「なんとなく退屈だ」。
これは最近の私の感想でも地方の若者の感想でも東京のOLや女子大生の感想でもなく、ドイツの哲学者マルティン・ハイデガーが「退屈の第三形式」として提示した、最も深い「退屈」の形態です。しかしそう難しく考えなくても、「なんとなく退屈だ」、この思いを人生で一度も抱いたことのない人なんていないでしょう。毎日が充実していないわけじゃない、楽しいことがないわけじゃない、友達がいないわけじゃない、それなのに「なんとなく退屈だ」。気晴らししようにもどうも気分が晴れない。
人間はなぜ「退屈」するのか、「退屈」はどこから生まれるのか、「退屈」から逃れる方法はあるのか?
そんなことを考えるのに役立つのが、國分功一郎『暇と退屈の倫理学』です。この本すごく面白かったので、今回はこれの感想文を書きます。
- 作者: 國分功一郎
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「退屈」の反対は「快楽」ではなく「興奮」である
まず冒頭のハイデガーが提示する「退屈の第三形式」、「なんとなく退屈だ」。これに続く言葉をちょっと考えてみてほしいのですが、私は、「なんか楽しいことないかなあ」、これだと思うんですね。現在の「退屈」から抜け出すためには、何か「楽しいこと」があればよいと。
となると、一見「退屈」の反対は楽しいこと、つまり「快楽」であるかのような印象を受けるのですが、これを否定しているのが、本書で紹介されているバートランド・ラッセルの退屈論です。ラッセルは、人は退屈しているとき、「快楽」ではなく「事件」を求めている、といいます。一瞬「ん?」と首をかしげてしまうのですが、胸に手を当ててよーく考えてみるとこれは非常に納得で、人は「なんか楽しいことないかなあ」と思うとき、必ずしも幸福なこと、楽しいことを求めているわけではありません。それが不幸なことでもかまわない、とりあえず刺激となるような「事件」がほしい、という気持ちになっています。数年前に『DEATH NOTE』って漫画が流行りましたが、これのコミックス第1巻のサブタイトルが「退屈」であることは、このことのわかりやすい例といえるのではないでしょうか。「なんとなく退屈だ」とは、まさにこの漫画が抱えているような倦怠感です。
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あとは、退屈しているとき人は(女性は)、自分をどこかへ連れ出してくれるような気がして、街で声をかけられたらフラフラとナンパについていっちゃうかもしれません。これも、何か刺激となるような「事件」を求めているから、といえるでしょう。
人間は「幸福」なんて求めていない。これが真実だとしたら驚くべきことですが、本書はだからといって「不幸に憧れてはならない」、不幸への憧れを回避するために「暇と退屈の倫理学」を考えなければならないと、そういう構想からスタートしています。
幸福に”なる”ことが難しいのではなく、幸福を”求める”ことが難しいのです。
人間はもともとノマド
ノマドとは「遊牧民」という意味ですが、近年はIT機器などを駆使して、カフェやコワーキングスペースなど、オフィス以外の場所で働く「ノマドワーカー」を、その単語から連想する人が多いでしょう。本書の第2章は、「退屈」は人類の歴史においていつ生まれたのか、という暇と退屈の系譜をたどっていきます。そしてそのなかで、人間はもともと畑を耕して食料を貯蔵するという「定住生活」をしていたわけではなく、狩猟・採集によって食料を得る「遊動生活」をしていたんだよね、という話が出てきます。
私たちはなんとなく、狩猟・採集による「遊動生活」は大変だしめんどくさいので、食料生産の技術を得た人類が好んで「定住生活」を始めたのだーーみたいなことを考えていますが、ここではそれが否定されています。人間はもともと「遊動生活」をしていた遊牧民で、本当は定住なんてしたくなかったけど、環境の変化により仕方なく定住生活を始めたのだ、という考えが本書では提示されているんですね。当エントリでは詳細は省きますが、その根拠が知りたい方は実際に本にあたってください*1。
つまり何がいいたいのかというと、人類はもともと脳も身体も「遊動生活」をするようにできている、ということです。遊動生活では常に生活拠点を移し、新しい環境に適応しなければなりません。そのためには常に刺激を求め、それを楽しめるような心理状態でないとやっていけない、ということですね。脳に常に適度な負荷がある状態を、人間は好んでいるんです。
しかし、人間は定住生活を始めてしまった。毎日毎日、変わり映えしない風景を見続けないといけなくなってしまった。ここで「退屈」が生じると、本書は説明しています。そしてその「退屈」を埋めるために、高度な技術や政治経済システムを発展させ、有り余る心理能力をそこに注がなければならなかったのだ、と。
ここで本の内容をはなれて突然話が飛ぶのですが、シンデレラとか白雪姫とかヘンゼルとグレーテルとか、いわゆる「おとぎ話」っていうやつがあると思うんですけど、多くの「おとぎ話」には、「森」がとてつもない存在感をもって登場します。ヘンゼルとグレーテルがいちばんわかりやすい気がしますが、あれは森のなかを延々とさまよう話ですよね。なぜこのようなおとぎ話に「森」が登場するのか、『暇と退屈の倫理学』を読んでいてピンと来ました。おそらく人間は、遊牧民だったころの記憶を、物語として留めておきたかった、いや、留めておかなければならなかったのではないでしょうか。
しかし、「ノマド」なんていって仕事場を移動するのは、遊動生活をしていた何万年も前の人類に比べたら、当たり前ですがおままごとに過ぎません。時計の針を戻すことはできないのです。だから私たちは、やっぱり人類が生み出してしまった「退屈」に、立ち向かわなければならないのでしょう。
「消費」の反対は「生産」じゃなくて「浪費」だったかも
第3章になると、今度は少し時代が進んで、暇と退屈の経済史を考える構成になっています。いわく、19世紀以前の人間は、それでもけっこう忙しかったので、「退屈」になるのは一部の有閑階級だけで、民衆はあくせくあくせく働かなければならなかったというんですね。そして”一部の有閑階級”の間では、「退屈」を処理する方法が上手く伝承され、機能していた。しかし20世紀の大衆社会は、「暇を生きる術を知らないのに暇を与えられた人間が大量発生した*2」と、本書はいいます。そして、暇と退屈の問題が顕在化したわけですね。
私は実は、以前もこの「退屈」の問題について考えたことがありまして、そのときは「退屈」は「消費」が生み出すものであり、これから逃れるためには「生産」をすればよいのではないか、という話をしています。
本書でも「退屈」と「消費」の関係について触れられているのですが、その対になる概念が、私が考えた「生産」ではなく「浪費」であった、という点を面白く読みました。「浪費」というとなんだか悪い言葉に聞こえるのですが、本書では「消費」を観念や意味を受け取るもの、「浪費」を物自体を受け取ること、としています。
どういうことかというと、例えば美味しいステーキを味わって食べて楽しむこと、これは贅沢であり、「浪費」です。一方、ステーキが美味しいと話題の、雑誌に載っていたお店に行ってステーキを食べてくること、これは「消費」です。ステーキ自体を楽しむのではなく、話題のお店という記号や、流行にのっているという観念を受け取っているからです。
「消費」がなぜダメなのかというと、終わりがないからです。記号や観念はいくらでも吸収できます。でも、「浪費」には終わりがある。ステーキを食べて満腹になれば、そこで一度は終了です。「消費」と「浪費」の行動は実際にはおそらく厳密に分けることはできず、両者が曖昧に混ざり合っているのだと思うのですが、とりあえず本書ではそういう説明がされています。
かつて、「退屈」への対処法を心得ていた”一部の有閑階級”は、この「浪費」の考え方を上手く使い、「消費」することなく贅沢を楽しむことができていた、といいます。そして、それが現代に生きる私たちが、「退屈」と対峙する際のヒントになるのだとも書かれています。
まとめ:生きることはバラで飾られねばならない
本書ではこの後、ユクスキュルの環世界の議論なども登場するのですが、私には少々咀嚼しきれなかったところもあり、当エントリではここで途中をすっ飛ばしてまとめに入ります。人間が「退屈」から逃れるには、どうしたらよいのでしょうか。
私の以前の考えでそれを結論付けるならば、やっぱりそれは「生産」をしなければならないという話になるし、本書をふまえた上でより深く考えるならば、「浪費」をして贅沢を楽しまなければならない、ということになります。記号や観念ではなく物を受け取ること、というと一瞬よくわからないですが、要は食事なら食事、芸術なら芸術と、そのもの自体を楽しむことです。
しかし、「そのもの自体を楽しむ」ってけっこう難しい。ステーキを「消費」するのではなく、本当に味わって食べるためには、(ステーキに関わらず)それなりの経験や知識、洞察力が必要です。そして、これが芸術、ハイカルチャーになると、アート系ブロガーである私にとってはものすごく都合のいい結論になってしまいます。だからみなさん、芸術を、美術史を勉強しましょうねと。しかしあえていっておきますが、物事はそんなに単純ではありません。
本書はいささか中途半端、というか読者に結論を委ねるようなかたちで締めくくられています。これは当たり前といえば当たり前で、本書での議論をふまえて、「退屈」から逃れる方法は各々が考えるしかありません。衣食住それ自体を味わって楽しむこと、芸術に触れて心を豊かにすること。言葉にするととても陳腐ですが、これの実践はめちゃくちゃ難しいです。味わうということは経験を蓄積すること、考えることをやめないこと、です。
最後に、本書からの孫引きになりますが、イギリスのデザイナー、ウィリアム・モリスの言葉を借りて終わりにしましょう。これが私のなかでは、いちばんピンと来ました。
ーー人はパンがなければ生きていけない。しかし、パンだけで生きるべきでもない。私たちはパンだけでなく、バラももとめよう。生きることはバラで飾られねばならない。
本当は環世界の議論についてももう少し詳しく読み込みたいところなのですが、とりあえず、繰り返しておきましょう。
人間は、幸福に“なる”ことが難しいのではありません。幸福を“求める”ことが難しいのです。たぶん。