チェコ好きの日記

だいたい木曜日の22時に更新されるブログ

多くあたえる人は、多く受けとれる

基本的に、「気前のいい人」でいたほうがいいんだろうな、と思っている。たぶん、これは私が勝手に思っているだけではなくて、日常で私のまわりにいる人や、私のブログを読んでくれている人の多くが、共感してくれることだろう。


f:id:aniram-czech:20171116122325j:plain


「気前のいい人」は、とにかく人を褒めるのが上手い。

実際に言うとなると恥ずかしくてちょっとためらうようなことでも、平気で「素敵ですね」と言う。上手い人からすると、「だって褒めるのはタダだからね」とでも思っているんだろうか。また、ちょっと気の利いたプレゼントをくれたりだとか、押し付けがましくない程度の絶妙な気遣いを見せてくれたりだとか、ギブ&ギブの精神でとにかく「あたえて」くれる。そしてそういうことを続けていると、たくさんの人に好かれるので、結果、自分がトクをする。意識的にやっている人と無意識的にやっている人と両方いるんだろうけど、私の推測では前者のほうが多いような気がする。意識的にやるのが悪いってわけではもちろんなくて、むしろそっちの人のほうが、「わかって」いるんだろうなあ、という気がして私は好きだ。


だけど今日の話は、「はい、だからみなさんもギブ&ギブの精神で、慈愛をこめて周囲の人にあたえまくりましょうね。周囲の人を幸せにすることが、自分を幸せにすることの第一歩ですからね」みたいな内容では全然ない。私がそんなことを書くわけがないだろう(いや別に書いてもいいけど)。以下は一つの問題提起というか、私が最近考え込んでいた内容である。

彼女はなぜ多額の借金を背負ったのか?


これはある知人男性の話なのだけど、彼は風俗で働いている女の子とけっこう仲が良くなったので、そこで働くようになった動機をたずねてみたらしい。もちろんこれはその女の子限定の話なので、風俗で働く女性の全員が同じ動機だというわけでは全然ないんだけど、彼女に関していえば理由は「借金」だった。友達に誘われて行った催事場みたいなところで、100万円以上する指輪をいくつか買ってしまい、その支払いが滞ってしまったらしい。


知人男性は、その女の子のことをしきりに「優しい子だから」と言っていた。いわく、人を褒めるのが上手くて、人にお金を使うことに躊躇がなく、押し付けがましくない程度の絶妙な気遣いができ、いつも笑顔が可愛い(それが仕事だからかもしれないが)。だからこそ、友達を裏切ることができなくて、結果的に利用されるような形になっちゃったんだよね、という話だった。


勘のいい方は、ここで話が冒頭にもどることにお気付きだろう。ようは、「ギブ&ギブの精神で結果的にトクする人」と、「ギブ&ギブの精神でやっぱり何かを失う人」と、その境目はどこにあるんだろう、ということだ。たぶん、風俗嬢の彼女が「優しい子」だというのは本当に本当なんだろう。ただ、その優しさを利用されてしまう人と、利用されない人とでは、何がちがうんだろうとつい考え込んでしまった。


おそらく、何かそれっぽいことを言うことはできる。「周囲に依存しているかしていないか」とか。でも、なんかそれって曖昧だよね。だからなんとなく、グレーなんだろうな、と思った。トクをしているように見えて実は影で損しているのかもしれないし、「借金が返せなくて風俗の道へ」というととても可哀想な話に聞こえるけど、実は彼女は自分に向いた究極のサービス業に従事することができて、満足しているかもしれない。「損して得とれ」とはよく言うが、はたしてその「損」とは具体的に何を指すんだろうか?

ペイ・バックは贈与の裏返し


同じ時期に、パプアニューギニアの風習「ペイ・バック」について考えていた。「ペイ・バック」とは、仕返し、復讐のことである。「目には目を、歯には歯を」を地で行く風習で、たとえば日本人がパプアニューギニアで人身事故を起こしたりなんかすると、加害者は法律で裁かれる前に、現地の民族からの報復を受ける可能性がある。


事故を起こしたりなんかのトラブルはもちろんだけど、恋愛上のトラブルとか、仕事上のトラブルでもこの「ペイ・バック」はあるらしくて、女性とひどい別れ方をした男性が彼女の家族に「ペイ・バック」によって殺され、遺体がミンチ状になって発見された……なんて事件も起きているらしい。旅行者はこの「ペイ・バック」に非常に注意しなければならないと、どこの観光ガイドにも書いてある。


面白い(って言っちゃダメなんだけど)のは、この「ペイ・バック」は、トラブルを起こした当の加害者だけでなく、危害がその周辺の人物にも及ぶ可能性があるということだ。パプアニューギニアの民族は「ワントーク」という概念を持っていて、同じ言語を話す者たちは同じ民族だと考えている。Aが加害者になったとき、報復を受けるのはAだけでなく、Aと同じ民族であるBにまで及ぶことがある。


初めてこの話を知ったとき、なんかこれ、どっかで聞いたことあるんだよなと思ってしまったのだけど、それは私が今年に入ってからよく考えていた「贈与経済」だった。

浮いた氷山の水面下には何がある?:『発酵文化人類学』を読む - チェコ好きの日記

「ぐるぐる」をもう少しわかりやすくいうと「コミュニケーション」だけど、しかしやっぱり私が思う意味により忠実なのは「ぐるぐる」のほうだ。そして、「生きる」ことが「ぐるぐる」であるが故に、「ぐるぐる」の流れはあまり止めないほうがいいらしい。すごい平易な言い方をすると、「昔は上司におごってもらったから、今度は自分が部下におごってあげよう」みたいなことになると思うんだけど、おごられっぱなしだと実は得するようでめちゃめちゃ損するようになっているっぽい。なんでかは知らないけど。あと、「上司におごってもらったので上司におごり返す」のではなく、「今度は部下におごる」というのがミソで、右から来た首飾りは右に返すのではなく左に流すのがキマリのようだ。なんでかは知らないけど。


「贈与」では、贈り物をする。ただ、必ずしも贈り物をしてくれた本人に贈り物を返さないといけないわけではなくて、同じ流れの中にいる別の人に贈り物をしたほうが、「ぐるぐる」できる。なんだかこの仕組み、やりとりされるものが好ましい「贈り物」から、好ましくない「仕返し」になっただけで、「ペイ・バック」とよく似ている、と思った。


多くあたえる人は、多く受けとれる。


それは嘘じゃないが、そこにあるのは「仕組み」だけで、やりとりされるものの正体はいつだってわからない。マルセル・モースの『贈与論』には、giftという語には「贈与」と「毒」という二つの意味があると書いてあって*1、私は「ああ、やっぱり」と、とても納得したのだった。


呪いは、反転すると祈りになる。損は、反転すると得になる。仕返しは、反転すると贈り物になる。


誰が得をしていて、誰が損しているのか。それはたぶん、死ぬまでわからないんだろう。いや、死んだあとだってわからないかもしれない。


贈与論 (ちくま学芸文庫)

贈与論 (ちくま学芸文庫)

*1:p222