チェコ好きの日記

もしかしたら木曜日の22時に更新されるかもしれないブログ

新海誠化していくこの世界

今年の一月、新海誠監督の『君の名は。』が地上波で放映されたことは記憶に新しい。


私は映画館で観た派だったのだけど、「文句つけてやらあ! 文句文句!」と喧嘩腰で臨んだところ、普通に感動しホロホロと泣いてしまった。「東京」をあんなにも美しく描いた映画は、他になかなかない気がする。今ハヤリ(ちょっと死語気味?)の言葉でいえば、きっと「エモい」のだろう。エモい東京、エモい日本、君の名は、新海誠



この手の話をするときはいつも「私一人にそう見えるだけなのか」「私がよく観測している界隈でそういう事例が多発しているだけなのか」「ある程度全体的な傾向といえるのか」の狭間で悩むのだけど……その区別をつけるために具体的なデータや数値を引っ張り出してくることは、また別の機会に譲るとして。なんだか最近、主にSNSで、「新海誠的な世界観」を打ち出している写真を多く見かけるな、と思うことがある。


もちろん、これは撮影者自身は「新海誠によせてる」という意識はたぶんまったくなくて、自然と似ちゃってるというか、私にとって似て見えちゃってるというか。「新海誠のパクリ」では全然なくて、あくまで「かなり近いところに世界観を置いている」というのが正しい。


君の名は。


ところで、「新海誠的な世界観」とはなんだろうか。


あえて言語化してみると、まず一つは「日常的な光景であること」。新海誠的な世界観では、特別な舞台は必要ない。駅、階段、道端に咲く花、歩道橋、傘、教室、オフィスビル街、部屋に差し込んでくる暖かな日射し。そういうもので構成されている。ニューヨークとか、大麻とか、ストリップとか、グラフィティアートとか、フリーメーソンとか、月刊ムーとか、そういうものはいらないのである(すいません、これらは私の好きな世界観でした)。


次に、「季節感があること」。桜は舞い散り、初夏に心が踊り、水滴には紫陽花の色彩が美しく映える。ラムネにかき氷、浴衣に花火、風鈴。散ったイチョウが足元を埋め、音もなく静かに雪が積もる。吐く息は白く、甘いココアが湯気を立てている。


最後に、「色彩豊かであること」。間違ってもモノクロームではなく、しかし蜷川実花のような極彩色というわけでもない。タクシーの窓を打つ雨の水滴が街のネオンで色を変える感じ、とでも表現しようか……でもそれはちょっと大人っぽすぎるな。ま、これを書いている今が梅雨だからこの表現がいちばんしっくり来るのだろうけど、やっぱ「紫陽花っぽい感じ」かな。カラフルなんではなくて、青や紫や青みがかったピンクが、少しずつ少しずつ色を変化させていく感じだ。
異論はあるかもしれないが、私が想定している「新海誠的な世界観」とは、こういう感じである。


「私一人にそう見えているだけ」だったら元も子もないのだけど、あくまで「SNS上で新海誠的な世界観とかなり近いところにある写真が増えている」という前提のもと話を進めていくと、なぜこういう現象が増えているのかというと、まずは「素人による写真技術の向上」があるのだろう。


今は、iPhoneと加工アプリさえあればかなり綺麗な写真が撮れる。スマートフォンは日常的に持ち歩いているものだから、わざわざ気合いを入れて大きなカメラを鞄に入れる必要はない。そのことが、「日常的な」「季節感のある」写真を撮影することのハードルをぐんと下げている。高級コンデジやミラーレス一眼で撮ってる人だって少なくないが、やっぱり全体的に、「素人でもかなり綺麗な写真を撮ることができるようになった」というのは言えると思う*1。日常的に持ち歩いているもので、日常的なものを撮る。それも、とても美しく。写真が特別なものだった時代は特別なものを撮影していたが、写真が日常になった時代では日常を撮影するのだ。


もう一つの理由として、今の30代以下の人たちには「外ではなく内を求めている」とか、「自分を外へ連れ出してくれるものより、日常的なものを見つめ直したい」とか、そういう心理的傾向がある気がするけど、これは実証できるものがないので単なる私の思いつきである。いやちがうな、「外ではなく内を求めているものがシェアされやすい」「自分を外へ連れ出してくれるものより、日常的なものを見つめ直すもののほうがシェアされやすい」がより正しい。外を求める気持ちも、自分を外へ連れ出してくれるものに惹かれる気持ちも依然としてあり失われてはいないが、それらは〈シェアされにくい〉。

まとめ

さて、私はこの傾向を批判するつもりは一切ない(仮に本当にあるのだとして)。私も「新海誠的な世界観」に涙した人間の一人だし、そういうものに惹かれる気持ちはものすごくわかるのだ。しいていうなら「ナショナリズムと結びつきそうで危なっかしい」ってのはあるけど、それは杞憂というかイチャモンのような気がする。『君の名は。』の主題歌を手がけているRADWIMPSの『HINOMARU』騒動を見てそう思っただけかもしれないし。少なくとも、ニューヨークとか、大麻とか、ストリップとか、グラフィティアートとか、フリーメーソンとか、月刊ムーに夢中になっている人が増えている世の中よりは、だいぶマシだろう。


ただ、「新海誠的な世界観」はどこへ向かってどこへたどり着くのだろう、というのは少し気になっている。どこへ向かっているわけでもなく、したがってどこへもたどり着かないのかもしれないが。


日常にあるふとした瞬間を見つめ直し、見つめ直し、見つめ直し、見つめ直し続けた先には、いったい何があるのだろうか。答えはまだ、出ていない。

*1:そんな時代においてもなお、私は写真がド下手くそなのですが!

『万引き家族』の謎と(私の)解釈

是枝裕和監督の『万引き家族』を観てきた。第一印象として適切かどうかはわからないが、「なんだか〈謎〉の多い作品だなあ」と、まずは思った。もちろんこの〈謎〉は、是枝監督が意図的に残したものだろうと思う。


しかし、これを書く前にすでにいろいろな人の感想や評を読んだのだけど、私が抱いた〈謎〉に言及しているものがなかった……。ので、もしかしたら私が変な部分に固執しているだけかもしれない。


(※以下は『万引き家族』のネタバレを含む感想なので「もう観た!」という人や「ネタバレ気にしない!」という人以外は注意して読んでほしい)



【公式】『万引き家族』大ヒット上映中!/本予告

祥太の行動の謎

「謎だ!」と思った点はいくつかあるのだけど、今回の感想ではそのうちの一つを取り上げてみたいと思う。


樹木希林リリー・フランキー安藤サクラ松岡茉優、城桧吏と佐々木みゆが演じる6人は、「家族」として、狭い長屋に一緒に住んでいる。冒頭のスーパーでの万引きシーン、カップラーメンを6人ですすっているところ、長屋が細々としたモノであふれているところなどから、彼らがかなり貧しい状況にある家族だということはわかる。しかし物語が進むにつれ、彼らは貧しいだけではなく、そもそも血の繋がりがない家族であるということが明らかになってくる。


ラストに近いシーンで、そんな「家族」の一人である祥太(城桧吏)が、スーパーで、あえて見つかるような派手な万引きをする。その結果、家で亡くなった樹木希林を年金をもらい続けるために無断で庭に埋めていたり、もともとの両親に虐待されていたじゅり(佐々木みゆ)を誘拐していたことなどが明るみに出てしまい、安藤サクラが演じる信代は逮捕され、他の家族もバラバラになってしまう。万引きや誘拐や死体遺棄などの犯罪によって繋がっていた家族は公的な場に引きずり出され、次々に警察や世間の「正論」をぶつけられる。


私が「?」と思ったのは、祥太はなぜ、「あえて見つかるような」派手な万引きをしたのかなー、ということだ。もちろんこれについては、何か一つの正解があるわけではないと思うので、以下はあくまで私の解釈だけど……。


まず、物語内の解釈。祥太という一人の男の子が、なぜ「あえて見つかるような」万引きをしたのかについて。これは普通に考えれば想像に難くないと思うのだけど、彼は幼心に「これ以上進むとヤバイな」ということを感じ取っていたのだろう。


じゅりが行方不明になったことはすでに報道されているし、樹木希林が演じるおばあちゃんを庭に埋めるのも怪しい。そして何より、今まで「お店で売っているものはまだ誰のものでもないから」という謎理論のもと万引きを繰り返していたリリー・フランキーが、ついに車上荒らしに手を出すようになってしまった。謎理論は確かに謎理論ではあるが、「万引きはOK、人のものを盗むのはダメ」というのは一応、筋は通っている。その筋を通さなくなった血の繋がらない父に対し、祥太はたぶん「これ以上進むとヤバイな」と判断したのだろうと思う。


次に、物語外のメタレベルの解釈。映画として、ラストは「犯罪によって繋がる(世間的には)間違った家族」と「正論を振りかざす世間」が対立しなければならないので、家族の犯罪が明るみに出て安藤サクラ演じる信代がその罪を被る展開になるのはわかる。だけど、なぜそれが「祥太の手によって」行われなければならなかったのかなー、というのが私としてはちょっと謎だった。


信代の職場の人がじゅりのことを周囲に言いふらすとかして、外部の人間によって家族が解体される展開もありえたはず。それなのに、なぜ家族の解体は、「祥太」によって、内部の人間によって行われなければならなかったのか。これについては私もまだ考え中なので、ぜひいろいろな人のアイディアを聞きたいのだけど……。


ちなみに私としては、是枝監督に文句をいうわけじゃないが、内部による解体より外部による解体のほうが物語としてスッキリいきません!? とかもちょっと思う。内部による解体だと、「彼らは持続可能性のない間違った家族であった」という面を強調してしまう気がするんだよね。でも外部による解体だと、「彼らは持続可能性のない間違った家族ではあったが、しかし彼らは彼らなりに幸せだった」って話にできると思うんだよな〜〜。ブツブツ。私が細かいところにこだわりすぎなのか!?

まとめ 内部解体vs外部解体

ということで、上の文章まで書いて15分ほど時間を置きシンキングタイムを挟んだのですが、結論、「わからねえ」。オチがなくてすみません。え、これ外部解体のほうがよくない? 内部解体の展開にしたの間違ってない? というのが私の解釈ですかね(解釈してねえ)。


ああ、でもそうか。一つ答えとしては、これはあくまで「家族」の物語なのだ。たとえ血は繋がっていなくても、世間的に間違っていたとしても。


「家族」はいつかバラバラになる。それは、『万引き家族』のような血の繋がらない家族も、戸籍によって守られている一般的な家族でも同じだ。そして、家族の解体はいつも子供たちによって行われる。一般的な家族であれば多くの場合、それは子供たちが結婚や独立によって、家を出ていくことによって起こる。子供はいつか必ず、親を乗り越えていくものなのだ。


万引き家族』では、その解体は祥太によって行われる。祥太は父の行動に疑問を持ち、家族の犯罪を明るみに出す。しかしその解体行為によって、祥太は父を乗り越えたのだ。ちょっと皮肉めいているが、この祥太による解体行為こそが、この家族を本当の意味で家族たらしめたということなのかもしれない。


万引き家族』は家族の物語だが、その中でも特別に、「父と息子の物語」でもあるのだろう。そうすると、リリー・フランキーが祥太の性の目覚めに言及するシーンも、ラストシーンも、納得がいく。祥太は、大人になって、一人の男として、父を越えていく。


アレ、じゃあやっぱり内部解体でいいのかな!? いい気がしてきた。みなさん、どう思います??

万引き家族【映画小説化作品】

万引き家族【映画小説化作品】

思い出を愛しているの?

1. 「誰」を愛しているの?

数年前、恋人と一緒に見たとあるテレビ番組のことを、よく覚えている。


番組の特集は「認知症」で、画面に映っていた高齢のご夫婦は、旦那さんのほうがほぼ寝たきりで、おまけに認知症を患っていた。奥さんは、その介護をしているとのことだった。老老介護というやつである。


旦那さんは、どうやら奥さんのことを忘れてしまっているらしい。いつも世話をしてくれている女性は、自分の妻ではなく、お手伝いさんだと思っているとのこと。「この人は何にも覚えてない」と奥さんは笑っていたが、何十年も一緒に暮らした記憶がなかったことになっているのだから、つらくないはずはなく、その笑みの奥には何かしらを押し殺した感情があるように見えた。


ある日、奥さんが旦那さんのベッドの脇で泣いている映像が映し出される。何があったのかと話を聞くと、「プロポーズされた」とのこと。旦那さんの中で、「奥さん」という存在は曖昧になっている。だから、旦那さんの中では、もちろん自分の妻ではなく、「いつも優しくしてくれるお手伝いさん」に、結婚を申し込んだのだ。自分の大切な夫が自分を忘れてしまっていること、でも妻ではない「お手伝いさん」としての自分を、もう一度好きになってくれたこと。それは悲しいことなのか、嬉しいことなのか、つらいことなのか、幸せなことなのか。


……私がテレビを見てガチ泣きしていたら「辛気くせえ〜〜! 俺はこういう湿っぽいのは嫌いなんだよ〜〜〜!」と言われ恋人に途中でチャンネルを変えられてしまったが(ひどい)、この手の〈記憶〉にまつわる話って私はけっこう好きで、何年か経ったあとでもこうして覚えているわけである。


この場合、旦那さんが好きになったのは、「妻」なのか「お手伝いさん」なのか、あるいはそのどちらでもないのか。私はそもそも認知症のことをよく知らないし、脳のこともよくわからない。ただ、人が誰かを愛するとき、本当は何のことを、いつのことを、愛していると言っているのかな。そういうことを、私はよく考え込んでしまう。

2.「思い出」を愛しているの?

さて、なぜ今さらそんな数年前のテレビの話をしたのかというと、最近スタニスワフ・レムの『ソラリス』を読んだからである。



主人公は、クリス・ケルヴィンという心理学者。このクリスが、惑星ソラリスの観測ステーションに到着するところから物語は始まる。ところがこの観測ステーション、どうも様子がおかしい。クリスの前に、ステーションにはすでにスナウト、サルトリウス、ギバリャンの三人が到着しているはずだったのだが、ギバリャンはステーション内で自殺してしまったと、スナウトから告げられる。


惑星ソラリスに広がる「海」は、訪れる人間の抑圧された願望を、実体化して作り出す。


ある日を境に、クリスはハリーという女性をステーションの中で見かけるようになる。ハリーはクリスの恋人だったのだが、何年か前、大喧嘩をしてクリスが家を出ていったあと、家にあった薬物を自身に注射して自殺してしまった。もちろん、ステーションにいるのは恋人だった本物のハリーではなく、「海」が作り出したハリボテだ。同様に、スナウトはスナウトの望むものを、サルトリウスはサルトリウスの望むものを、実体化させてしまっている。「海」は抑圧されたトラウマや願望を実体化し、ステーションには、本来いるはずのない者たちがさまよっている。


本来いるはずのない者──「幽体F」は、ステーションにいる人間の抑圧された願望を実体化したもの。クリスは学者としてそれを理解しながらも、いつしかハリボテのハリーを愛するようになってしまう。そして、高度な知能を持つハリボテのハリーは、クリスが愛しているのは自分ではなく、自分にとてもよく似た、彼の自殺した恋人なのだと徐々に知るようになる。

「ねえ……」と、彼女は言った。「もう一つ聞きたいことがあるの。わたし……そのひとに……とてもよく似ているの?」
「前は似ていた」と、私が言った。「でもいまはもう、わからない」
「どういうこと……?」
彼女は床から立ち上がり、大きな目で私を見つめた。
「きみにさえぎられて、もう彼女の姿が見えなくなってしまった」
「それで、あなたは自信を持って言えるの、そのひとじゃなくて、わたしを、わたしだけを……?」
「そう、きみだけだよ。いや、よくわからない。でも、もしきみが実際に彼女だったら、きみを愛することはできないんじゃないかと思う」
「どうして?」
「ひどいことをしてしまったから」


ハリボテのハリーは、自殺してしまったかつての恋人ではなく、今ここにいる自分自身を愛してほしいと望む。そしてクリスも、自分が愛しているのは自殺した本物のハリーではなく、今ここにいる「幽体F」であると思うようになる。「海」が作り出したハリーは、あくまでクリスの抑圧された願望を実体化させたものだから、生前のハリーとまったく同じというわけにはいかない。クリスは自殺した恋人のハリーと、今目の前にいる「幽体F」を、だんだん分けて考えるようになる。


しかし、幽体Fとしてのハリー……〈新しい恋人〉と新しい生活を始めようとするクリスを、同僚のスナウトは止める。ステーションを出てしまえば、「海」が実体化させた存在に過ぎない幽体Fは、消滅してしまうからだ。

「ぼくは……彼女を愛しているんだ」
「誰を? 自分の思い出をじゃないのか」


このあと物語がどうなるかは書かないでおくが、『ソラリス』はそんなわけで、めちゃくちゃ多様な解釈が可能な小説である。まず、「海」とは何なのか? というSFであり、同時にクリスとハリーの恋愛物語でもある。ただもちろん、一筋縄ではいかない恋愛だ。クリスが愛しているのは、「誰」なのか。


思考実験としては面白いけど、所詮はSFでしょ──と思った人は、冒頭でした、認知症の夫を老老介護している奥さんの話を思い出してほしい。私は「誰」を愛しているのか? 私のことを愛していると言っているこの人は、私に何を見ているのか? これは、幻想を押し付けてる! とか、この人は私を愛していない! とか、そんな表面的な話ではなくて、人の記憶とは何なのか、人の存在とは何なのかという、かなり多義的な問いだ。

3.「いつ」を生きている?


最後にもう一つ、認知症の話をしよう。今年の2月に読んだ記事でとても印象に残っているものがあるんだけど、これ、私の2018年ベストウェブ記事の可能性があるな……!


toyokeizai.net


詳しくはリンク先から読んでもらうとして、要約すると、認知症になった自分の母が、毎日16時に徘徊をするので困りはてていたと息子さんが介護の体験談を語っている。ただ伯父に話を聞くと、なぜ母が毎日16時に徘徊に出るのか、その理由がわかる。母は、幼い自分が幼稚園のバスに乗って帰ってくるのを、毎日16時に迎えに行っていたのである。


これもまた、私は認知症のことも脳のことも詳しくないので何とも言えない部分があるのだけど、認知症になった人が固執する過去にはどんな意味があるのだろう。自分の人生において、いちばん幸せだった時期を再現しているのか。あるいは、やり残したこと、心残りなことがあった時期に戻ろうとするのか。人間の中で、〈記憶〉ってどうなっているんだろう。


しかし現実的な話をすると、記事にあるように「介護のために親の人生を理解する必要がある」とはいえ、自分の親の元カレ・元カノの話なんか聞きたくねえなと私は思ってしまうんだけど……親側としても、自分の元カレ・元カノの話なんか子供にしたくねえよと思うのではないだろうか。まあしかし、それはそれ、これはこれだ。


私たちは、「今」を生きている。自信満々な人ほど、そう言う。


いやいや私だってね、過去の話しか出てこない同窓会なんかに興味はないし、今のところ人生で後悔していることって、「大学のときもうちょい頑張って英語勉強すればよかったな〜」とかそのくらいだ。私は、「今」を生きている。自信満々だ。


でも「今」というのはたくさんの「過去」から成り立っているわけで、過去のたくさんの出来事や経験なしに今は語れない。過去から完全に独立した今なんてない。過去から独立した今なんて、それこそ、「海」が作り出すハリボテになってしまう。


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なるべく避けたい事態ではあるけれど、いつか自分が、自分の大切な人が、認知症か何かで、「今」のことを忘れてしまったら。


私は、あなたは、いつのことを思い出すんだろう。いつのことを忘れ、いつに戻りたいと願うのだろう。こればっかりは、蓋を開けてみないとわからないよね。私は「今」を生きているつもりバリバリなんだけど、これは、ちょっとわからないわ。


いつか思い出すときの「もっとも幸せな時期」が、「今」だったらいいな……なんて私はよく思うのだけど、その「今」はこの一瞬にだって刻々と移り変わっていってしまうんだから、やっぱりどうしたって矛盾しているよね。


(※小説版『ソラリス』はボリュームがあってなかなか骨が折れるので、もっとお手軽にストーリーのポイントをつかみた〜い! という人はこちらをドウゾ)
惑星ソラリス [DVD]

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タルコフスキーによる映画版『惑星ソラリス』。この映画もめちゃくちゃ好きなんだけど、タルコフスキーは恋愛の話をクローズアップしすぎたので、原作者のレム、ブチ切れ。レム的には『ソラリス』は多様な解釈を孕んだ、あくまでSF小説なんだな)


aniram-czech.hatenablog.com
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SNSが過剰に発達したディストピアを描いた『ザ・サークル』はあんまり面白くなかったけど面白くなさ故に考えたことがある

「コイツ、趣味悪いな!」と思われたら悲しいのだが、ディストピアもの」が好きである。「ディストピアもの」なんてジャンルは正式にはないので私が勝手にそう呼んでいるだけだけど、未来/近未来/平行世界などに存在する魔境を舞台に描かれた物語には、昔からどうしても惹かれるものがあった。それらはSFの形態をとっていることが少なくないが、私はSF好きというよりはディストピアが好きなのだった(ことに最近気が付いた)。


ディストピアものが好きな理由は、何も現代社会に恨みを抱いているからってわけじゃない。いや嘘、ちょっと抱いてるな。まあ恨みは恨みとしてあるのだが、どちらかというと思考実験の機会を提供してくれるところが好きな気がする。ディストピアものは現代社会のある要素をあえて露悪的・風刺的に描いていたりするわけだけど、そこまでやってくれるからこそ自分が何のどこを恨んでいるのか考えやすく、言語化しやすくしてみせてくれる。そんな感じで私はディストピアものが好きなのです。


GW中にAmazonプライムビデオで観たのがエマ・ワトソンが出てる『ザ・サークル』。以下は物語の核心部分を含むネタバレをやっているので、ネタバレが嫌な方は映画を観たあとにまた読みにきてください。



映画「ザ・サークル」日本版予告

思っていたのとなんか違った

ザ・サークル』はエマ・ワトソンがアメリカの巨大インターネットに企業に入社して、「シーチェンジ」という超小型カメラの被験者となって自分の24時間をフォロワーにシェアするSNSを使うようになる……という話。TwitterInstagramを風刺的に描いた物語やアートはもともと好きなのだけど、なんでそういうのが好きかっていうと、人間の肥大化していく承認要求について考えさせられるから。『ザ・サークル』も承認要求の話をやってくれるのかと思ったら、これはどちらかというと「民主主義とは何か?」みたいな話だった。


SNSで何を発信し何を発信しないべきかは個々人の考えがあるだろうけど、一つ重要なのは「任意性」だ。自分の24時間をシェアするなんて絶対に病むからやめたほうがいいと思うけど、本人が「やりたい! そんでフォロワーにちやほやされたい!」というんであれば、周りの人間があーだこーだいう権利はない。本人が「任意に」SNSを使う上で出さなくていいところまで出すようになったり、いわなくていいことまでいうようになったりしたらそれは承認要求の話になるけど、エマ・ワトソンが映画で使うSNSはこの「任意性」がないものだった。つまり、強制的に24時間をシェアしなければならないものだった。これは「え、それはダメに決まってるじゃん」としか私は思えず、あまり考えるのが楽しくない話になってしまった……。

社会は必ず一定のリスクと矛盾を孕んでいる

エマ・ワトソンが入った会社が運営しているSNSは「すべてをシェアする」ことを目的としている。いつどこで何をしていたか、誰と誰が友人なのか、趣味は、過去にハマっていたことは、両親の病気は、などなどすべて。それらは本人の任意性に基づくものではなく、加入者は強制的にすべてをシェアしなければならないみたいな作りになっている。そして、最終的にこのSNSへの加入をアメリカ国民すべてに義務付けて選挙のときに利用しようという話まで出てくるのだけど、すべての人が登録され行動が逐一記録されているので、指名手配犯とかを一発で捕まえることもできるのだ。


途中、エマ・ワトソンが「秘密とは嘘です」「秘密があると犯罪が起きる可能性があります」というセリフをいう場面があるのだけど、確かにこのSNSを使えば、殺人もレイプも強盗もなくすことができる。すべての人の24時間を誰かしらが監視しているので、犯罪の防止になる。ただ「すべての人が強制的に24時間をシェアしなければならない」なんてのは人権侵害になることが明らかだ(「これ、ありうるかも?」と思わせてくれるからディストピアものは面白いのであって、「それは絶対にない」と思ってしまうとつまらなくなっちゃうんだよな!)


人道上の理由で「すべての人が強制的に24時間をシェアしなければならない」SNSなんて絶対に作れないので、そうである以上、殺人もレイプも強盗も根絶したいのはやまやまだが、社会は常に一定のリスクや矛盾を孕まざるを得ないのだろうな……なんてことを考えた。リスクのない社会は、たぶん作れない。

まとめ

というわけで、『ザ・サークル』は期待していた承認要求の話とはちょっと違ったので私はそこまで面白いと思わなかった。ただいろいろ考えさせられることはあって、たとえば日本はまだお会計のときに現金で支払うことが多い(私も情弱なのでまだ基本的に現金派である)。けどそれがLINEPayとか電子マネーで支払うのが一般的になったら、自分の買い物がAmazonみたいにすべて履歴に残ることになるので、それって『ザ・サークル』の世界につながっている。すでに諸外国では現金で支払う機会が少なくなっているみたいなので、日本がそうなるのも時間の問題ではありそう。買い物以外にも、近い将来いろいろ履歴が残るようにはなりそう。


「任意性じゃないからこのSNSはありえない。つまらん!」と思ってしまったのだけど、よく考えたら案外ありえない世界の話ではないのかな?


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(※ローマ近郊にあるムッソリーニが構想した近代都市E.U.R。シュールで不気味な「お散歩できるディストピア。おすすめの観光スポットです。イタリアもまだ現金払いのことのほうが多かったな)

30歳女が観る"デキちゃった"映画『イレイザーヘッド』

このブログを書いている人は現在30歳の女性であるが、しかし実際の中身はオッサン……ではなく、ガリガリに痩せている病的にナイーブな16歳の少年である。そう、ちょうどガス・ヴァン・サントの映画に出てくるみたいなね。毎日ストリートでスケボーしてるし。もしくはやっぱり、『ライ麦畑』のホールデン・コールフィールドくんやね。



……と、いうのはもちろん冗談だけど、先日アップリンクデヴィッド・リンチの『イレイザーヘッド』を久しぶりに鑑賞してきた。前に観たのは学生のときだったから、およそ10年ぶりの再会ということになる。学生のときからずっとそうだけど、私はリンチの映画はたぶんこの『イレイザーヘッド』がいちばん好きだと思う。


イレイザーヘッド デジタル・リマスター版 [DVD]

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物語のあらすじは簡単だ。イレイザーヘッド、つまり主人公の「消しゴム頭」ヘンリーはしがない町の印刷工。しかしまだまだ若いヘンリーくん、なんと恋人を妊娠させてしまう。彼女に泣かれ、彼女の両親には「結婚して責任をとれ」と迫られ、「俺の人生、終わった……」という心の声と同時に、彼は悪夢を見るようになる。


家族が集まる食卓にはピクピク動いて血を流す丸焼きチキン、生まれてきたのは奇形の赤ん坊、ラジエーターの中の女性シンガー、隣人の女性の誘惑、皮膚病の謎の男。

天国ではすべてが上手く行く。天国では何でも手に入る。あなたのよろこびも私のよろこびも、天国では何もかもいい気持ち


──ラジエーターの中の女性シンガーはそう歌うけど、つまり、この世では何もかも上手く行かないし、何も手に入らないし、あなたのよろこびも私のよろこびも、この世においては何もかもが不快で気に入らねえってことだ。


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10年ぶりに改めて観ても、私はこの映画の世界観がやっぱりめちゃくちゃ好きだった。


でも、これを素直に「好き」と言えるのは私の中の16歳のスケボー少年のほうで、もう1人の30歳女性のほうは、久々に観てちょっと首を傾げてしまっているところもある。実際、これを観て怒る女性は少なくないと思う(というか、奇形の赤ん坊が出てくる映画なので、妊婦さんや幼い子供がいる人は観てはいけない)。ヘンリーくん、君はのんきに悪夢を見ていられるかもしれないけど、女の人はこういう状況に陥ったら悪夢を見る暇すらなく、本当に本当に大変なんだよ!


まあ、突然ガールフレンドを妊娠させてしまって「やっべ」と思う気持ちは1人の人間として理解できなくはないのだけど、ちょっと自分勝手だし、「ごちゃごちゃ言い訳してねえでテメエがやったことの始末はテメエでつけな!」と言いたくもなってくる。この消しゴム頭め。とにかく、「俺の人生、終わった……」が主題の映画なので、女の人は置いてきぼり、ポリティカル・コレクトネスという言葉の前ではおそらく即死の作品である(いろんな意味で)。


それを反映してか、この映画のレビューを書いているのは圧倒的に男性が多い(たぶん)。しかしだからこそ、女性の私も何か書かないとバランスが悪いような気がして、ある種の使命感から今これを書いているんだけど。

天国ではすべてが上手く行く。天国では何でも手に入る。あなたのよろこびも私のよろこびも、天国では何もかもいい気持ち

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前述したように、『イレイザーヘッド』はひじょ〜に未熟で自分勝手なクズ・消しゴム頭のヘンリーくんが主人公だし、どうしても”デキちゃった”という部分に目が行きがちな作品である。ただ私はやっぱり、16歳の少年としてはもちろんだけど、30歳の女性としても、改めて観たこの映画がちゃんと好きだということを強調しておきたい。


映画の中では「赤ん坊」という形態をとっているけれど、このグロテスクな生き物が象徴しているのは、もっと普遍的な「他者」だと私は思う。


永遠に続くかと思っていた愛すべき俺の日常。でも、その日常には様々な形でいつか必ず「他者」が侵入してくる。ヘンリーくんの場合はそれがガールフレンドの妊娠や生まれてきた赤ん坊だったわけだけど、受験だって就職だってはじめてのセックスだって、グロテスクなのは皆同じだ。他者はいつだって暴力的で、俺をめちゃめちゃにしてしまう。「いい気持ち」になんてなった試しがない。そうだっただろ?


まあだから言いたいことは、あまりこの作品を「アレは精子のメタファーだから……」みたく「男の映画ですから!」みたいな文脈で語らないでほしいし、女の人にもこの作品を怒らずに観てほしいってことなんだけど、それはただの私個人の願望だ。これを普遍的な解釈にしようなんて思ってない。


でもほんと、私はこの作品好きだな〜〜〜。今のところ具体的な予定はないけど、きっと妊娠してもお母さんになっても、私の中にはずっと病的にナイーブでこの世の何もかもが気に入らねえ16歳の少年が住み続けるし、『イレイザーヘッド』は死ぬまで好きだと思う。


だれか、この「サリンジャー病」を治す方法を知っている人がいたら教えてほしい。まあ、教えてもらったところで治さないけどね。自らの意志で。


あとアップリンクで売ってたこの本が読みたい! デヴィッド・リンチキース・ヘリングに影響をあたえた本だそうです。


アート・スピリット

アート・スピリット