チェコ好きの日記

もしかしたら木曜日の22時に更新されるかもしれないブログ

経験が邪魔をする

今週分は軽い日記。

2019.6.7 現代アメリカ政治とメディア

現代アメリカ政治とメディア

現代アメリカ政治とメディア

先月から読んでいる『現代アメリカ政治とメディア』をまだ読んでいる。なぜ2016年の大統領選挙でトランプが勝利したのか、断片的にはいろいろな記事を読んで知っていたことだけど、改めてデータとしてまとまっていると面白い。アメリカのメディアの状況が細かくわかり、日本と比べたりできるので興味深い1冊だと思う。


あちこちでちょこちょこ小出しに書いているが、私は一時期「夜のお仕事」をやっていた。そこで、普段ならまず会うことはない「ネトウヨ」のおじさんと出会ったことが、わりと良い(良い?)体験というか、印象的な出来事として記憶されている。彼はトランプの支持者でもあり、私に「メディアを信じるな」と言った。私はライター以外にメディアに関わる仕事をしているので、信頼に足るメディアとは何か、彼らがなぜ中立的な情報を「フェイク」と思うのか、どのような鬱憤が溜まっているのか、韓国を批判することで何を得ているのか、生身の「ネトウヨ」に会ったことでものすごく考えるようになった。このことは、いつかまとまった文章として書く機会を作りたい。そうしたら、夜のお仕事とメディアのお仕事とライター業がコラボレーションできる(!)。

2019.6.8 ゾディアック

デヴィッド・フィンチャーの『ゾディアック』を観る。『ゾディアック』は殺人シーンがなかなか残虐であり、手足を縛られた状態でナイフで滅多刺しにされるシーンで「あーあーあー痛い痛い痛い!!!」と思って3時間くらいトラウマになった。滅多刺しにされて泣き叫ぶ恋人を、同じく手足が縛られた状態で男は黙って見ているのである。


が、私のトラウマ映画といえば岩井俊二の『ヴァンパイア』だ。死体愛好家の殺人犯が殺した女とセックスするシーンがあるのだけど、これを上回る作品にはいまだに出会えていない。いや、出会わなくていいんだけど。


2019.6.9 経験が邪魔をする

今、また小説を書いている。秋の文フリで出す予定のものだ。文フリについては、今年2月のコミティア同様「創作メルティングポッド」で1冊本を作る予定なのだけど、近くなったらまたお知らせしようと思う。特に編集者が待っているわけでもない文章を書くのはすごく孤独な作業なので、小説を書き続けていられるのはこのサークルのメンバーのおかげだ。


ところで、コミティアの短編のテーマが「百合」だったので、私はノンケの女性同士でありながら惹かれあってしまう奇妙な女友達の関係を書いた。一方、今回は男女の恋愛を書きたいと思っていたのだけど、これがどうも筆が進まない。そこで、設定の一部を変更し、またも「女同士」を描くことにしたら、自分でも驚くくらい物語がすらすらと進んでしまった。


この現象がなんなのか上手く説明できない。たぶんだけど、男女の恋愛を書くときは、経験が逆に邪魔をしているというか、「こんなセリフ気持ち悪いんじゃないか」などという自己検閲が無意識に働いている気がする。あと単純に、女性は服装についてもメイクについても描写がしやすいのかもしれない。「この子はきっとイブ・サンローランのリップを使っている」「この子はきっとSUQQUのアイシャドウを使っている」とか、そういうディティールを決めると人物がくっきり浮かび上がってくるので、物語が動かしやすくなる。男性についても、これを決めるとキャラが立つ、みたいな何かが見つかるといいのかもしれない。女性はメイクを決めるとキャラが決まる。

2019.6.10 歯医者と整骨院

この日は休みだったので、歯医者と整骨院に行った。整骨院では体のどこが歪んでいるのかを詳しく教えてもらい、結果「筋トレをしろ」と言われた。筋トレと英語学習は私が何度もちゃんとやろうと思い何度も継続に失敗している二大巨頭である。「明日から頑張る」をまじで2年間くらいずっと思っている気がする。

2019.6.11 またも吉本ばなな

写真家さんにインタビューをする。この原稿は全体公開はされないので多くの人にはお見せできないが、インタビューは「口下手な私が根掘り葉掘り聞くことを許される時間」という感じでわりと好きだ。


インタビューの詳細はどうせお見せできないので書かないが、途中でまた吉本ばななの話をしてしまった(私が)。宗教なのか、スピリチュアルなのか、フロイトユング的な無意識の何かなのか、恋愛なのか、そういう微妙なバランスの上で成り立っていたところが吉本ばななの魅力だったのに、ある時期から吉本ばななは一気に"スピ"に移行してしまった。そして私はそのことにものすごい反発を覚えた。何が彼女をそうさせたのか、それによって彼女の文学から何が損なわれたのか、私はいろんな人と繰り返しこのことを話している。おしゃべりしていると燃えるテーマなのである。


そういえば、三宅香帆さんも寄稿している「ユリイカ」の吉本ばなな特集をまだ読んでいないことを思い出し、この日、ポチった。

2019.6.12 流言のメディア史

流言のメディア史 (岩波新書)

流言のメディア史 (岩波新書)

『流言のメディア史』を読み終わる。「フェイクニュース」はSNS時代の専売特許のようだが、昔からデマや誤報はあったよーというのが主な内容だ。関東大震災朝鮮人虐殺事件とかがそれである。だけど、「真実みたいな嘘」と「嘘みたいな真実」がますますわかりにくくなっているのが現代であるように思う。


小説を書いているときに「嘘だから真実が書けるんだよ」という言葉を思い出す。対して、エッセイやコラムを書いているときに思い出すのは「真実だから嘘が混ざるんだよ」という言葉だ。これはまあメディアの話のようでメディアの話ではないんだけど、嘘と真実は白黒はっきり分けられるものではない。善と悪も白黒はっきり分けられるものではない。「あちら」と「こちら」も、境界線は曖昧だ。生と死だって曖昧だ。私はどちらかに振り切りたくなるのをぐっとこらえて、この灰色の世界を生きていきたいと思う。

「SUUMOタウン」「スマQ」などに寄稿しています/"人間味がない"コンプレックス

4〜5月に書いていた記事が公開になりました。

SUUMOタウン

suumo.jp


気が付いたのだけど、私は自分が「非人」なのではないか……ということへのコンプレックスがものすごいあるみたいだ。お酒は飲まないし、食に興味がないし、SUUMOタウンに書いたように住んだ街に愛着を持つこともない。コンプレックスがひどいので、部屋がわりと片付いていることも、無駄な持ち物を持っていないことも、衝動買いをしないことも、そういった一般的には美点とされるはずのことでも、「人間味がないってことなんじゃないか?」と悩んでいたりする。だけど、「人間味がない」ことで悩む私はとても人間味があるじゃないか! ということで、最近は自分の中でお茶を濁している。


お酒を飲んでグデングデンに酔っ払った勢いで思い切ったことをしてみたり、美味しいものを食べにいろんなところに出かけたり、住んだ街に愛着を持っていろんなお店を紹介できたり、衝動買いでわけのわからない置物を買ってみたり、クローゼットがパンパンになるくらいに服を買ってしまったり。もしかしたら、そういう人間になってみたかったのかもしれない。でもしょうがないから、今世では、トマス・ピンチョンの小説を読んだり、いきなり南米に行ったり、申し訳程度に部屋に花を飾ったり、そういう人間として生きている。暗っ!!! まあいいか。


note.mu


ちなみに、「衝動買いができない仲間」として、友人ライターの小池みきさんがいる。2人でブエノスアイレスの蚤の市を練り歩いているとき、「心のときめきに従ってその場でモノを買うことがどうしてもできない」という悩みを告白しあった。そういう人は私だけじゃなかった……というわけで少し安堵。衝動買いができない同士で衝動買い以外の手段を封じられたブエノスアイレスの蚤の市を歩くという体験、なかなか思い出深いものになった気がする。


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スマQ

q.smartnews.com


もう1つ公開になったのがSmartNewsのオウンドメディア「スマQ」でのインタビューしたもの。オウンドメディアは厳しいと今けっこう逆風が吹いているけれど、「スマQ」には今後も関わっていく予定である。


SmartNewsの本棚はいつ見てもわくわくするし、世界の広さと深さを思う。本棚の前に立つと「私、生きてる!」と感じることができるので、人間味を読書に賭けていくしかない……!

「あの頃は本当に楽しかった」と語るパタゴニア原住民のこと(後編)

前編はこちら。アルゼンチン・チリのパタゴニア地方について書いている途中である。

aniram-czech.hatenablog.com

「一人ぼっちで闇の中に放り出されたとき、大切なのは焦らずに、まず心に大きな白地図を描くこと。そこに知識をひとつずつ当てはめていく。そして自分の思った方角の闇へ、一気に漕ぎ出す。ありったけのエネルギーをつぎ込んで。絶対にその先に自分の場所がある、と信じてイメージするんだ。もしそのイメージが崩れたら、きっと遭難してしまうだろう。信じること。そこにあることをただまっすぐ、信じるんだ」

プエルト・エデンの先住民であるカワスカル族は、海洋に生きる民だった。今は血を引いている人がどれくらいいるのかわからないけど、「海」を正確に読む力を、彼らは幼い頃から叩き込まれているという。知識なしでは航海できないが、知識だけでも航海できない。もしも真っ暗闇の海へ一人、放り出されてしまうようなことがあったら、そこからいかにして遭難せずに生還するか。カワスカル族の血を引くリンチェという男は、上のように語ったらしい。


勇気が出る言葉でもあるが、これは理にかなってもいる。人間の脳は、パニック状態になって混乱に陥ったとき、もっともエネルギーを消費してしまうのだそうだ。もしも海で遭難してしまったとき、生還に必要なのは行く先をひとつ決めて、後は余計なことは考えないことである。信じて、ただ真っ直ぐに進む。もちろん闇雲に勘を信じるのではなく、持っている知識と知恵を総動員して。それが生還への最短距離だ。


これが人生への何がしかの比喩に感じられるのは、きっと私だけではないと思う。


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話は変わって、プエルト・エデンよりももっと南、フエゴ島にかつて住んでいたセルクナム族について。彼らは「ハイン」と呼ばれる儀式を行なっていたそうなのだけど、そのハインの際に、珍妙なボディペイントを施していたことでよく知られている。赤と白の縞々だったり、ドットだったり。ウルトラマンに登場する怪獣のモデルに、なったとかなってないとかって話もある。


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ハインはセルクナム族の神話をなぞらえていて、例の珍妙なボディペイントはその神話に登場する精霊を模している。いろいろな登場人物(精霊)がいるのだけど、私にとって特に印象的だったのが、サルペンという女の精霊である。


彼女は大食漢で、またものすごい男好き。お腹が空きすぎたとき、あるいは男がセックスに応じなかったときは男の肉を貪り食ってしまうため、不気味な精霊としてとても怖れられていた。だけど彼女の子供である赤ん坊の精霊クネルテンはすごく可愛らしくて、みんなに愛されている。この矛盾が、なんというか、神話っぽいなーと思う。そしてサルペンは、地下世界の住人でもある。怪物のような怖ろしい女が地下世界にいる……ってのは日本の神話とも通じる部分があるけれど、こういうのってやっぱり人類の普遍的な感覚なのだろうか。


ハイン 地の果ての祭典: 南米フエゴ諸島先住民セルクナムの生と死

ハイン 地の果ての祭典: 南米フエゴ諸島先住民セルクナムの生と死


サルペンほど怖ろしくはないが、男好きの精霊は他にもいる。クランは一妻多夫制、たくさんの夫を持つ女の精霊だ。クランはそのへんの男をとっ捕まえて、天に連れていってセックスしてしまう。クランに捕まると為す術がないので、男も、またその妻もただ従うばかり。


……と、セルクナム族の祭典「ハイン」は、なんだか多分に性的なのである。私がヤラシイところを抽出して書いているわけではなく、祭典自体が生々しい。セックスする、食べる、食べられる、殴る、泣き叫ぶ、大笑いする。儀式とはいったけれど、市長さんのお話を聞いてウトウトしているような日本の成人式とはワケが違い、すべての動作がマジなのである。


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※ウシュアイアにある「世界の果て博物館」

「それにしてもなんでみんな私のことをいつも悲しそうだ、と言うのかしら? 私が昔を懐かしんでいろんなことを思い出しているからでしょうね。良いことも悪いことも。悪いことの方が多かったけどね」


両親がセルクナム族だった最後の人々の一人であったビルヒニア・コニンキは、最期の言葉の一部で上のようなことを語っていたという。彼女はパタゴニア本土やブエノスアイレスで女中として働き、最期は先祖の地でその生涯を終えた。


他にも、人類学者が実際のハインに参加したことがあるセルクナム族に取材をすると、「あの頃は本当に楽しかった」と彼らは儀式を懐かしんだらしいのだ。セックスする、食べる、食べられる、殴る、泣き叫ぶ、大笑いすることを、それらを本気でやることを、彼らは楽しんでいたのだ。


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だけど純血のセルクナム族はもうこの世にはおらず、このハインという儀式も今は行われていない。数点の写真と資料が残るのみで、この豊かな神話を持った民族は永久に失われてしまった。ウシュアイアまで行っても、もう彼らのことは博物館にある資料でしか知ることができない。


博物館で彼らの写真を眺めていて不思議だったのは、ユーラシア大陸からベーリング海峡をわたり南米大陸へと移住した彼らの祖先がモンゴロイドだったため、セルクナム族が私たちと同じアジア系の平べったい顔をしていることだ。アルゼンチンは、日本から見るとほぼ地球の裏側である。こんなに遠いところに、私と祖先を同じくする民族が住んでいたんだなあ……と考えると、自分がとても大きな歴史の渦の中にいる、という感覚に陥る。彼らの豊かな神話が失われてしまったように、いつか私自身も、私の記憶も思想も、私のことを知っている人たちも、永久にこの地上から去るときが来るのだろう。それはとても悲しいことだ。だけど同時に、私に深い安堵をもたらすものでもある。


旅行記としてブログに書くのはここでいったん区切りなのだけど、今後も思い出したらなんかいろいろ書くかもしれないです。


「わたしのネット」に寄稿しました/現代における皮肉と冷笑について

「わたしのネット」さんに寄稿した記事が公開されました。最近SNSでよく見る写真の傾向が変わってきたな……というようなことを書いていて、以前このブログで公開した「新海誠化していくこの世界 - チェコ好きの日記」の続編だと思ってもらえると幸いです。記事内でも書いているんだけど、こういうのって定点観測してると絶対に面白いよね。


flets.hikakunet.jp


ちなみに2月に寄稿した記事についてはこちら。この記事で書いた考えは今なお強まってきていて、昨今のネット炎上などを見るに、「共感・賛同はしなくてもいい。でも、冷笑したり揶揄したりしちゃ絶対にダメ」というのが今の私のスタンスです。私自身がすごく皮肉屋だし、人をおちょくるのが大好きというクソみたいな性格の持ち主なのだけど、昨今の状況を見る限り、そんなことも言ってられないなあと。


aniram-czech.hatenablog.com


私は大学院で「(チェコ映画の)ブラックユーモア」について研究していたので、皮肉・冷笑については一家言あります。学生時代に考えたことは、皮肉と冷笑の方向について。あれは、社会的にマイノリティである・被支配層である人々が、マジョリティや支配層に対して使うときに有効な手です。チェコでは、スターリンによる社会主義体制が敷かれていた頃、亡命せずに自国に留まった作家やアニメーターが皮肉や冷笑によって権力を批判していた。私はそういう、ブラックな笑いの持つ強さや負けん気に、すごく勇気付けられたんです。だからこの時代のチェコ映画のことが本当に大好き。「俺たちは支配されているが魂まで売ったわけじゃない」みたいな、そういうのを笑いで表現することは、知性がなければできないことだとも思う。


でも、たとえばシャルリー・エブドなんかのように、皮肉や冷笑といった手段をマイノリティや社会的弱者に対して使うとどうなるか? それはただのいじめというか嫌がらせなので、私の考える「ユーモア」は損なわれてしまいます。方向性を間違えると一気に「それ、面白くねえから」ってことになってしまう。


ところが今難しいのは、「誰もが自分をマイノリティ・社会的弱者だと思っている」という点でしょうか。私自身も、女性だわ社会的地位はないわで、自分のことをどちらかというと「弱者」だと思っている。でも、では過酷な労働を強いられている男性は、身体・精神障害者は、家事と仕事の両立で悩むワーキングマザーは、家庭でモラハラっぽいことをされている専業主婦は……と考えていくと、みんなそれぞれ苦しかったり悲しかったりで、他の人のことがずるく見えてしまうんだよね。強者と弱者が入り乱れているというか、SNSの影響力も相まって、「誰がマジョリティで、誰がマイノリティなのか?」というのを簡単には決められない時代になっていると感じます。私も、マイノリティであり、でもどこかでマジョリティであるという自覚を持たなければならない。私はブラックユーモアの持つある種の負けん気のようなパワーを信じているのだけど、こういう時代において、はたしてブラックユーモアの力を有効に使えるだろうか? というとなかなか難しい局面にあると思います。


そんなことを考えつつ、このあたりのことはまたもう少し考えを発展させてブログに書くかも。

あ、来週は
「あの頃は本当に楽しかった」と語るパタゴニア原住民のこと(前編) - チェコ好きの日記」の後編を書く予定です。


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「あの頃は本当に楽しかった」と語るパタゴニア原住民のこと(前編)

前回、ブエノスアイレスキリスト教テーマパーク「ティエラ・サンタ」について書いた。今回は南へ下り、アルゼンチン・チリのパタゴニアという地方について。なお南半球なので、当然ながら南下するほど気温は下がっていく。


私たちの祖先は、約10万年前にアフリカ大陸で誕生したホモ・サピエンスだということになっている。ホモ・サピエンスはアフリカ大陸からユーラシア大陸へと移り住み、そこからベーリング海峡をこえて、北アメリカ大陸に到達した。そしてそのあとも、アメリカ大陸をどんどん南下していった。つまり、南米大陸の最南部であるパタゴニアは、「人類が最後に到達した場所」なのだ……ということになっている。現在わかっている限りでは。



このパタゴニア、現在はアルゼンチンに属する地域とチリに属する地域があるのだけど、19世紀中頃までは、国境線がぐちゃぐちゃだったらしい。1856年頃から「ちゃんとしましょう」と話し始め、1881年に両国の合意がなされた。


そんなくらいなので、おそらく多くの旅行者はアルゼンチンとチリの間を、ジグザグと行ったり来たりしながら進むことになるだろう。その度にいちいちバスを降りて国境でスタンプを押してもらわないといけないので、これがけっこうめんどくさい。ちなみに長距離バスで移動している間、窓の外の景色は……なーんもない。まじで、なーんもなく、地平線のみがある……。


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エルカラファテとプエルト・ナタレス


まず、ブエノスアイレスから飛行機で2時間半ほど行った先にあるのがエルカラファテ。ペリト・モレノ氷河を見に行く際の拠点となる町なのだけど、野犬が多い。人間で怖い人はいなかったが、まじで、野犬が怖い。食べ物を持って歩くと匂いを嗅ぎつけてくるのか近寄ってきて吠えられます。


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パタゴニアにある氷河は、南極、そしてグリーンランドについで世界で3番目に大きいのだそうだ。船に乗って近くで見たり展望台にのぼって遠くから見たりできるのだけど、見えている部分はほんのわずかで、その約7倍が水中にあるという。話で聞いてもでかいが実際に見るととにかくでかい。あまりにもでかいので脳がバグるくらいでかい。つまりすごくでかい。しかも、温暖化の影響で毎年小さくなってるんですぅ〜とか言われるのかと思いきや、なんと、毎年でかくなり続けているという……。


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そして、エルカラファテからバスで7〜8時間行くと着くのがチリのプエルト・ナタレス。ここからパイネ国立公園に山を見に行くのだけど、この地域の原住民テウェルチェ族は、パイネの山々を「神の山」と崇めていたのだとか。私もまったく同じ「神様が棲んでそう」という感想を抱いたので、人類、そういう感覚は普遍的なんだなーと思ったりした。



そしてフエゴ島、ウシュアイア

そして世界最南端にある都市が、アルゼンチンのウシュアイアである。ここにはかつて「セルクナム」と呼ばれる人々が住んでいたが、その最後の生き残りの1人であったビルヒニア・コニンキ氏が、1999年にこの世を去っている。孤独とアルコール中毒に悩む日々の中で、死因は心臓発作だったそうだ。

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上の写真は前述したチリのプエルト・ナタレスの観光案内所? を撮ったものだけど、「セルクナム」と呼ばれる人々は、「ハイン」という儀式を行なう際に、写真のような珍妙なペインティングを体に施した。


ハイン 地の果ての祭典: 南米フエゴ諸島先住民セルクナムの生と死

ハイン 地の果ての祭典: 南米フエゴ諸島先住民セルクナムの生と死


「ハイン」はどのような儀式だったのか。珍妙なペインティングを体に施すのは主に男たちで、彼らはこれによって「精霊」に扮装する。そして、クロケテンと呼ばれる成人候補者たちが、この精霊たちに拷問を受ける。それが、男性が成人になるための通過儀礼だったらしい。


面白いのは、これが人間の体にボディペインティングを施したものであることは一目瞭然なのだけど、その儀式を見守る女性たちは、そのことについて「知らないふり」をし続けていたらしい。そして男性たちは、女性たちは本当に精霊の正体を知らないと思い込んでいた。


と、ここで時間切れになってしまったので、続きは来週にします。かつてない中途半端ブログだ!