先日、とある方から質問を受けて、「おお、そうか!」と思ったことがあります。
その方は、「(あなたがやっているような)旅行とか芸術鑑賞とかっていうのは、精神的な余裕があるからできることですよね? 精神的な余裕を保つために、何か心がけていることはありますか?」というような内容のことを、聞いてきてくれたんです。
私が精神的な余裕を保つために心がけていること……結論からいうと、なーんもないです。心がけたって余裕ないときは余裕ないし、あるときはあり余るくらいあります。精神的なものは、自分の心がけ次第でコントロールできるものじゃないと思うんですよね。だって、落ち込まない人とかいないじゃないですか。まあ、上手に気分転換する方法くらいはみんなそれぞれあるのかもしれないけど、それでいうと私は「とりあえず寝る」ですね。夜10時くらいに小学生のごとく寝ます。
では、私は精神的余裕があるときを見計らって旅に出て、精神的余裕があるときを見計らって芸術鑑賞しているのかというと、それもちがいます。そんなタイミングよくやれるわけない。
読書や芸術鑑賞は、精神的余裕があろうとなかろうと、毎日自然に、呼吸するように行なっているだけです。ごはんを食べたり掃除したり、歯を磨いたりお風呂に入ったりするのと同じように、本を読んだり旅行のことを考えたり映画を観たり美術館に行ったりしています。嬉しいことがあったときも、嫌なことがあったときも、落ち込んだときも、本を読んでああでもないこうでもないと考え込んで、Googleマップで世界地図を見て遊んでいます。まさしく、病めるときも健やかなるときも、です。さすがにノロウィルスに感染したときは、布団のなかでうずくまる以外何もできませんでしたが。
世の中にはめちゃくちゃに頭のいい人がいて(お医者さんとか)、そういう人たちのことをよく「あいつらは呼吸するように勉強している」とかっていいます。私はそんなに頭が良くないのですが、それは「呼吸するようには勉強できない」からだと思います。勉強しようと思ったら、机に向かって深呼吸してちょっと気合を入れないといけません。
「好きなこと」とか「夢中になれること」っていうと、前に向かってキラキラしていて、爽やかな汗がほとばしっているような眩い像を思い浮かべてしまいますが、そのイメージでいくとたぶん途中で挫折する気がするんですよね。本当の「好きなこと」とか「夢中になれること」というのは、四六時中一緒にいても大丈夫なヤツ、嬉しいときも楽しいときも、腹立ったときも落ち込んだときもやってやれるヤツ。そっちのイメージで考えたほうが、精神的負担が少ない気がします。だから、「好きなこと」とか「夢中になれること」とかっていう紛らわしい言い方はやめて、「無意識に何も考えずにやれること」とか「空気みたいな存在」とか「10年くらい尻にしいてたらペタンコになっていた座布団」とか、もっとそういう雑で粗末な名称で呼ぶべきなのではないかと思ったりもします。そういう意味では、なんだか恋人の話みたいでもあります。
だからなんか、「好きなこと」とか「夢中になれること」というものに対して、高尚なイメージをとりあえず取っ払ったほうが話が早いんじゃないかと私は思いました。自分がめっちゃ落ち込んでいるときでも、ごはんを食べたりお風呂に入ったりするのと同じペースでできることを考えてみてください。それを職業にしたり、お金を稼ごうとなるとまた問題は複雑になってくるかもしれませんが、とりあえず、それさえ見つかれば「なんかいいペース」で人生を送ることはできる気がします。
ちなみに私は、最近ソリティアにハマっています。嫌なことがあったときは、とりあえず無心でソリティアをやることにしました。ただし、ソリティアをやりまくっていると飽きてくるので、そうしたら読書とかに移行します。私が本当に「夢中になれること」とは、ソリティアだったのでしょうか。もしそうなのだとしたら、ちょっと残念なかんじもするけれど、それはそれでまた人生、です。
ところで、さっきからちょいちょい挟んでくる写真はなんなんだよ、と思いませんでしたか? 思いましたよね。思わなかったとはいわせません。これらは、スペインの南、アンダルシア地方にあるコルドバという街のメスキータという建物です。
1492年にレコンキスタが終焉を迎えるまで、スペインやポルトガルのあるイベリア半島の一部は、イスラム王朝の支配下にありました。ここコルドバを支配していたのは、756年にシリアからスペインに渡ってきたウマイア朝です。なのでこのメスキータという建物も、もともとはイスラム教のモスクでした。コルドバのメスキータといえばシマシマのアーチが特徴的ですが、これは「多柱式プラン」という建築様式。
だけど、レコンキスタの後にコルドバを支配するようになったキリスト教国は、そこにあったメスキータも再利用してキリスト教の教会に変えてしまったのですね。だから上記の写真のように、イエスの十字架が中央に配置されているのです。まさしく和洋折衷というか、和洋じゃないな、イスラム教とキリスト教の折衷案です。いかにもなイスラム建築のなかに突然イエスが現れると、不意打ちをくらったようでけっこうびっくりします。
このメスキータの北側には、そう、ユダヤ人街があります。「ラ・フデリア」と呼ばれるその界隈を歩いていくと、間も無くマイモニデスさんという人の銅像が現れるでしょう。惜しいことに写真を撮り忘れたのですが、このマイモニデスさんという人はどういう人かというと、12世紀頃にユダヤ教の宗教思想の基盤の上にギリシア哲学の理性的思惟を根付かせたラビだそうです。つまり、ユダヤ教ともっとカッコよくした人ってかんじでしょうか(たぶんちょっとちがう)。
マイモニデスさんの銅像を通り過ぎてしばらく行くとユダヤ教のシナゴーグがあって、けっこう安い値段でなかを見学することができます。コルドバのシナゴーグは、アンダルシア地方に唯一現存するとっても貴重なものらしい。だけど、シナゴーグってのはあんまり見て楽しいもんじゃないですね。「おい、お前ら信仰しろ! すっげーだろ!」と語りかけてくるキリスト教の教会やイスラム教のモスクに比べると、まじで質素。
レコンキスタ前のイスラム王朝はユダヤ教徒に寛容なイメージが勝手にあったのですが、そんなこともなかったようで(ていうか、レコンキスタ後のスペインが異端審問とかをやりまくって厳しすぎたのだろう)、マイモニデスさんの一家は宗教的迫害を受けてモロッコのフェズに移住してしまったそうです。その後、フェズもあまり居心地が良くなかったのか、エジプトのカイロへ移住。まさしく流謫の人生ですが、このあたりの地域っていうのはユダヤ教関連のものをすぐ見つけることができて旅行していて本当に面白いですね。
シナゴーグにはユダヤ教の燭台が立てられているのですが、これはイスラエルのエルサレムに行くと冗談抜きで1日50回くらい見ます。どこもかしこも燭台だらけです。だけど、スペインで見つけたものの後を辿ってイスラエルまで行き、そこでまた燭台を再発見するというのは、平たくいってめっちゃ面白い体験でした。「まじで後を辿ってるぜ!」ってかんじがしました。ちなみにこのユダヤの燭台は、お土産として買ったミニサイズが現在我が家に飾られています。
ちなみに、今ではラテン系の人々が住む情熱の国としてすっかり明るいイメージが定着しているスペインですが(ごはん美味しいしね)、スペインの中世というのは狂ってるしめちゃめちゃめちゃめちゃ暗いです。「中世はどこも暗いよ」といわれたらそれまでですが、なかでもスペインはやばい気がします。レコンキスタが終焉を迎え、キリスト教以外の宗教を認めなくなったスペインでは、異教徒は容赦なく拷問にかけられ、三角の奇妙な帽子を被せられて火刑場送りです。なんでその変な帽子を被せるんだよ〜。怖いじゃないか。
あと今回の旅行とは関係ないですが、私のなかでスペインといったらもうカルロス2世なんですよね。1700年に没したハプスブルク家最後のスペイン王です。もともとあまり健康な方ではなかったのですが、晩年はいよいよ頭がおかしくなってしまった王様で、亡くなった奥さんの墓をあばいたり、異端審問の裁判を見て喜んだりしていたそうです。性的に不能だったため子供ができず、ハプスブルク家が断絶しました。Wikipediaを読むともっとやばいことが書いてあるので、興味のある方はどうぞ。
※カレーニョ・デ・ミランダ『カルロス2世』
エル・グレコとかゴヤとか、スペインに縁のある画家ってなんかドロっとした暗さがある人が多い気がします。映画監督のルイス・ブニュエルの暗さもスペインぽい。眩しい光の裏にある、あのドロっとした闇はなんなんでしょう。次にスペインを旅する機会があったら、北のほうもたくさんまわってゆっくり考えてみたいものです。
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さて、「こいつ関係ない話題から始めて無理やり旅行記読ませようとしてんだな」という私の魂胆はいい加減バレたと思うのですが、病めるときも健やかなるときも、私はいつもいつも本当にこういうことを考えています。あとはソリティアをしています。
精神的な余裕がないとき、あなたは何をしているでしょうか?
★参考文献★
スペインを追われたユダヤ人 ――マラーノの足跡を訪ねて (ちくま学芸文庫)
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