チェコ好きの日記

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自身には冷酷に、そして他者には寛容に:『中動態の世界』

「自分の頭で考える」「自分の幸せの定義は自分で決める」

なーんて言葉をよく耳にするようになって早数年、当初はそれなりに目新しかったこれらの言葉も今じゃすっかり手垢がついたように感じられ、むしろ陳腐にすら聞こえる。それは私自身が、自分の1つ1つの選択に関して「これは本当に私の意志か? どこまでが私の意志だ?」と疑い出したらキリがなくなってしまったということがあって、今年の2月にはちょうどこんなツイートをしている。

そしたらちょうど都合よく、この私の疑問を徹底的に考え尽くしている書籍があった。國分功一郎さんの『中動態の世界』である。これを読んで、はたして「自分の意志」というのを私たちはどのレベルまで信用していいのか、ということを今回はちょっと考えてみたい。

──ちょっと寂しい。それぐらいの人間関係を続けられるのが大切って言ってましたよね。
「そうそう、でも、私たちってそもそも自分がすごく寂しいんだってことも分かってないのね」

──ああ、それはちょっと分かるかもしれないです。
「だから健康な人と出会うと、寂しいって感じちゃう」


『中動態の世界』p2

ハーバードに入れたのはあなたの実力ですか?

いきなり本の話ではないところに飛ぶのだけど、数年前にマイケル・サンデル先生の「ハーバード白熱教室」という番組が流行った。そこでサンデル先生が出していた印象的な議題があるのだけど、教壇のサンデル先生は学生たちに、「君たちの中で、自分の努力と実力でハーバード大学に入ったと思う者は手をあげなさい」と聞いていた。

大多数の学生がそこで手をあげたのだけど、サンデル先生はそれを一蹴する。

「なるほど、君たちは確かにここに来るためによく努力をした。しかし、その『雑事を気にせず勉強に集中できる』という環境、努力を奨励してもらえる環境、それらの多くは君たちの親御さんの教養や経済力が実現したものだ。そして、そんな親御さんの元に君たちが生まれることができたのはただの偶然であって、君たちの努力の結果ではない。つまり、君たちがここにいるのは努力とか実力とかじゃなくてただの偶然である」と、だいたいそんなことを話していた。

私はハーバード大学の出身ではないのでただの僻みに聞こえるかもしれないけど、確かに、と思った。自分の意志、自分の実力、自分の努力、それってあんまり信用ならないものなんじゃないか? と私が疑問を抱いたのは、思えばここが始まりだった気がする。

『中動態の世界』で展開されていくのは、平たくいうと上のサンデル先生のような話である。たとえば、「カツアゲされたのでしぶしぶ財布からお金を出す」は【自分の意志】か? 「本当はラーメンが食べたかったけど、友達が蕎麦を食べようと言ってきたのでまあいっかと思い蕎麦屋に行った」は【自分の意志】か? ……などなど。

前者は拒否すると暴力的な圧力を加えられるので【自分の意志じゃない】けど、後者は拒否しようと思えば拒否できるので【自分の意志】である──とか考えていくこともできなくはないけど、たとえば友達といえど自分がのび太で相手がジャイアンだったりした場合は? なんて可能性を考えると、こういう区分けは実はめちゃくちゃ難しいということがわかる。物騒な話につなげると、たとえば強姦の加害者と被害者の間で「同意があった」「いやあれは同意ではなかった」ということで揉めることがあるけれど、これも被害者が【自分の意志】で行為を受け入れたか否かを第三者的に判断するのはすごく難しい(私は女性なので、個人的にはできるだけ女性の味方をしたいけど)。【自分の意志】の所在は実はかなり曖昧で、他者が(あるいは自分が)都合のいいように捻じ曲げることも十分可能だ。

身近に起きていることでちょっとした皮肉をいうと、たとえば「会社員を辞めてフリーランスになります! フリーランスという生き方を、ぼくは【自分の意志】で選択したのです! 社畜乙!」みたいなことを言っている人を見ると、「ふう〜〜〜〜ん」と思う。確かに、その選択はなかなか立派なものだ。ただ、もし今が2017年じゃなくて1970年だったら、1900年だったら、1800年だったら? とか考えると、絶対にフリーランスなんて生き方をあなたは選ばないじゃん、というかそもそもフリーランスという生き方を選択できるのはインターネットやテクノロジーの恩恵であってあなたの意志はそこにないじゃん、それは【自分の意志】って本当に言い切れる? 環境にその選択をさせられているだけ、と考えることはできない?【自分の意志】の存在を驕りすぎでは? なーんて思ってしまう。まあこれは私の性格が悪いからですけど……。

性格が悪いことは認めるけれど、著者の國分さんもこの本で「われわれはどれだけ能動に見えようとも、完全な能動、純粋無垢な能動ではありえない。外部の原因を完全に排することは様態には叶わない願いだからである。完全に能動たりうるのは、自らの外部をもたない神だけである(p258)*1」と書いているので、私の指摘もあながち的外れとも言い切れないのではないだろうか。

と、まあそれを言い出すとキリがないので

『中動態の世界』を読み進めていくと、「つまり【私の意志】なんてのはどこにもないんだ、あるのは【そうさせる環境】だけだ……」という虚無的な思想に陥っていくのだけど、しかし実生活でこの思想を適用するのはあまりにも「飛びすぎ」であることは認める。「自分の生き方を自分で決める」とか「自分の幸せの定義は自分で決める」とかは、環境要因を完璧に排除することはできない以上100%は無理だけど、60%くらいは実現したい、ですよね。

そのために必要なのは、本書にあるスピノザの考えを借りると、「状態を明晰に認識する」ことであるという。つまり、ある種のメタ思考だ。これを私の言葉で言い直すと「自身には冷酷に、そして他者には寛容に」ということになる。

たとえば、私がハーバード大学の出身でなんかの会社を起業して儲けまくってウハウハな上にイケメンでモテモテだとする(想像力が貧困ですいません)。ただ、それは私の意志・実力ではない。ハーバードに入れてウハウハな会社を作れたのはそういう環境に生まれることができてラッキーだったからだけだし、イケメンなのは言わずもがな、自分が努力したからではない。そういう環境にいたのがたまたま自分だったのだ。*2どんなに調子のいいことがあっても、自身に対してはそういう冷酷な視線を持っていたいし、だからこそ欧米では寄付文化とかが盛んなのだろう。

他者に対しては、たとえば本書の例を採用すると、よくわかんないけどなんかめっちゃ怒ってる人がここにいたとする。そういうとき、「こいつ何怒ってんの?」と考えるのではなく、「何がこの人を【怒らせた】のだろう?」と考える。その人自身に責任を負わせるのではなく、外部要因を考えてみる。アルコール依存症の人を見かけたら、「自分の意志で酒をやめられない弱い奴」と考えるのではなく、「何がこの人に酒を【飲ませる】のだろう?」と考える。確かに、そういう考え方の癖をつけると、他者に寛容な、優しい視線を持てる気がする。全部偶然だし、たまたまだし、持ちつ持たれつだし、お互い様なのだ。

自分の生き方を自分で決めたい。だけど、私たちは60%(あるいはもっと少ない)くらいしか、自分のことを自分で決められない。良くも悪くも、誰においても、外部に左右されない人間というのはいない。

空虚感にやられる考え方ではある。ただ、この考え方を出発点にしたい、とは思う。ここからスタートして初めて、【自分の意志】の範囲をちょっとだけ広げることができるのだろう。

まあ、ほんとにちょっと、ちょっとだけかもしれないけれど。

おまけ:「自分の意志ってやっぱよくわかんないな」がわかる本

利己的な遺伝子 <増補新装版>

利己的な遺伝子 <増補新装版>

私たちはすべて遺伝子のヴィークルであり、魅力的な異性を魅力的だと判断するのは自分の意志ではなく、生殖に有利そうだから、みたいな遺伝子の判断であることが多いという話。自分の意志より遺伝子のほうが強い。

「自分の意志で判断した!」と思い込んでいることも、無意識レベルの脳の反応であるというようなことを様々な実験結果から説いている本。やはり、「自分の意志」なんかでは説明のつかないことのほうが多い。

(哲学の世界と生物学・脳科学の世界がつながったー! 感があり、どの本も非常に刺激的です。)

*1:下線はわたくし

*2:この考えを悪いほうに応用すると、自分の調子が悪いときに「これはアタシのせいじゃなくてまわりが【そうさせる】のが悪いのよ!」となってしまうので注意したい。が、「何が私を【調子悪くさせている】のだろう?」と第三者的に考えることは、やっぱり有効である気がする。自分を責めすぎるのは良くない。