インタビュー記事、取材記事、といった類のものがある。数は多くないけれど、私自身も、インタビュー「する」側「される」側、ともに関わったことがある。これらの機会をあたえてくれた人たちに、感謝している。
これらの記事には、大きく分けて二種類あると私は思っている。一つは、「本人(インタビュイー)にとって名誉なことがクローズアップされているもの」。そしてもう一つがその逆の、「本人にとって不名誉なことがクローズアップされているもの」だ。
自分自身に関していうのであれば、私は今のところ前者にしか関わったことがない。
「される側」として、ライターとしての経験やお金の使い方を聞いてもらって記事にしてもらえたことがある。「する」側として、汚部屋から一転、お掃除ブログを立ち上げて書籍出版に繋げた方や、本業でバリバリやっている占い師の方に話を伺わせてもらったことがある。働き方とか、仕事論とか、あとは専門家にご意見を頂戴するとか、まあいろいろあるけども、いつもあなたがウェウブメディアで読んでいる記事をちょっと思い返してもらえれば、「本人にとって名誉なことがクローズアップされている記事」の意味をだいたい理解してもらえると思う。
もう一方の「本人にとって不名誉なことがクローズアップされている記事」は、貧困ルポとか、風俗嬢インタビューとか、そういうやつである。もちろん性産業に関わっている方への取材であっても、有名なAV女優に仕事論を語ってもらうとか、本人にとって良い部分をクローズアップしている場合は前者の範疇になる。つまり、まどろっこしいのでもっとスッパリ言ってしまうと、記事を読んだ人に「この人みたいになりたい・やってみたい・こういうのもアリかも」と思わせるのが前者で、「この人みたいにはなりたくない・なってしまったら怖い」と思わせるのが後者だ。
二者を並べて、優劣を語りたいわけではない。前者を批判する理由はないとして、後者に関しても、意義深いものはたくさんある。世の中、綺麗事だけじゃ済まねえのだ。
ただ、どちらの記事に関しても、読むと私の中にはいつも、拭いきれない違和感が残った。この違和感の正体は何なんだろうとモヤモヤしていたところに、岸政彦さんの『断片的なものの社会学』を読んだら、それがちょっとだけわかったのだ。
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「どちらの記事に関しても」とは言ったものの、割合的には、後者の「本人にとって不名誉なことがクローズアップされている記事」を読んで違和感を覚えることのほうが多い。
理由はなんとなくわかっていて、後者で取材する貧困層の方の中には意思疎通そのものが難しいって場合があるだろうし、文章に関しては読むのも書くのもあまり得意でない方がいるだろうと推測する。つまり、取材する側が、いかようにも話をねじ曲げることができるのだ。ねじ曲げるというと嘘を書いているみたいになっちゃうけど、そういう意味ではなくて、ようは主導権が取材する側にあって、どんなエピソードもある決めた方向に回収していくことができる。
なので、「本人にとって不名誉なことがクローズアップされている記事」を読むと、私はいつも、「これ、ホントにこういう話なのかな?」と思ってしまうのだった。もっと強く言うと、「おいあんた、ちゃんと原稿チェックしたのか!? こういう話にされちゃってるけど、それであんたは良かったのか!?」と思ってしまう。もちろん、ここでインタビュイーのほうを責めるのは筋違いだってことは、百も承知してるんだけど。
前者タイプの記事においては、違和感が残る割合は後者タイプに比べて減りはするけれど、しかし「どんなエピソードもある決めた方向に回収する」ということをやっていないはずがない。ただ、名誉なことをクローズアップされる人というのは意思疎通がスムーズでかつ自身も文章表現に長けている方が多いと推測するので、主導権が半々になるだけだ。だから、割合は減じるものの、前者タイプの記事を読んでもやはり私はぼんやりと「これ、ホントにこういう話なのかな?」と思ってしまうのだった。
もちろん、こういった「エピソードの一定方向への回収」は、インタビューや取材記事だけで起きている現象ではない。個人ブログでも個人コラムでも、もっと言えばそれぞれの人生でも起きている。「私はAさんと結婚しました」という事実は、私がAさんのことを好きなうちは「いい話」だが、私がAさんのことを嫌いになり始めたら「悪い話」だ。日々起きたことを意味付け、解釈しないと、人は自分を語ることができず、生きていくことができない。だから、エピソードの一定方向への回収が起きること自体はしょうがないのだが、インタビューや取材は「本人じゃない人物がその人の人生・思想を語る」という性質上、それが目立ちやすいのだろう。これはライターが悪いとか下手とかいう話ではなく、「そういうもんだからしょうがない」という類の話である。
だけど、『断片的なものの社会学』で語られているのは、そういった「エピソードの一定方向への回収」から、こぼれ落ちてしまったものだ。「編集でカットされた断片の寄せ集め」である。
ある人を取材する。何時にどこどこで待ち合わせをして、その日はとても寒くて、互いにこういう服を着ていて、自分はコーヒーを、ある人はココアを頼んで、一時間近く話を聞かせてもらう。コーヒーやココアを飲みながら、こういうエピソードがあって、ああいうエピソードがあって、という話をずっと聞いている。でも途中で、ふとしたことから、ある人が飲食店の前を通った犬について言及する。取材の主旨に関係ないので、多くの場合、記事になるときその「犬」への言及はカットされる。「犬」には別に意味がない。実は「犬」に重要な意味が……なんてこともない。本当に、ただ単に意味がないのだ。私たちはそうやって、毎日自分の人生を編集している。
『断片的なものの社会学』は、だからすごく変な本だと思う。「犬」というのはもちろん例えだけど、こういう、通常はカットされるような「犬」の話ばかり書いてある。一つ一つの断片は無意味だが、その断片の集合にはとても大きな意味が……なんてこともない。だから、この本は何も言ってない。しいていうなら、「ああ、そういうこと、あるよね」って感じだ。意味なんてない。
「語られて」しまうものがる。一方で、語られなかったものがある。
重要なのは「語られて」しまうもののほうだが、しかし実は、語られなかったもののほうも、重さは同じだったみたいだ。語られなかったものは、取るに足らないものだから、もっと軽いと思っていた。『断片的なものの社会学』は、取るに足らないものの寄せ集めなのに、ずっしり重い。何かを語ることは何かを捨てることだ、と改めて思い知らされるからかもしれない。
あたり前田のクラッカーなんだけども、自分だけが読む紙の日記にも、ブログにも、外部のコラムにも、書いてないことなんかいっぱいある。1日は24時間あって、それが365日×生きた年数分あるんだから、全部なんて書けるわけがない。わかってるんだけど、そういう、自分の「書いてこなかったこと」「語ってこなかったもの」を思い出して、ちょっとだけ涙が出た。
絶対に無理なんだけど、本当は、編集なんてしたくない。全部書きたいし、全部載せられたらいい。本当に、そう思う。無理だけど。