チェコ好きの日記

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世界観なんて何度でも変わればいい

「ちょっと海外に行っただけで簡単に変わるくらい薄っぺらいのか、お前の世界観は」という言葉に、長らく有効な返しを思い付かないでいた。ブログには、反論を試みたもののどうも微妙なカンジで終わってしまっている屍が、いくつか横たわっている。

屍No.1「旅で世界観が変わりました」は軽薄か? 東浩紀『弱いつながり 検索ワードを探す旅』
屍No.2旅好きか否かって、血液型の話みたいなものでしょう

今回は、これらの屍を乗り越えて、上記の突っ込みに対してもうちょっとマシな返しを思い付いたので書く。「この人この話何回やってんだ」と思ってもらってかまわない。私はしつこいのである。

1.

最近気が付いたのだけど、私は自分のなかに軸というものがほとんどない人間のようだ。上記のように、「あなたは不幸ね」といわれたら*1「確かに、あなたの定義に照らし合わせてみると私は不幸ということになりますね」と答える。「あなたは薄っぺらいね」といわれたら「確かに、あなたの定義に照らし合わせてみると私は薄っぺらいということになりますね」と答える。私には、それ以上のことはいえない。

注意したいのは、こういう話をもちかけられたとき*2、「しかし私自身の定義で照らし合わせてみたとき、私は不幸ではない」という反論をしないことだ。なぜならそこで反論してしまうと、「あなたの定義」と「私の定義」のどちらが正しいのかという、結局は優劣争いの話にしかならないからである。優劣争いの話をしてやってもいい、というかあえてすることもあるのだけど、そういうのは私の場合、だいたいその場の見せかけである。「私の定義によると、あなたは不幸だ」という言い方をされたとき、私はその場では、あくまで相手の定義を受け入れる。しかしもちろん、相手の定義がこちらに侵食してくることはない。そしてこちらの定義は、教えてやんない。なぜなら、「私にはあなたに見えていないものが見える」という話を、あくまで「私に見えているもの」についての話をしようとしている人にいっても、それは無駄だからだ。

2.

……という話を挟んで冒頭の話題なのだけど、私は何も、「薄っぺらい」といわれたことをずっとずっと根に持って怒っているわけではない。前述したように、私の性質に関しては「それはまあ、そうなんでしょうね」としかいいようがないからだ。では私がこの話題にしつこくこだわる理由は何かというと、怒りではなくて、「上手くいえない」ことへのフラストレーションである。ボクシングの試合にたとえるなら、試合に負けた(あるいは勝った)こと自体はもうとっくにどうでもよくなっているのだけど、ただあのときのあそこのパンチが上手く決まらなかった、ということにのみぐじぐじこだわっているのである。つまりこの文章は、だれかを殴るために書かれているのではなく、パンチを美しく決めるためだけに書かれたシャドウ・ボクシングである。相手はいない。

3.

さてようやく本題なのだけど、私はコロコロと容易に世界観が変わる人間だ。何しろ、自分のなかの軸というものをほとんど持たない人間なのだから当然である。どれくらい容易に変わるかというと、だいたい本を1冊読むとくるっと変わる。アマゾン川について書かれた本を1冊読んだら、もうアマゾン川についての知識を持たなかった自分にはもどれない。そして、アマゾン川についてほとんど何も知らない私が見る世界と、アマゾン川について多少でも知識を持っている私とが見る世界は、「ちがう」。それはもう、悲しいくらい明確に「ちがう」のだ。ただしもちろんこれは私の場合についてのみで、「アマゾン川について知らない世界」と、「アマゾン川について多少でも知識を持っている世界」とを、「同じ」と見る人がいることも知っている。そしてもちろん、どちらの見方が正しいかという話ではない。

私はだいたい月に10〜20冊くらい本を読んでいるので、毎月10冊〜20冊分くらい世界観がくるっくる変わっている。それをもう10年ほど繰り返しているから、私の世界観はまわりまわって360°を70周くらい回転しているのではないかと思う。そして今後も、回転は続く。ちなみに海外旅行では、だいたい1週間行くと本を30冊読んだことに相当するくらい世界観が変わる。30冊を多いと考えるか、少ないと考えるかは、あなた次第だ。

4.

もちろん、ここでいう「回転」というのはあくまでたとえ話ではあるのだけど、ロジェ・カイヨワが『遊びと人間』という本に書いていることは少し面白い。カイヨワは、人間が行なう〈遊び〉を4種類に分けているのだ。その4種類とは、「模擬」「眩暈」「競争」「偶然」である。

遊びと人間 (講談社学術文庫)

遊びと人間 (講談社学術文庫)

「模擬」は、小さい子がやっている「◯◯ごっこ」を想像してみるとわかりやすい。だけどすべてを子供の遊びに限定して考える必要はなくて、たとえば、大人になって思いっきり仕事を楽しんでいるような人たちは、おそらく「競争」と「偶然」の〈遊び〉をやっているのだろうな、と思う。ちなみに私がこの4つのなかでいちばん面白いと(個人的に)思う〈遊び〉は、「眩暈」だ。

原始的な感覚でいえば、それはジェットコースターに乗って遊園地内をものすごいスピードで回転することを、あるいはコーヒーカップでハンドルをくるくるまわして遊ぶようなことを指す。だけどもう少し抽象的に考えていいのなら、それは私が上で書いたような、「世界観がめまぐるしく回転し、眩暈がする」という感覚を〈遊び〉とすることもできる。私は、回転を楽しんでいる。眩暈を楽しんでいる。そこに何か意味を見出しているのではなく、回転自体を、眩暈自体を楽しんでいるのである。だから私は、旅と読書が好きだ。何回やっても飽きないので、もう一度、もう一度、とコーヒーカップをくるくるし続けている。それははたから見たらただのマヌケだが、実際もその通りのただのマヌケである。

あなたの好きなものは何だろうか。そして、それは上記4つのなかのどの〈遊び〉だろうか。これは単なる思考実験ではあるのだけど、考えてみると面白いかもしれない。

5.

というわけで、もし「何か1つ、変わらない強固な世界観があったほうがよい」と考えている人がいたら、その人のなかで私は死滅してしまうのだが、まあそれはそれでいいと思う。私には軸がない。1つ1つが吹き飛ぶくらいに薄っぺらい。だけど、だからこそ「眩暈」という〈遊び〉が楽しめるのだ*3

それで、「あったほうがよい」「あるべきだ」と考えている人はそれはそれで真実なのでいいのだけど、「あったほうがいいのかな……?」程度に考えている人がもしいたら、一緒にくるくるの〈遊び〉をしてみませんか、と提案してみる。もしくは、私が1人で勝手にくるくるするので、その様子を近くで眺めて笑ってくれていてもいい。余談だが、最近の私は後者のスタイルのほうが好きだ。

くるくるは、楽しい。

*1:幸い、そんなことをいってくる人はいないけど

*2:幸い、そんなことをもちかけてくる人もいないけど

*3:しかしこのたとえを使うと、「軸がないと回転できない」みたいな話も可能になり、そしてそれはまた真実であるような気もするので、なんつーか、なんつーかだな。それはまた、別の機会に気が向いたら書こう。