チェコ好きの日記

もしかしたら木曜日の22時に更新されるかもしれないブログ

旅行に飽きたので、演劇とかやりたい。

ブライアン・クランストンという役者がいる。アメリカのテレビドラマ『ブレイキング・バッド』の主演俳優で、がんを患い余命2年を宣告された化学教師を演じている人だ。死ぬ前に家族に財産を残そうと、この人は覚せい剤の製造密売に手を染めていく。


Breaking Bad Trailer for STRAIN THEORY

で、同じくブライアン・クランストンが主演を務めているのが映画『潜入者』。こちらは、コロンビアの麻薬王の息の根を止めるため、ベテラン捜査官のロバート・メイザーが麻薬組織の潜入捜査に挑むという実話をもとにした作品だ。


潜入捜査官の衝撃の実話を映画化! 『潜入者』 予告篇

この映画でブライアン・クランストンは、ベテラン捜査官というエリートの顔と、潜入のため麻薬カルテルに近づく裏社会の男の顔とを演じ分けているのだけど、これは一言でいうと「怪演」である。エリートでいるときのロバートと、裏社会の男でいるときのロバートは、まったくの別人に見える。仕草、姿勢、言葉遣い、目線のやり方、それらがちょっとちがうだけで、同じ顔をした男が同一人物に思えない。

さらにいえば、ブライアン・クランストンは『ブレイキング・バッド』で冴えない中年の教師を演じているわけだけど、これもまったくちがう人物みたいに見える。私は『潜入者』の主演が『ブレイキング・バッド』の人であると知った上で映画を観に行ったのだけど、最初は「え、どれがブライアン・クランストン?」と思ってポカーンとしていた。思いっきり主演で映りまくっていたのに気づかなかった。

日本の俳優は、これは文句ではなくてそういう特徴があると言っているだけなのだけど、「雰囲気」で役者をやっている人が多い印象がある。てきとうに例をあげると、窪塚洋介とかはどの映画・ドラマでも全部「やんちゃなキチガイ」みたいな役である。作品が変わるたびに「えっ、これ誰?」みたいになる役者は少ないように思うのですが、どうでしょう。

別にどちらが良い悪いではないんだけど、私はこの2作品3役を見て、「ブライアン・クランストンめちゃめちゃかっこいいな……!」と思ってしまった。雰囲気で魅せちゃう人も素敵だけど、映画のために自分は「コマ」になることに徹する泥臭いプロ根性とか、単純にその役者としての技術の高さとかに、感動してしまった。そして妙な言い方になるけど、同時に、「こんなふうに仕草や言葉遣いを変えることで別人みたいになれたら、きっと楽しいだろうな〜!」と思った。


と、ここまでが前置きで以下から本題なのだけれど、最近、旅行に飽きている。

理由はたぶん、20代のときに行きたい場所にはだいたい行ってしまったからだ。まあそれでも細かく考えると行きたい場所はまだまだあるが、「この場所を見るまでは死んでも死ねない」みたいな強い憧れを抱いているところはもうなくなってしまった。別の言い方をすると、Lv30で倒せる敵はもうあらかた倒してしまったので、次の敵に立ち向かうためにはやみくもに旅に出るのではなく、まずは自分のレベルを30から40くらいまで上げてからじゃないとあんま面白くないな〜と思うようになってしまった。

なので、最近は「いかにしてレベルを上げるか」ということにご執心な私なのだが、「これやるとレベルアップできるのでは……?」とアタリをつけているのが、「身体(芸術)」とか「非言語」の分野である。格闘技を頑張っているのはそのためだし、「演劇をやりたい」というのは本当に役者を目指して演技を学びたいわけじゃなく一種のたとえなのだけど、ブライアン・クランストンみたいになれたら楽しいんだろうな、というのは今本当に思っていることだ。「私以外私じゃない」のは知ってたけど、「私だってそんなに私じゃない」のかもしれない。他人を支配したりコントロールすることはできないって知ってたけど、自分の体だって、自分が思ったとおりには動かないことがある。

演技したり、踊ったり、走ったりしたら楽しいんだろうなと思う。

今の気持ちを飾らずに率直に言うと、デヴィッド・リンチの『インランド・エンパイア』のエンディングに出てくるおねーちゃんたちに混ぜてもらいたい!

Inland Empire ending

「メンタルが強い」とはどういうことか

昔、知人に聞いた話だけど、彼が中学生くらいの頃、学校で「失神ゲーム」なるものが流行したことがあるらしい。

何回か深く深呼吸したあと、息を止めて胸を圧迫するような体勢をとり、その背中を友達が思いっきり叩く。すると、気絶したような状態になるので、その浮遊するような酩酊を楽しむことができる。

「それって危ないのでは……?」と聞くと、「危ないよ」と即答された。実際、このゲームがきっかけで脳に障害が残ることもあるし、そうすれば友達同士で同意の上とはいえ、傷害罪に問われることもある。なんでそんな物騒な遊びするのかしら、もうほんと男子ってやーね、と話を聞いた私は思った。

そんな失神ゲームのことはどうでもよくて、今回は中村うさぎさんの話をしたい。KindleUnlimitedに(またか)、『ショッピングの女王』なるエッセイが入っているのだけど、面白かった。全5巻。

ショッピングの女王

ショッピングの女王

中村うさぎさんといえば、買い物依存症、ホスト狂い、整形、デリヘル嬢と、女の業という業を全部抱え込んでやってみちゃいましたみたいな人だ。しかし、「性」「ジェンダー」「フェミニズム」などがテーマになっている『私という病』は、良い本ではあるがちょっと重いな、と思わなくもない。

私という病 (新潮文庫)

私という病 (新潮文庫)

重い本には重い本ゆえの良さがあるのでそれは別にいいのだけど、一方『ショッピングの女王』はこのマンガ調の表紙からもわかるように、どこまでも軽い。

タイトルのとおり、これは、ショッピングの女王と化した中村うさぎ買い物依存症になった際の体験をつづったものだ。だけど、悲壮感がまったくない。シャネル、グッチ、ドルガバ、エルメス、超高級ブランドの靴やらコートやらスーツやら鞄やらを毎度毎度ドタバタ買っては家のソファに蟻塚のように積み上げていく。蟻塚にあるぐちゃぐちゃになった服の山の値段を勘定してみたら、なんと400万円。いくら売れっ子とはいえ、作家ってそんなに儲かるのか!?と思ったら、毎月のカード引き落とし日には借金のアテをたどって遁走し、出版社から印税を前借りし、住民税や国保を滞納し、区役所に銀行口座を差し押さえられる。何十万もするシャネルのスーツは買うけれど、ガス代と電話代は払えない。まあ、控え目に言っても人間のクズだと思う。

4巻に差し掛かると、今度は買い物に飽きたのか、ホストにハマる。自分が指名したホストの順位が悪いと悔しいから、見栄と意地でドンペリをガンガンあけ、散財の額は一晩で50万、100万、120万と釣りあがっていく。こういう金の使い方をしてみたいかと問われたら私自身はしたくないし(嘘。ちょっとしてみたい)、身を滅ぼすのでほんとやめたほうがいいよと思うんだけど、しかし中村うさぎが湯水のごとく思いっきり金を使うと、ちょっと気持ちいい。これは何も、私の性格が悪いからではないだろう(たぶん)。

買い物依存症になってしまった心の病について、など語らない。『ショッピングの女王』の文章はどこまでもユーモアたっぷりで読者を笑わせ、品はないけど、「あっぱれ!」と拍手したくなるような底抜けの明るさがある。

以前書いたブログと同じ結論になってしまうけど、「誘惑から身を守るように生きている人間と、誘惑の波に溺れてもなお岸にたどりつける人間と、どちらが強いといえるのか」。これはもちろん、後者だろう。別に強い人がえらいというわけじゃないし、下らない誘惑から身を守って丁寧に生きることだって、尊いと思うけど。というかそもそも、普通に生きていたら誘惑なんてそんなにない。「誘惑が多い」と感じるならば、それはある意味才能だ。

中村うさぎのエッセイを読んで、なぜか知人が昔話していた、失神ゲームのことを思い出してしまった。これは冗談抜きで危ないからやっちゃだめなんだけど、限界の一歩手前で引いて帰って来なくちゃだめ、なんてことはない。限界をこえてもなお自分を保ち続けられる人というのが、いちばん「メンタルが強い」のだと思う。まあそれ、心を鍛えてどうにかなるもんでもなさそうだし、凡人には無理じゃんって話になっちゃうのかもしれないけど……。

もう少し現実的によせた話をすると、人間は調子の良いときではなく、調子の悪いときにこそ、真価が問われるのだと思う。

格闘日記② 〜短足はつらいよ編〜

「せんせー、テストを担当するせんせーは、だれに、なる、ますか?」


私の横で、上手とカタコトの中間くらいの日本語でトレーナーに質問しているのは、フランス人のシルヴィである。

「あー、担当トレーナーは当日まで教えられない規則なんですよ。申し訳ないけど」
「え〜〜、でも、わたし、初めてのせんせーだと、日本語が、聞きとれないかも……です。フランス人だから」

シルヴィいわく、慣れているトレーナーならばアクセントの癖などを把握しているので日本語の指示が聞きとれるが、対面するのが初めてのトレーナーだと言葉を聞きとりづらいことがあるらしく、それが不安だというのである。

「そういうことなら、ちょっと掛け合ってみるけど、僕からはなんとも言えないっていうか」
「せんせー、お願い。お願いします〜〜〜」


棒のように突っ立っている私の横で、トレーナーに必死に懇願するシルヴィ。私も一緒になんかいってあげようかなと思ったけれど、ていうか本来はそのために横にいるんだけど、いうべきことが思いつかない。トレーナーとシルヴィの顔を交互に見ながら、「そっスよね」「うん、そっスよね」といった具合で、無言で頷くことしかできなかった。

aniram-czech.hatenablog.com

シルヴィとは、練習日のタイミングが重なることが多く、気が付いたら毎回一緒にペアを組んで練習する仲になっていた。シルヴィは私よりだいぶ身長が高いし筋肉量も多いので、体格の上で最適な練習相手といえるかどうかはわからない。とはいえ、いつも誰と組むかわからない状態で練習に行くよりは、「今日もシルヴィがいるかも」と思いながら教室に行くほうが精神的にはだいぶラクだ。そのうち、通っている回数もほぼ同じであることが会話しているうちに判明し、「一緒の日に昇級テストを受けようぜ!」という中学生のような約束を、私とシルヴィは交わした。


「わたし、顔面を防御する練習のとき、すごく不利〜〜。なぜならフランス人で、鼻が高いから。フフフ」


彼女はいつも絶妙なフレンチ・ジョークで私を笑わせてくれる。文章で書くとあんま面白くないが、実際に彼女がいうと、なんだかとても気の利いた冗談であるような気がしてしまう。うーん、これがエスプリってやつなのだろうか。私もウィットに富んでかつエスプリの効いたジョークをさらっとかませる人間になりたいぞ。


さらに、シルヴィと話していると、自身の日本語能力を試されている気分になる。

「あのー、日本語の質問デス。わたしは、テストを、受ける。せんせーは、テストを、なんという?」
「えっ、『受けさせる』じゃない……???」
「へ〜〜、ほんとに? ほんとに『受けさせる』〜〜〜!?」
「え、たぶん……。間違ってたら、ごめん…………」

他、「足の指のことはなんという?」「えっ、足の指は、『足の指』でいいんじゃない……?」などなど、私はシルヴィに日本語の質問をされるといつも挙動不審になりオドオドしてしまう。そしてその場でiPhoneを取り出しGoogle先生に「足の指 別 言い方」とあまり賢いとは思えないお伺いを立て、「いや、やっぱ、足の指は『足の指』だと思う……」と自信なさげに再度返答し、「ほんとに〜〜!?」と疑われ、ますます日本語の自信を失っていくのであった。
(※これに関しては後日、シルヴィは「親指」「中指」など個別の指の名称を知りたかったのだということが判明した。)


そんなシルヴィに、「テストについて、せんせーに聞きたいことがあるから、一緒に来てっ」と頼まれると断れない。冷静に考えると「大人なんだから質問くらい一人で行ってくれよ」という感じであるが、シルヴィの前では私はどうも「NOと言えない日本人」になってしまうらしかった。

かくして、齢30歳にして「友達が先生に質問するのにくっついてく」というめちゃめちゃ既視感のある貴重な体験をさせてもらうことができ、シルヴィが「せんせー」と呼びかけている横で、「うわ、これ昔めっちゃやったやつ。中学生のときにやったやつ」と私は15年前の記憶を蘇らせていた。なんか、テスト範囲とかについてやたら細かい質問を先生にしたがる女子、いませんでしたか。私はそういう子に、こんなふうによく「一緒に来てっ」と言われてくっついていって、先生とその子のやりとりを何も言わずに聞きながら「早く帰りてえな〜」と思っていた。それからさ、私も一応女子だったから、得体の知れないカラフルなペンで手紙とか書いて、それをハート形に折って授業中に友達と回したりしていたんだよネ。大人になって、そんなこと、もうすっかり忘れていたよ。


何の話をしてるんだっけ、そう、格闘技の話である。そんな具合で私とシルヴィはともに6月上旬の昇級テストに臨むことになったのだが、申し込みの際に「テストの受検に、月謝とは別に8000円と受検用Tシャツ代3000円をいただきま〜す」と受付のお姉さんに言われ、そのときは「ちくしょ、ボロい商売しやがってクソが」と思った。

f:id:aniram-czech:20170617213933j:plain

4時間にわたる体力テスト、打撃テスト、護身テストになんとか耐え、結論からいうと、私は昇級テストに合格した。

後日トレーナーからいただいた講評は、意訳すると以下のようなものだった。


総合評価(A〜E) B−合格


長時間のテストたいへんお疲れ様でした。
打撃・護身ともにフォームに忠実であり、頭では、非常によく動きを理解していると思います。なぜそこで体重移動をするのか、どこで力を最大限にすべきなのか、頭では、とてもよくわかっているという印象を受けました。


さて、頭で理解しているということは、教室内ではそれなりの力を発揮できますが、逆にいうと、パニックになって頭が真っ白になってしまったら、手も足も出ないということです。つまり、一歩教室の外に出てしまったら、あなたはチンピラに襲われても何もできません。上級クラスではぜひ、頭ではなく身体に染み込ませるように動きを覚え、頭が真っ白になっても、何も考えられなくなっても、考えるより先に手足が出るようになりましょう。


それと、あなたの体格だとどうしても打撃の威力に限界があるので、今もけっこう頑張ってるとは思いますが、さらにもうちょっと頑張って筋肉をつけましょう。以上

頭では、という部分がいやに強調されていた気がする文面だったが、それは私が超言語優位の人間で、いつも頭の中で理屈をこねまわしていることをコンプレックスに思っているが故の被害妄想かもしれない。しかし何はともあれ、合格は合格である。

後日、上級クラスの時間帯に合わせて練習に行くと、そこにはシルヴィの姿があって、私たちは中学生みたいに手を取り合って互いの合格を喜んだ。30歳になっても私は「一緒に来てっ」と言われて友達の質問にくっついていくし、中学生みたいに友達と合格を喜んでいる。この事実を15年前の私が好ましく思うか、それとも失望するかわからないが、それはそれとして、私はこんな大人になってしまった。

さて、上級クラスの練習は、下級クラスの練習よりも、とても面白い。どこがどう変わって、どこがどう面白いのか説明しろと言われると難しいのだが、覚える技が少し高度になって、「私の体でもこんなことができるんだ!」という発見がある。

人間の体には、強い部分と弱い部分がある。弱い部分は一般的には「急所」といい、男性のだいじなところなどがその代表例であるわけだが、「ここね、急所なんだよ〜ホラ」とトレーナーにひざのあたりを軽く突っつかれて「ぎゃあああああああ!」と悶絶している人を見ると、私たちは本当に自分の体なのに何も知らないんだな、と思う。「ここをこうするとね、力のない女性でも簡単に相手の骨を折ることができるんだよ」などというトレーナーの説明を、私はものすごく熱心に聞いている。いつ使うつもりなんだその知識。

さしあたって、今の悩みは、上級クラスで使用することになった「シンガード」だ。こういう、練習に必要な備品を教室ではレンタルしてくれるのだが、私は足が短いので、シンガードを足にはめると上がだいぶ余ってぺこぺこしてしまうのである。「女性用(ていうか、短足用)はないんですか……?」と受付のお姉さんに聞いたら「ない」と言われたので、私は今、ぺこぺこを我慢するかマイ・シンガードを買うかで悩んでいる。別にケチってるわけじゃなくて、まあケチってもいるけど、あれを練習日のたびに家から持って行ったり持ち帰ったりするのがめんどくさいのよ。


そんなわけで、私の格闘の日々は、まだ続きそうだ。

なぜ私はあの人が好きなのかしら

先日、山本英夫さんの『ホムンクルス』というマンガを全巻ほぼ一気読みした。

それで、そのまま同じく山本さんの『のぞき屋』『新のぞき屋』も全巻ほぼ一気読みした。ちなみに、『のぞき屋』『新のぞき屋』はKindleUnlimitedで読めるよ。マンガ読むのってお金かかるよね。

新のぞき屋1巻

新のぞき屋1巻

こちらは全1巻らしい
のぞき屋 1巻

のぞき屋 1巻

「人間の真の姿」を描きたい山本英夫

さて、『ホムンクルス』と『新のぞき屋』(『のぞき屋』も)で描かれているテーマは、設定こそ違えど同じだと言えると思う。2作品とも、「人間の真の姿」を描きたい、という欲求が作者にあったのではないだろうか。「人間の真の姿」というのが少々大げさに感じるなら、「あの人、本当のところは何考えてんのかな」でもいい。

ホムンクルス』ではそれをトレパネーション(頭蓋骨に穴を空けるオカルトな手術)で得た超能力によって、『新のぞき屋』では盗聴器や尾行によって、垣間見ようとする。他の作品は読んでないからわからないけど、少なくとも2作品で同じテーマを繰り返し描いているということは、山本英夫さんにとって「人間の真の姿」とはそこそこ大事な、大きなテーマなのだろう。

時系列的には『新のぞき屋』のほうが先に描かれた作品(1993年-1997年)なのでこちらのほうから触れると、主人公の見(ケン)は探偵、というか「のぞき屋」を稼業にしている。依頼主から失踪者を探してくれだの浮気・素行調査をしてくれだのと仕事を受け、盗聴器やコンクリートマイクを駆使し、あるときは尾行やピッキングなどもして、ターゲットの「真の姿」を仲間と共に暴いていく。なぜ見がこのような仕事をしているかというと、見が、のぞきが趣味ののぞき魔だからである。といっても、女性の着替えをのぞくとかそういうエッチな方面ののぞきではなくて、表で澄ました顔をしている人間が裏で何をやっているのとか、そういうのをのぞくのが「趣味」らしい。品行方正で成績優秀なあの子、実はエンコーやってんだってよ! とか、そういうのだ。

変わって、『ホムンクルス』(2003年-2011年)は超能力で人を見る。トレパネーションで特殊能力を得た主人公の名越は、右目を隠して左目で人間を見ると、その人間の深層心理に眠るトラウマやコンプレックスを、妖怪のように具現化して見ることができる。

ならべてみると(ならべるっつっても2作品だけど)「なるほど〜」という感じが私はする。つまり、『新のぞき屋』の頃の山本さんは、1人の人間を朝から晩までびっちり尾行して、家庭・会社(学校)・友人との飲み会・恋人(愛人)とのデートなどなど、すべてを見ればその人の「真の姿」がわかるはずだ、と考えていたのではないだろうか。しかし『ホムンクルス』の頃になると、人間の「真の姿」を構成しているのは現在だけでなく過去(深層心理)の要素も大きく、そこまで含めないと「真の姿」は見えない、と考えるようになっていたのかなと思う。そして名越は超能力を得たとはいえすべての人間の深層心理をのぞけるわけではなく、自分と同調するトラウマ・コンプレックスを持った人間でないと妖怪化して見ることができない。これもなかなか凝った設定だなと思う。ふむー。あなたはもし持てるとしたら、類稀なるのぞきテクと超能力、どっちが欲しいですか? 私は超能力かな(法に触れないので)。

あとはやっぱり、本当に「見る」だけならのぞきでいいんだけど、その人間に直に触れるためには深層心理的な部分にタッチせざるを得なくなる。だから同じ「人間の真の姿」を扱っているといえど、「見る」だけだった『新のぞき屋』が『ホムンクルス』になって「触れる」ところまで進んだと考えると、山本さんの中でこのテーマが発展・熟成したことがわかって面白い。『新のぞき屋』の見(ケン)は名前のごとく「見ることしかできない自分」を後半でとてももどかしく感じるようになってきていて、そういう意味では相手と直に接触を試みている『ホムンクルス』は『新のぞき屋』の姿を変えた続編だったんじゃないかとさえ言えそうだ。

ホムンクルス』はなぜバッドエンドだったのか

ところで、以下は微妙にネタバレになってしまうけど、『ホムンクルス』のラストはバッドエンドに終わる。まあ、あれをバッドではなくハッピーと見なす解釈もできなくはないかもしれないが、基本的な見方としてはやはりバッドエンドだろう。「見る」だけでなくその人のトラウマやコンプレックスに直に触れるところまで発展した『ホムンクルス』の名越は、なぜ幸せになれなかったんだろう? 読み終わったあとしばし考え込んでしまった。

「あの人が本当のところ何考えてるのか知りたい」という欲求は、「私が本当のところ何考えてるのか知ってほしい」という欲求と通じるところがある。『新のぞき屋』では前者にばかり焦点が当たって後者は不完全燃焼気味に終わるのだけど、『ホムンクルス』は後者を徹底的に突き詰めた結果、主人公が不幸になってしまう。「私のことを知ってほしい」ってそんなに狂気じみた感情で、思っちゃいけないことなのか!? これはちょっと救いがなさすぎるのではないかと一瞬思った。

と、ここで自分が昔書いたnoteの日記を思い出してみる。
note.mu

ここに書いたことを今読み直すと、『ホムンクルス』と基本通念がガチガチに通じている! と我ながら思う(自己評価です)。私たちの身の回りには「好きな人」「嫌いな人」「感じのいい人」「感じの悪い人」などなどが様々なグラデーションで存在しているわけだけど、自分に何らかの感情をもたらす人は良くも悪くも自分と同調するところがあるのだ。私はそれを、「好きな人」は自分の未来にいる存在であり、「嫌いな人」は自分の現在あるいは過去にいる存在なのではないかと考えたのだけど、この考えに沿わせると『ホムンクルス』の主人公がなぜ幸せになれなかったのかが、ちょっとわかる。

もちろん私の解釈だけど、名越は相手に、「未来」を見ていなかった。今がこうで、過去がこうだった、ということに拘りすぎていたのかなと思う。昔のことは消えるわけじゃないがとりあえず脇に置いといて、これからどうしていきたいかとか、どうなりたいかとか、そういう気持ちがないと、純度の高い「好き」は生まれないのかもしれない。まあ、打算を一切抜きに人を好きになるというのもなかなか難しいので(母が子を愛す気持ちにだって生物学レベルの打算がある)、純度の高い「好き」なんて考え方自体が幻想じみてるかもしれないけど。

そしてちょっとビビるのが、私がnoteに「すべてがつながっているような気がしてハッピーでピース」などという少々頭沸いてることを書いていることで、これは『ホムンクルス』のラストとなかなか似ている。突き詰めるとこうなってしまうわけで、私たちは永遠に、「人とのつながり」と「人との分断」の間を彷徨い続けるしかないのだろう。どちらかに振り切ると、それは精神の病につながる。


ホムンクルス』もUnlimitedの対象だったらよかったのだけど、こちらは普通のKindle版しかありません。でも面白かった。

浮いた氷山の水面下には何がある?:『発酵文化人類学』を読む

知人に、発酵デザイナーの小倉ヒラクさんという方がいる。

最初にお目にかかったのは確か「灯台もと暮らし」さんのイベントだったと思うのだけど、イベント後にブログを読んだらレヴィ=ストロースのことがいっぱい書いてあって(しかもそれがすごく面白い)、そこから私の中でヒラクさんは完全に「文化人類学の人」になった。私自身は残念ながら、レヴィ=ストロース御大のことは「すごいのはよくわかるけど何がどうすごいのかは説明できない」みたいな理解しかしてないのだけど、しかしそれはそれとして、よくわかってないくせにものすごく気になる存在ではある。30歳になった今年の誕生日は家にこもって、『悲しき熱帯』を8時間くらいずっと読んでいた。

そんなヒラクさんが、この度『発酵文化人類学』なる本を上梓されたらしい! というわけで、以下はヒラクさんの『発酵文化人類学』の感想です。

発酵文化人類学 微生物から見た社会のカタチ

発酵文化人類学 微生物から見た社会のカタチ

浮いた氷山の水面下には何がある?

本の感想の前にちょっと別の話から入るけど、正直なところ私の頭は、つい最近まで世界を国境という境界線で区切り、国境は「ある」という認識によって世界を見ていた*1

「あれ? なんか変だな」と気が付いたのは昨年、インドネシアを旅したときだ。私は一大観光地であるバリ島を訪れた後、スピードボートに乗ってギリ・アイルという小さな島とロンボクというデカめの島を訪れてみたのだけど、実はこのバリ島とギリ・アイル、ロンボク島の間には、ウォレス線という生物分布境界線が走っている。ウォレス線より西のバリ島側は生物分布が東洋区に属し、東のロンボク側は生物分布がオーストラリア区に属しているのだ。ボートで2時間移動しただけなのに、島に生息している植物や動物がちょっとだけ変わっている。さらにいうと、ウォレス線を境に宗教も変わっているように見えるから面白い。西側のバリ島はヒンドゥー教だが、東側のギリ・アイル、ロンボクに行くとそこはイスラム教の島になってしまうのである。

f:id:aniram-czech:20170110211104j:plain

実際に訪れてよく観察してみると、バリもギリ・アイルもロンボクも、1つ1つの島はまったく異なる性格をしている。しかし、人間は地図の上から線を引っ張って、「国境はこっちです。だからバリもギリ・アイルもロンボクも同じ、インドネシアなんです」ということにしてしまう。あるいはユーラシア大陸なんかだと、国境によって同じ文化を共有している民族を分断してしまってたりすることもあるだろう。実際の生物分布や文化の分布と、人間の都合で便宜的に引いた国境ってのは、あんま関係ないんだな〜としみじみ思ったのである。

さらに、もう1つ別の話。私も大ファンだけどヒラクさんもファンだと言っていた、辺境作家・高野秀行さんの『謎のアジア納豆: そして帰ってきた〈日本納豆〉』という本がある。納豆といえば日本人にとってもっとも身近な食品の1つだけど、なんと、実はその正体がよくわかっていないらしい。まずありがちな勘違いとして、「納豆は日本にしかない」と思い込んでいる人が少なからずいるかもしれないが、納豆はミャンマーにもネパールにもブータンにもある。韓国にもある。ただし、中国にはないらしい。

そうなると、今我々の食卓に並んでいるこの納豆は、いったいどこから来たんだ? という疑問が浮かぶ。稲作っぽい感じで別の大陸から伝わってきたのだとしたら、中国を飛びこえているのがおかしい。納豆自体は作るのがそんなに難しくないので、じゃあ日本国内で独自に発達したのかな? と思いきや、実は納豆には方言の呼び名がなく、日本全国どこでも「納豆」と呼ぶ。国内独立起源説をとると、こんなに日常的な食品の名称が全国で統一されているのはおかしいので、この説もいまいちとなる。

納豆の起源については結局、高野さんの本の中で結論は出ない。だけどここ日本と、遠く離れたミャンマーやネパールの山岳地帯で、同じ微生物のお世話になって同じ食品を作っていたというのはちょっと不思議な気分だ。人間が作った地図上で見れば日本とミャンマー、ネパールは遠く離れた別の国だが、微生物の世界から見ると非常に近くにある「おんなじようなもん」なのかもしれない。

で、やっと『発酵文化人類学』の話につながるのだけど、ヒラクさんはこちらの本の「あとがき」で奄美群島を訪れている。微生物の働きによって色素が布地に定着する、奄美特産の大島紬という絹織物があるらしいのだけど、この大島紬の系譜をたどると、インドやジャワの絣織りにたどりつくらしい。

地図を上から見ると、そこには国境がある。それでなんとなく、私たちは日本とインドネシア、日本とミャンマー、日本とその他諸々の国は、別の国なんだと思っている。だけどそれってたぶん、間違ってるわけじゃないけど、氷山の一角というか、先っぽというか、上澄みのあさ〜い部分でしかないんだろう。私たちは人間なので、人間の体が通れる場所しか「道」だと認識していない。だけど目線を下げて体を小さくして猫になってみれば、きっとそこには人間が普段は認知していない「道」が無数に現れる。別の生き物(微生物)の目線で世界を見てみると、浮いている氷山の水面の下にまでもぐることができるのだ。

そして贈与経済

いきなりあとがきの話に飛んでしまったけれど、個人的に『発酵文化人類学』でいちばん興味深かったのは、第4章の「ヒトと菌の贈与経済」である。ニューギニア島東部にはトロブリアンド諸島というのがあって、そこに住む部族は、赤い貝の首飾りを時計回り、白い貝の腕輪を反時計回りにして、部族間でぐるぐる交換しているという。なんの意味があるんだそれ? と思わず問いただしてしまいたくなるけれど、「なぜ人間はコミュニケーション(交換)をするのか?」ではなく、文化人類学は「コミュニケーションをするから人間なのだ」と考えるらしい。

さらにいえば、コミュニケーションをしているのは人間と人間だけではない。目に見えているもの以外にも、私たちはあらゆる生命体とコミュニケーションを交わしている。『発酵文化人類学』は発酵の本なので、説明されているのは主に人間と菌のエネルギーの交換だけれど、人間とイルカとか、人間と植物とか、人間と猫とかでもコミュニケーションはできる。人間をやっているとたまに「孤独だなあ……」と感じてしまうこともなくはないけれど、それは私たちが人間であるが故に人間ばっかり見ているからで、本当はただ生きているだけで全然孤独ではないんだろう(と、いうのは前に伊佐知美さんの『移住女子』を読んだときも思った)。

都市の孤独と、地方『移住女子』のモテ - チェコ好きの日記

最近実感している個人的なことだけど、「生きる」ということはどうやら「ぐるぐるする」ということとイコールらしい。

「ぐるぐる」をもう少しわかりやすくいうと「コミュニケーション」だけど、しかしやっぱり私が思う意味により忠実なのは「ぐるぐる」のほうだ。そして、「生きる」ことが「ぐるぐる」であるが故に、「ぐるぐる」の流れはあまり止めないほうがいいらしい。すごい平易な言い方をすると、「昔は上司におごってもらったから、今度は自分が部下におごってあげよう」みたいなことになると思うんだけど、おごられっぱなしだと実は得するようでめちゃめちゃ損するようになっているっぽい。なんでかは知らないけど。あと、「上司におごってもらったので上司におごり返す」のではなく、「今度は部下におごる」というのがミソで、右から来た首飾りは右に返すのではなく左に流すのがキマリのようだ。なんでかは知らないけど。

こういうのってちょっとやばくなると「すべてのことに感謝しましょ〜!」みたいなスピリチュアルな方向に行きそうな気もするんだけど、でもあれってあながち間違ってなくて、というかあながち間違ってないが故に信者が増えるのかもしれない。

まとめ

個人的には、ブログでのヒラクさんの文体がそのまま反映されていたのが楽しかった。「発酵も人類学も関係ないじゃん」と思うかもしれないが、案外「孤独だ……!」と深夜に頭を抱えてしまっている人が読むと、斜め上の方向からすっきりするのではないかという気がする。

謎のアジア納豆: そして帰ってきた〈日本納豆〉

謎のアジア納豆: そして帰ってきた〈日本納豆〉

※私の中での「合わせて読みたい」

*1:これまでの旅は、ヨルダンから国境を越えてイスラエルに入るときなどにライフルを抱えた兵士にすごく厳しくパスポートチェックされたりとか、もしくは飛行機での移動が多かったので、「国境」を強く意識してしまう機会のほうが多かったのだ