チェコ好きの日記

もしかしたら木曜日の22時に更新されるかもしれないブログ

新海誠化していくこの世界

今年の一月、新海誠監督の『君の名は。』が地上波で放映されたことは記憶に新しい。


私は映画館で観た派だったのだけど、「文句つけてやらあ! 文句文句!」と喧嘩腰で臨んだところ、普通に感動しホロホロと泣いてしまった。「東京」をあんなにも美しく描いた映画は、他になかなかない気がする。今ハヤリ(ちょっと死語気味?)の言葉でいえば、きっと「エモい」のだろう。エモい東京、エモい日本、君の名は、新海誠



この手の話をするときはいつも「私一人にそう見えるだけなのか」「私がよく観測している界隈でそういう事例が多発しているだけなのか」「ある程度全体的な傾向といえるのか」の狭間で悩むのだけど……その区別をつけるために具体的なデータや数値を引っ張り出してくることは、また別の機会に譲るとして。なんだか最近、主にSNSで、「新海誠的な世界観」を打ち出している写真を多く見かけるな、と思うことがある。


もちろん、これは撮影者自身は「新海誠によせてる」という意識はたぶんまったくなくて、自然と似ちゃってるというか、私にとって似て見えちゃってるというか。「新海誠のパクリ」では全然なくて、あくまで「かなり近いところに世界観を置いている」というのが正しい。


君の名は。


ところで、「新海誠的な世界観」とはなんだろうか。


あえて言語化してみると、まず一つは「日常的な光景であること」。新海誠的な世界観では、特別な舞台は必要ない。駅、階段、道端に咲く花、歩道橋、傘、教室、オフィスビル街、部屋に差し込んでくる暖かな日射し。そういうもので構成されている。ニューヨークとか、大麻とか、ストリップとか、グラフィティアートとか、フリーメーソンとか、月刊ムーとか、そういうものはいらないのである(すいません、これらは私の好きな世界観でした)。


次に、「季節感があること」。桜は舞い散り、初夏に心が踊り、水滴には紫陽花の色彩が美しく映える。ラムネにかき氷、浴衣に花火、風鈴。散ったイチョウが足元を埋め、音もなく静かに雪が積もる。吐く息は白く、甘いココアが湯気を立てている。


最後に、「色彩豊かであること」。間違ってもモノクロームではなく、しかし蜷川実花のような極彩色というわけでもない。タクシーの窓を打つ雨の水滴が街のネオンで色を変える感じ、とでも表現しようか……でもそれはちょっと大人っぽすぎるな。ま、これを書いている今が梅雨だからこの表現がいちばんしっくり来るのだろうけど、やっぱ「紫陽花っぽい感じ」かな。カラフルなんではなくて、青や紫や青みがかったピンクが、少しずつ少しずつ色を変化させていく感じだ。
異論はあるかもしれないが、私が想定している「新海誠的な世界観」とは、こういう感じである。


「私一人にそう見えているだけ」だったら元も子もないのだけど、あくまで「SNS上で新海誠的な世界観とかなり近いところにある写真が増えている」という前提のもと話を進めていくと、なぜこういう現象が増えているのかというと、まずは「素人による写真技術の向上」があるのだろう。


今は、iPhoneと加工アプリさえあればかなり綺麗な写真が撮れる。スマートフォンは日常的に持ち歩いているものだから、わざわざ気合いを入れて大きなカメラを鞄に入れる必要はない。そのことが、「日常的な」「季節感のある」写真を撮影することのハードルをぐんと下げている。高級コンデジやミラーレス一眼で撮ってる人だって少なくないが、やっぱり全体的に、「素人でもかなり綺麗な写真を撮ることができるようになった」というのは言えると思う*1。日常的に持ち歩いているもので、日常的なものを撮る。それも、とても美しく。写真が特別なものだった時代は特別なものを撮影していたが、写真が日常になった時代では日常を撮影するのだ。


もう一つの理由として、今の30代以下の人たちには「外ではなく内を求めている」とか、「自分を外へ連れ出してくれるものより、日常的なものを見つめ直したい」とか、そういう心理的傾向がある気がするけど、これは実証できるものがないので単なる私の思いつきである。いやちがうな、「外ではなく内を求めているものがシェアされやすい」「自分を外へ連れ出してくれるものより、日常的なものを見つめ直すもののほうがシェアされやすい」がより正しい。外を求める気持ちも、自分を外へ連れ出してくれるものに惹かれる気持ちも依然としてあり失われてはいないが、それらは〈シェアされにくい〉。

まとめ

さて、私はこの傾向を批判するつもりは一切ない(仮に本当にあるのだとして)。私も「新海誠的な世界観」に涙した人間の一人だし、そういうものに惹かれる気持ちはものすごくわかるのだ。しいていうなら「ナショナリズムと結びつきそうで危なっかしい」ってのはあるけど、それは杞憂というかイチャモンのような気がする。『君の名は。』の主題歌を手がけているRADWIMPSの『HINOMARU』騒動を見てそう思っただけかもしれないし。少なくとも、ニューヨークとか、大麻とか、ストリップとか、グラフィティアートとか、フリーメーソンとか、月刊ムーに夢中になっている人が増えている世の中よりは、だいぶマシだろう。


ただ、「新海誠的な世界観」はどこへ向かってどこへたどり着くのだろう、というのは少し気になっている。どこへ向かっているわけでもなく、したがってどこへもたどり着かないのかもしれないが。


日常にあるふとした瞬間を見つめ直し、見つめ直し、見つめ直し、見つめ直し続けた先には、いったい何があるのだろうか。答えはまだ、出ていない。

*1:そんな時代においてもなお、私は写真がド下手くそなのですが!