突然ですが、2013年のほぼ日手帳には、3月18日のページに、こんなことが書いてあります。2013年のほぼ日を持っている人は、ぜひ手に取って確認してみてください。
中学校を卒業するにあたって、小学校の時お世話になった先生方から
ビデオレターを頂いた時、ある先生が言った言葉です。
「自分の歳を3で割ると、それが人生の時間だ」私達は15歳÷3=5時。
午前5時の夜明け前。今人生の夜明け前にいるのだと教えて下さいました。
貴方の人生は今何時ですか?
——読者メールより
「後悔のない人生を送ろう!」
これは、いろいろなところでいろいろな人がいっていることで、それを実現するための方法が書かれた本は、硬派なものからちょっと胡散臭いものまで、書店に行くと山積みになっています。
私も「後悔のない人生を送りたいな〜」とは常々思っていて、この考え方には概ね同意できます。
でも一方で、「後悔のない人生」なんて、そんなものを実現することがはたして可能なのだろうか? と思うこともあります。
どういうことかというと、どんなに能力のある人であっても、またどんなに“そのとき”は迷いなく目の前のことに没頭できたとしても、その何年、何十年か後に、「本当にあれでよかったんだろうか?」と考えてしまうことは、だれにでもあると思うのです。
たとえば、今回紹介するカズオ・イシグロの小説『日の名残り』の主人公スティーブンスは、イギリスの大きなお屋敷で執事を務める中年男性です。
- 作者: カズオイシグロ,Kazuo Ishiguro,土屋政雄
- 出版社/メーカー: 早川書房
- 発売日: 2001/05
- メディア: 文庫
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美しく磨かれた銀食器に、よく手入れされた庭、紅茶やスコーンを顔色一つ変えずに上品に給仕する執事。たくさんの貴族が、政府関係者が、芸術家が訪れにやって来たこのお屋敷とかつての主人を、スティーブンスは愛していました。表の歴史には出てきませんが、数々の非公式の重要な会議がこのお屋敷では行われ、そこで国家の新しい政策や外交上の合意が生まれたのです。尊敬する主人のもと、その歴史的な舞台を最高の状態に保つ“執事”という仕事に、スティーブンスは生涯をかけていました。
私どもは、先のどの世代も見過ごしてきたある事実に、初めて気付いた世代ではありますまいか。それは、世界で最も重要な決定は公の会議室で下されるものではない、という事実です。あるいは公衆や報道機関の注視する中、数日間の国際会議で下されるものではない、という事実です。私どもにとりまして、議論も決定も、およそ重要な事柄はすべて、この国の大きなお屋敷の密室の静けさの中で決まるものでした。公衆の面前で華やかな式典とともに繰り広げられているたぐいのものは、しばしば、そうしたお屋敷の中で何週間、何カ月にもわたってつづけられてきたことの結末であり、承認であるにすぎません。この世界が車輪だという意味がおわかりでしょうか。それは、偉大なお屋敷を中心に回転している車輪なのです。
(中略)
職業的野心を少しでももつ執事なら、誰でも車輪の中心を望み、そこへできるだけ近付きたいと願ったでしょう。
前の世代の執事たちのように、より位の高い家に仕えることではなく、より車輪の中心に近い家——国家の外交や歴史をその手で動かす力のある家に仕えることが一流の、「品格」のある執事であると信じていたスティーブンスにとって、ダーリントン卿のお屋敷は最高の仕事場でした。
主人を信じ、仕事に生涯をかけてきたスティーブンス。
それはときに、好きな女性への自分の気持ちを忘れさせてしまうほどでした。
しかしもし、自分が信じ生涯をかけてきたものが、時代の流れとともに消えてしまったり、あるいは後になってそれがまやかしであったと気付いてしまったら?
かつて好きだった女性が、何の声もかけられないまま、別の男性と結婚して幸せな家庭を築いていたとしたら?
どんなに自分が正しいと信じているものでも、生涯をかけてきたものでも、時が経てばそれは、露と消えてしまうかもしれないのです。
★★★
スティーブンスは、現在の主人であるファラディ氏がアメリカに一時帰国する間に、休暇をとることをすすめられます。そして、ファラディ氏の車を借りて、イギリスの田舎を旅することになります。
イギリスの美しい田園風景をながめ、行く先々で出会う人々と言葉を交わしながら、スティーブンスはお屋敷で起きた過去のさまざまな出来事を思い返します。
物語の終盤で、スティーブンスはベンチに腰かけ、隣にすわっていた老人に、昔の思い出話をします。
かつてダーリントン卿のお屋敷で、どのような大行事が行われたか。自分がどうやってそれを成功に導いたか。召使いたちからあと少しの努力をしぼりだすために、自分がどのような「職業的秘密」を行使したか、などなど。
そして、今のご主人を尊敬していないわけではない、けれど、3年前に亡くなったダーリントン卿こそが、卿を信じることが自分のすべてだったと、泣き崩れてしまいます。かつての主人と、戦前の栄光を失ってしまったイギリスで、自分はもうなすべきことが何もない、と。
それに対して、老人は、スティーブンスにハンカチを差し出しながら、こう言います。
「人生、楽しまなくっちゃ。夕方が一日でいちばんいい時間なんだ。脚を伸ばして、のんびりするのさ。夕方がいちばんいい。わしはそう思う。みんなにも尋ねてごらんよ。夕方が一日でいちばんいい時間だって言うよ」
自分が人生のなかでしてきた選択は、必ずしも最良のものではなかったかもしれない。
でも、何かを信じてきたというその事実と、未来への希望は、そんな瑣末なことなどふきとばしてくれます。
夕方が、一日でいちばんいい時間なんだ。
冒頭の、ほぼ日手帳の話にもどりましょう。
貴方の人生は今何時ですか?
たぶん、「後悔しない生き方」って、何をなしとげてきたか、どんな地位を得てきたか、それが正しかったかどうかとかではなくて、
“何か”を信じてきたか、なのではないでしょうか。
それがおかしな宗教だったりしない限り、それが最良の選択だったかどうかなんて、おそらくたいした問題ではないのです。
「私はこれを信じてる!」といえる何かを見つけられた人は、
きっといい夕方をむかえられるにちがいありません。
たとえそれが、ちょっとしんみりするような、どこか悲しい夕方だったとしても。
「正直、人生ちょっと後悔してる」
そんなふうに思われている方は、ぜひ『日の名残り』を読んで、旅にでも出て、思い返してみましょう。
自分がこれまでの人生で、何を信じてきたのかを。
きちんと思い返してみれば、「後悔している人生」なんて、
そんなものはあるはずがないのです。
★★★
ネタバレすれすれのところまで書きましたが、本当にいい小説なので、ぜひ手に取ってみて下さい。
「後悔が云々」とか書きましたが、今回のエントリで伝えたかったことは、カズオ・イシグロの『日の名残り』っていう小説が、とてつもなくおすすめだという、そのことだけです……
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- 作者: カズオイシグロ,Kazuo Ishiguro,土屋政雄
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