに言った。「影は、光のもっとも美しい宝石箱である」と。


イタリアの光を見たいのならば、影を見なければならない。人生の光を見たいのならば、影を見なければならない。影こそが光のもっとも美しい宝石箱であり、光は影の中でこそ、真に美しく輝くのだから!


【完】

参考文献

TRANSIT(トランジット)17号  美しきイタリアへ時空旅行 (講談社 Mook(J))

TRANSIT(トランジット)17号 美しきイタリアへ時空旅行 (講談社 Mook(J))

珍世界紀行 ヨーロッパ編―ROADSIDE EUROPE (ちくま文庫)

珍世界紀行 ヨーロッパ編―ROADSIDE EUROPE (ちくま文庫)

イタリア紀行 中 (岩波文庫 赤 406-0)

イタリア紀行 中 (岩波文庫 赤 406-0)

イタリアの魔力―怪奇と幻想の「イタリア紀行」

イタリアの魔力―怪奇と幻想の「イタリア紀行」

滞欧日記 (河出文庫)

滞欧日記 (河出文庫)

ボマルツォの怪物―澁澤龍彦コレクション 河出文庫

ボマルツォの怪物―澁澤龍彦コレクション 河出文庫

イタリア庭園の旅―100の悦楽と不思議 (コロナ・ブックス)

イタリア庭園の旅―100の悦楽と不思議 (コロナ・ブックス)

ノスタルジア [DVD]

ノスタルジア [DVD]

*1:差別用語かもしれませんが、原文ママということで