「ポスト・インターネット」とは、「インターネットとリアルがもはや区別されない、シームレスとなった環境」*1のことだそうです。6月号の美術手帖の特集が「ポスト・インターネット」だったので、今回はこれの感想を書きます。
- 作者: 美術手帖編集部
- 出版社/メーカー: 美術出版社
- 発売日: 2015/05/19
- メディア: 雑誌
- この商品を含むブログを見る
現代アートは今、何を扱っているか
今回の特集では、NYの「ニュー・ミュージアム・トリエンナーレ2015」、東京の「世界制作のプロトタイプ」展などで紹介された作家の作品が誌面に登場していました。私もほとんど知らない人だったのですが、そのなかで面白かったのがアラム・バートールという人の作品です。
こんなふうに、オンライン上にしかないはずのGoogleマップのピンを、リアルな場所に突き刺してしまうんです。これねー、わかると思うんですが、すごいヘンですよね。ヘンというか、倒錯的というか、とりあえずアートの世界でも今、「インターネット」というテーマは無視できないものになっているようです。
インタビューが載っていたジョシュ・クラインはシェアリング・エコノミーやソーシャルメディアをテーマに作品を作っているし、他のアーティストに関しても、スマホの画面をキャンバスに見立てた作品や、Instagramを思わせる写真作品があったりして、薄い感想ですが素直に「うわー、すごい」と思いました。何が「うわー、すごい」なのかというと、日常的に接しているから忘れているけど、アートという形で改めて「今あなたが生きている環境ってこんなんですよ」といわれると、ヒエーってなるわけです。今ってSFっぽい。SFっぽいですよね。
あと面白かったのは「世界制作のプロトタイプ」展のキュレーターである上妻世海氏の「ポスト・インターネット」の考え方で、これってつまり「ポストPC」だよね、っていう話をしていたところです。一昔前はパソコンっていうのは家の机の上にあるもので、それを持ち運ぶことなんて基本的にはできなかったわけですが、今はみんなヒョイヒョイとインターネットの世界を鞄のなかに入れて持ち運んでいますよね。だけど、現在はまだスマホの画面を「のぞきこむ」という行為が必要なので、かろうじて「今、自分はネットワークに接続している」という意識があります。でも今後、AppleWatchみたいなものがもっと普及していくと、「今、自分はネットワークに接続している」という意識すら希薄になっていくかもしれません。インターネットの世界が、どんどん身体の内側に入り込んでくる。そのとき、どんな幸福が訪れるのか、あるいはどんな悲劇が訪れるのか、社会やアートがどう変化するのか、今から楽しみです。
私はChim↑Pomが(たぶん)いっていた、「アートは社会を変えることはできない。だけど、社会もアートを変えることはできない」っていう言葉が好きなんですけど、現代美術っていうのはこれからも社会のあらゆることを、まるでコバンザメのようにくっついて表象していくのでしょう。鏡のように、双子のように、それは互いに互いを映し出します。
「ポスト・インターネット」の逆
と、ここで話を終わりにしてもいいのですが、インターネットとリアルがあんまり区別されないシームレスな環境になりました、というと、なんだかすべてがオープンになったような印象を受けます。だけど今はその反動なのか、本当に大事な情報は表には出てこないということに、徐々にいろんな人が気付き始めているようです。
というわけで、どんな場所で手に入る情報がもっとも濃度が高いのか、本当に大事な情報はどこに眠っているのかということを、以下の表にまとめてみました。これはもちろん私の思い付きなので、足りない部分は大いにあるでしょうが、それはみなさんのなかで適宜追加してもらえればと思います。
濃度高 | 場所 | 例 |
---|---|---|
↑ | リアルでクローズドな場所 | 特定の人で集まるランチ、飲み会など |
↑ | リアルでオープンな場所 | トークイベント、ライブなど |
↑ | ネット上でクローズドな場所 | 個人間でやりとりするメールやDM、有料サロンなど |
↓ | オープンだけど、お金がかかる場所 | 本、ネット上の有料記事など |
↓ | ネット上でオープンな場所 | ブログ、無料で読めるニュースや記事 |
濃度低 | 場所 | 例 |
上に行けば行くほど濃度の高い情報が手に入る、と私は思うわけですが、でも上の情報だけすくっていれば良い、という話でもなくて、「濃度が低い」情報にもメリットはあります。アクセスのしやすさと手軽さはもちろんですが、「他の人の意見が聞ける」っていうのは大きいと思うんですよね。リアルな場所、クローズドな場所というのは良くも悪くも似た者同士が集まるので、あんまり考えもせずに雰囲気に呑まれて同調してしまうというか、とにかく自分と離れた人の意見が聞こえにくい環境になっています。だけど、アクセスしやすい場所というのはとにかくいろんな人がいる。いろんな人の話が聞ける、というのは自分の頭のなかを補正するのにすごく役立つと思うんですよね。
あと、上記のなかで特殊なのが「本」です。最近出た一般書とかビジネス書はこれにあてはまりませんが、「本」のすごいところはやっぱり何十年、ときには何百年もの時の洗礼を耐えて生き残ってきた情報が眠っているということです。『5年後、メディアは稼げるか―Monetize or Die ?』という本のなかでも、「最終的には古典を読むのがいちばん手っ取り早い」みたいな話が、確かされていた記憶があります。社会の環境は目まぐるしく変化しますが、人間の本当の本質はたぶん原始時代くらいからあんまり変わっていないし、これからもそうそう変わることはないでしょう。
現代アートとか批評の世界というのは基本的にあんまり性格が良くないので、現代をどうしてもディストピアとして捉えがちです。私も、AppleWatchとかを見てわくわくするよりは、「こんなのって悪夢だ……」とかいってるほうが楽しかったりするんですが、まあこういうのはある意味役割分担です。何かを歓迎する人も必要だし、何かに常に疑いの目を向ける人も必要です。
「ポスト・インターネット」の時代は、はたして幸福なのか、あるいはジョージ・オーウェルが描いたようなディストピアなのか、そのどちらでもないのか、どちらでもあるのか。まだまだ考えてみる余地はありそうです。