突然ですが、今、紙とペンを取り出すことはできますか。アナログな紙とペンでなくとも、ある程度自由に「図」が描けるものであったら、なんでもいいんですけど。
紙とペンの用意ができたらですね、それで地図を描いてください。あなたの自宅から、最寄り駅までの地図を、できるだけ詳しく。スマホでGoogleの地図とか見ないでくださいね。自分の脳みその中身だけをもとに地図を描いてください。ちょっと時間をとりましょう。
どうでしょう、描けましたか。
完成した方は、Googleマップ解禁です。自分が描いた地図と、実際の地図を見比べてみてください。どこがどうちがいますか。方角、縮尺、そもそもの認識の歪み、いろいろあると思いますが、実際の地図と同じように描けた方というのは、少数派なんじゃないかなと思います。
……っていう授業を大学のときに受けたんですけど、私はたしかそのとき、こんなかんじの地図を描いちゃったんですよね。
※「コソビニ」ではない
何がいいたいのかというと、ようは、地図が「線」になってるんです。自宅から駅まで、カクカクと直線がのびていて、その直線の周囲に公園とかスーパーとかコンビニとか、自分がよく利用するor目にするものが配置されている。
でも、他の子の描いた地図を見せてもらったら、私と同じように描いている人もいたにはいたのですが、全然ちがう地図を描いている子もいたわけです。たとえばこういう描き方。
……図が下手すぎて皆さんの集中力を削いでいることは承知しておりますが、話を続けますと、この人の場合、自宅から駅までの道のりが、「直線」ではないんです。たぶんこの人はなるべく実際の地図に近付けて描こうとしたのかなと思うのですが、自分が普段の通学ではあまり使わない「道」もきちんと描いている。あと、駅の裏側にある川も。
結論からいうと、私が、その授業を受けていたメンバーのなかでいちばん「直線的」で、単純な地図を描いていました。まあだから何か悪いっていうわけではないんですが、ちょっと恥ずかしい思いをしたものです。
さて、このことから何がいえるのかというと、もちろんこれは心理テストなどの類のものではありません。では何かというと、これは私の、あなたの、「世界」の認識の仕方だというんですね。「自宅から駅まで」という非常に限定的な「世界」ではありますが、あなたが描き出さなかったものは、あなたの頭のなかにはないことになる。描き忘れていた、描く必要がないと判断した、という場合もあるでしょうが、つまりここに描き出されなかった「それ」は、あなたの世界のなかであまり重要な位置を占めていない、ということに変わりはありません。実際、私の自宅から駅までは公園とスーパーとコンビニしかないわけではなく、途中にファミレスがあったりもう1軒コンビニがあったりしたのですが、私はあまり利用することがないそれらを、地図上に描きませんでした。
あとは、方角の歪み、道幅が実際の地図よりも広くなっているor狭くなっている、実際の道よりも長くなっているor短くなっているなど、注目すると面白いポイントはいろいろあるのですが、ようは、私たちは「世界」を正しく認識できているわけではない、というのが、この授業がいいたかったことのようです。実際には「ある」のに、気が付いていない故に「ない」とされているもの、実際よりも大きく認識しているもの、小さく認識しているもの、そういうもので私たちの頭のなかは構成されているわけです。
まあ、当たり前といえば当たり前の話なんですが、私はみんなよりもずいぶんと稚拙な地図を描いてしまったせいか、なんだかこの授業のことはよく覚えていて、思い出すと今でもはっとするような心地がするんですよね。
地図は描きかえられる
地図の描き方とその他の思考にどこまで関連があるかはわかりませんが、私は実は「散歩」がものすごく下手だったりします。散歩に上手いも下手もないだろうと思うかもしれませんが、だれかと一緒に道を歩いているとき、友人は発見・認識できたものに私はなかなか気付かなかったり、「今すれ違った人、美人だったね!」とかいわれても「?」と首を傾げてしまったり、なんかそういうことがしょっちゅうあります。私はおそらくとても直線的に、移動中はただ目的地を目指すことしか考えていないのでしょう。
だけど、まずはこうやって「自分はとても直線的にモノを見ている」ということに気付き、意識して他のモノにも目を向けようとすると、街の景色は実は簡単に変わります。具体的にいうと、いつもより歩くスピードをあえて落としてみたり、視線を極端に低くしてみたり、あるいは高くしてみたり。いや、実際の授業では、「犬になって四つんばいで街を這いずり回れ」っていわれたんですけどね、変質者だと思われても構わないからって。しかしそれはさすがにハードルが高いでしょう。私は(人のいない時間帯を狙って、ちょっとだけ)やりましたけど。でもこれね、やってみると本当に、「犬」とか「猫」じゃないとわからない道があるんですよ。「人間」には認識できない道が。
街にある看板、行き交う人々、注目する場所を変えれば、「世界」は変わります。私が「世界」に接する方法も変わるし、「世界」が私に接する方法も変わります。
これは当然ながら、「散歩」の話に限定されたものではなくて、実際の思考の上でも同じです。自分の視点というのは、多くの場合偏っていて、「世界」を正しく認識できているわけではありません。というか”正しく”認識するのはほぼ不可能なので、できることは視点を変えることです。犬になり、蟻になり、蝶になることです。
この授業で学んだ考え方は、私のなかでかなり重要なものになっています。もちろんいつも完璧にこなせているわけではありません。というか、多くの場合、上手くいきません。だけど私は、何かについて考えたり批評したりしようとするとき、このことをなんとなく意識するようにしています(たまに忘れるけど)。
「世界」はいつも豊かで、その語り口は無限です。
ただし、そのことに気が付くか気が付かないかは、私次第、あなた次第、というわけです。