チェコ好きの日記

もしかしたら木曜日の22時に更新されるかもしれないブログ

2019年の「におい」について。あるいは、ボルヘス『伝奇集』

2019年に読んだ最初の本は、J.L.ボルヘスの『伝奇集』だった。南米の文学といったら私の中ではガルシア=マルケスかマリオ・バルガス・リョサだけど、実は他はそんなに読んだことがない。シュルレアリスムより〈ヤバイ〉のがマジックリアリズムである」という私の学生時代の直感(?)を信じて、今年は南米の文学にたくさん触れたいな。コルタサルとか、オクタビオ・パスとかも読んでみたい。


伝奇集 (岩波文庫)

伝奇集 (岩波文庫)


それはそれとして、『伝奇集』である。


1つ1つがコンパクトな短編集なので、「海外文学特有の、難解な長編小説みたいなやつ、無理なんですけど……」という人でも、まあまあ読みやすいのではないかと思う。その中で、私が特に気に入った短編4つについて、今回は書いておきたい。

1.円環の廃墟


(※これはイメージ画像です。2018年、バチカン美術館にて)


まずはボルヘスの代表作らしい『円環の廃墟』。代表作というだけあって私もとても気に入ったのだけど、あらすじを書けと言われると非常に困る。ある男が闇夜に岸にたどり着いて、土手を這い上がると、密林の中に神殿がそびえている。そしてその神殿で、彼は夢を見るのである。次のシーンで場面は急に現実的なものに変わり、男は円形の階段教室の中央にいて、学生たちに講義をしているのだ。


夢のほうが現実的で、現実のほうが幻想的。私こういうモチーフが好きで、自分でもそれに近い体験をすると嬉しい。以下のnoteは中東旅行の際に書いた日記だけど、期間限定で全文無料公開しておきます……。ヨルダンで、私は砂糖が大量に溶け残ったドロドロに甘い紅茶を飲みながら、定刻に流れるイスラムのお祈りを聞いて、目元以外を黒い布で覆った女性たちに囲まれていた。でも、夢の中では、朝起きて、お弁当を作って、電車に乗って会社に行ってたんです。人生は奇怪だ。


note.mu

2.バベルの図書館


(※これはイメージ画像です。2018年、パレルモにて)


たぶん難しく読もうと思えばいくらでも難しく読めるのだろうが、感覚的に好きだと思った作品。何は何の暗喩であり〜とか、難しいことはよくわからないが、広大な図書館を(たぶん)世界にたとえていて、訪れる人を(たぶん)旅行者にたとえているところが好きだ。

図書館は無限であり周期的である。どの方向でもよい、永遠の旅人がそこを横切ったとすると、彼は数世紀後に、おなじ書物がおなじ無秩序さでくり返し現れることを確認するだろう(くり返されれば、無秩序も秩序に、「秩序」そのものになるはずだ)。この粋な希望のおかげで、わたしの孤独も華やぐのである。
(p.116)

特に好きなのは最後のこの一文。孤独が、癒されたり紛れたりするのではなく、粋な希望で華やぐのだ。その粋な希望とは、「これはくり返しくり返し、誰かが何度も経験していることだ。誰かの記憶の中にあるものだ」というもの。私はこういう世界観が好きだし、実際、自分の孤独もそうやって華やかなものにしている。

3.刀の形


(※これはイメージ画像です。2018年、E.U.Rにて)


これは代表作でもないし、たぶん『円環の廃墟』や『バベルの図書館』と比べても小粒な作品だ。とある村に謎のイギリス人が住みついている。ボルヘスは彼と食事をし、彼の顔に走る刀傷について、つい尋ねてしまう。イギリス人は、英語とスペイン語ポルトガル語を交えながら、自らの来歴について語り始める。


これはとにかく終わり方が好き。大どんでん返しというほどでもないし、小説としてそこまで珍しい手法でもないのだろうが、ちょっとゾッとしてしまった。ちなみに最後の一文は「わたしが、ヴィンセント・ムーンです。軽蔑してください」だ。

4.南部


(※これはイメージ画像です。2018年、パレルモにて)


実はボルヘスを読んでいて、「ちょっと近いかな?」と思ったのが、タイの映画監督アピチャッポン・ウィーラセタクンの世界観である。どちらも「輪廻」「転生」「くり返し」というモチーフが軸にあるように思うのだ。だけどもちろん対照的なところもあって、アピチャッポンはアジア的であり、その反復は浮遊霊のようにふわふわと現れては消える。一方で、ボルヘスは西洋的であり、秩序立って・論理的に・円を描くように・規則的に反復が起こる。ボルヘスはアルゼンチンの作家だが、超インテリ家庭に育ったヨーロッパの知識人でもあるので、そういう感じになるのかなと思う(ちょっとてきとう)。


aniram-czech.hatenablog.com


『南部』もまた、そんな反復性みたいなものを私に感じさせる短編だ。あらすじとしては、ある男が治療のため、病院に入院している。そこで夢を見る。男は「気が狂っている」のかもしれないが、男の見る夢は永遠であり、それは男だけの夢ではなく、人類が共通して見る「夢」なのだ──と、解釈して読むのが私は好きだ。(合ってるのかは知らない)


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私は潔癖日本人なので、普段の生活では基本的に「無臭」を好む、ちょっと味気ない人間である。香水は苦手だし、柔軟剤の香りもダメな場合が多い。


だけど、海外に行くと、「におい」を強烈に感じる瞬間がある。パリに行ったときは機内のエール・フランスからしてブランド物の香水のにおいがムンムンだったし、カンボジアのホテルではそこらじゅうでレモングラスの香りが立っていた。台湾や韓国には独特の香辛料というか食べ物のにおいがあるし、ローマの教会ではお祈りのときにずっとレモンの香りが漂っていたな。あと何より、私はお金がないので、旅行に行くときいつもバカ安くて乗り換え時間がアホほど長い航空券をとってしまうのですが、その時間、暇すぎて免税店で香水を物色するくらいしかやることがないんですよね。あの瞬間で眠っていた嗅覚が目覚めているのかもしれない。


そして、文学の中でもっとも「におい」を感じるのが、私にとっては南米文学だったりする。ガルシア=マルケスの小説にはムッとするような薔薇の香りを感じるし、ボルヘスの小説にもユーカリや薔薇の香りの記述がある。それらがいわゆる「良い香り」か? と問われると、ちょっとわからない。汗や熱気や体臭と混ざったそれらは、人によっては不快かもしれないからだ。だけど同時に、強烈に魅力的でもある。熱気と頭の芯まで麻痺させるような強い香りに誘われて、永遠の迷宮に迷い込んでしまいたい……。


私はまだ行ったことがないのだけど、実際の南米は、どんな「におい」がするのかなと考えている。薔薇だろうか、土だろうか、埃だろうか、珈琲だろうか。なんとなく、嗅覚を、本能を目覚めさせたいと思う、2019年の年の始め。


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(※これはイメージ画像です。2016年、雨の降るバリ島にて。あと去年の暮れに百貨店をいろいろ徘徊して、香水は香水でもディプティックとトムフォードとジョーマローンはわりと嫌いじゃないことも判明しました)

2018年でいちばん嬉しかった「書く」ことについての話

こんばんは。2018年のブログ更新は今日が最後です。来年は1月3日から、また木曜日に更新する予定です。

1.

思い返すと、今年の初めは原因不明のもやもやに包まれていて、「もう書くことないんだよね」とか言っていたところから始まり、そこからなぜか「小説を書く」という謎ゴールに向けて突っ走ってしまった1年であった。私はコラムやエッセイを書くことを仕事の一部としているが、今のところ小説を書くと大赤字なので、こっちは全然仕事ではない。でも、今思うと、「仕事」じゃないことがきっとしたかったんだろうな。もちろん、コラムやエッセイを書いてお金をもらえることは身にあまる光栄であって、そっちもっと頑張ってから「仕事じゃないことがしたい」とか言えよって話ではあるんだが、それはともかく。

2.

ところで、私は天然の「煽り体質」である。人間関係がめちゃめちゃになるので普段はもちろんそんなことしないけど、いい感じに流れていた空気を乱すのが好きだし、テーブルをひっくり返してまとまりかけていた議論を白紙に戻すのが好きである。人を怒らせるのが好きだし、こちらが煽って相手がムキになってくると、アドレナリンがドバドバ出てしまう。夏頃に、とある文筆家さんにそのことを告白したら、「チェコ好きさんは、トリックスターだなあ」と言われてしまった。でも、そうなの。神話とかに出てくるトリックスターなキャラ、私めちゃくちゃ好きなの。「和やかなパーティーをみんなで楽しんでいるところに、突如赤ワインのボトルを柱に思いっきり叩きつけてブチ割る」を、本当にずっとやりたいと思っている。


aniram-czech.hatenablog.com

3.

一方で、「チェコさんは『赤ワインのボトルを柱に叩きつけてブチ割りたい』とか言ってるけど、AMの連載は優しいですよね」と言われたことは、今年いちばん嬉しかったかもしれない。AMは私の中ではっきりと書き方を変えているので、それに気が付いてくれた人がちらほらいてくれたことは、ありがたかった。


私は女性だけど、「女性だから女性の味方だ」なんてこれっぽっちも思っていない。もちろん男の味方でもない。男だろうと女だろうと、その他様々なジェンダーの人たちだろうと、くだらねえ奴はくだらねえからである。ただそれでもAMは、「女性のために」というか、「悩んでいる人のために」書こうと思った。理由は、まあこのご時世だからである。Me Tooから始まり、東京医科大の件があったりして、「女性が現代社会で生きること」について、公私ともにけっこう考えた1年でもあった。

4.

それはそうと、恋愛系の読み物で面白いものといえば「お悩み相談」は鉄板である。恋愛の悩みに限らず、私はお悩み相談は全般的に読んでて楽しいから好き。シリアスな悩みも回答者の人間力が試されるので面白いが、クソどうでもいいくだらない悩みも、「人間だなあ」という感じがして憎めない。


だけど「読み物として面白い」という枠をこえると、基本的に、相手の気持ちは相手にしかわからないので、いくら回答者の人間力が凄まじかろうと、第三者にわかるわけがない。占いやお悩み相談ではいくらなんでも限界がある。だからまあ、「聞きたいことは直接本人に聞け・言え」というのが、ぶっちゃけすべての人間関係のお悩みの身も蓋もない解決方法になる(と、私は思う)。


am-our.com


馬鹿野郎、直接は聞きにくいから他の人に聞いてるんじゃ、というご意見はごもっともだ。私も身に覚えがないわけではない。「あの人に言いたいことが言えない、聞けない」は人間にとって永遠に解決しない実に根深い問題であり、夏目漱石なんてそれだけで何作も小説を書いている。


aniram-czech.hatenablog.com


今年の2月頃に風邪で喉をやられて、1ヶ月近く咳が治らなかったことがあって、「咳 治す」とかで検索しまくっていたら、「喉をやられる人は、言いたいことが言えていない傾向がある」みたいなスピ系のサイトを見つけて、思わず憤慨した。言いたいことが100%言えてる人間なんて、いるわけないだろうが。また誰にでも当てはまるくだらねえこと書きやがってクソが、と私はその日中ずっと悪態をついていた。ちなみに咳は、ずっと言えなかったことをあの人に勇気を出して伝えたら治った……わけはもちろんなく、医者に行って薬をもらって飲んでたらケロッと治りました。西洋医学万歳!

5.

というわけで、喉がやられて辛い人は、ずっと言えなかったことをあの人に勇気を出して伝えても別に治らないと思うので、長引くようであれば医者に行こう。しかしそれはそうと、言いたいことはなかなか言えないからこそ、伝えられたときに価値があるんだよなとも思う。本人に直接言うのも難しいし、「言葉にするのが難しい」って場合もある。前者で悩む人は多いが、後者で悩む人の一部は、だからこそ、物語を紡ぐしかないのだろう。



小説は来年も発表するし、今もそれに向けて書いています。どこかで、みなさんの目に入る機会があれば。良いお年を。


2018年に読んで、面白かった本ベスト10

毎年恒例のアレ。なお、年間のまとめなので一部、2018年上半期編と重複しております。
aniram-czech.hatenablog.com
2017年編はこちら。
aniram-czech.hatenablog.com

10位『水木しげるラバウル戦記』水木しげる

水木しげるのラバウル戦記 (ちくま文庫)

水木しげるのラバウル戦記 (ちくま文庫)

水木しげるが太平洋戦争中に激戦地ラバウルに送り込まれ、そのときの体験を綴ったエッセイ。水木二等兵、よく上等兵に殴られている。でも、殴られたあとでもユーモアを忘れていなくて、「毎日たのしかったナ」とか書いている。過酷な状況ではあったのだろうが、ただ戦地には戦地で「日常」があったのだろう。昨日笑いながら一緒に会話していた友人や先輩は翌日にぽっくり死ぬし、慰安婦のいるテントの前には行列ができる。だけどこのエッセイは、それを悲劇とも喜劇ともとらえず、ただ淡々と描写していた。

9位『エピソードで読む西洋哲学史』堀川哲

エピソードで読む西洋哲学史 (PHP新書)

エピソードで読む西洋哲学史 (PHP新書)

「エピソードで読む」とあるだけに、個々人の哲学者の思想などよりも色恋沙汰とか家族問題とか人間関係とかに主軸が置かれて書かれている。そういう意味では哲学者のゴシップが読める! みたいな本なのだけど、もちろんだからといって哲学の本として二流なわけではない(と思う)。こういう色恋沙汰をやってるからこういう思想になったわけね〜みたいな、哲学の人間らしい部分、骨の部分がよくわかる。個人的に面白かったのはニーチェの恋愛と、ハイデガーハンナ・アーレントの不倫。あとサルトルボーヴォワールに、関係した女性との情事を事細かに書いた手紙を送っていた……とかのエピソードはドン引きしました。面白かった。

8位『旅と芸術:発見・驚異・夢想』巖谷國士

旅と芸術: 発見・驚異・夢想

旅と芸術: 発見・驚異・夢想

大好きな巌谷先生の本を遅ばせながら。絵画や文学が「旅」をどう描いてきたかを時代を追いながら見ていく本。つまり完全に私が好きな奴である。中世の、まだ世界の全貌がわかってない頃の、「この海をこえると怪物がいる(と思う)」みたいな素朴な感じ、かなり『ONE PIECE』っぽい。中世以前に旅をするって、冗談抜きで『ONE PIECE』みたいな感じだったんだろうし、まあ私も60巻くらいで止まってるんですが、あの漫画はやっぱり「旅行記」として読むとけっこう面白いと思う。

7位『アブサロム、アブサロム!ウィリアム・フォークナー

アブサロム、アブサロム! (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-9)

アブサロム、アブサロム! (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 1-9)

フォークナー、今だいぶ時間をかけて『サンクチュアリ』を読んでいるのだけど、『アブサロム、アブサロム!』は難しかったし人物相関図や年表を追いながらじゃないと読めない。だけど、私にとってはけっこう大切なことが書かれている気がするので、来年もぽつぽつフォークナーは読んでいこうと思っている。「大切なこと」とはすなわち、「羨ましい」と思う気持ち、情念、「あいつばっかりずるい」と思う気持ち、そういうものとどうやって折り合いをつけていったらいいのか──あるいは折り合いなんかつけられやしないから、どう内包していけばいいのかってことなんだけど。

6位『翻訳夜話2 サリンジャー戦記村上春樹柴田元幸

翻訳夜話2 サリンジャー戦記 (文春新書)

翻訳夜話2 サリンジャー戦記 (文春新書)

ライ麦畑の反逆児』を試写会で観て、私の中でサリンジャー熱が再熱。こちらの映画は来年1月公開だそうです。ちなみに映画の中で、サリンジャーフィッツジェラルドのデビュー作『楽園のこちら側』を読んでいるのがちらっと映るんだけど、そういうところも含めて好き。

ニコラス・ホルト主演『ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー』予告編

ちなみにこの本の個人的な読みどころは、柴田元幸さんが書いた「Call Me Holden」という章。『ライ麦畑』の主人公ホールデン君が、アメリカ文学を批評しているという設定で書かれている。

あれでギャツビーが、「そうか、過去の夢なんかに囚われてちゃいけないんだな」とか何とか悟って、デイジーのことをあきらめちゃったりしたら、興ざめもいいところだよ。

いや、ほんとにね。ギャツビーもホールデン君も、物語の中で成長しない。大人にならない。それを愚かな人間だと笑うやつに、これらの小説の真髄はわからないだろう。

5位『世界最悪の旅─スコット南極探検隊』アプスレイ チェリー・ガラード

世界最悪の旅―スコット南極探検隊 (中公文庫BIBLIO)

世界最悪の旅―スコット南極探検隊 (中公文庫BIBLIO)

スコット率いるイギリスの探検隊と、アムンセン率いるノルウェーの探検隊が南極到達を競うのだけど、寒い場所がお得意のノルウェーにイギリスが敵うわけなく、スコット南極探検隊は全滅。凍傷で動けなくなった仲間は見捨てるしかなく、死の淵を彷徨いながら隊員が記した手記が収録されている。心も体も絶望しかなく、「もう死ぬしかない」という状況になったとき、人間はこういうことを考えるんだな……と思った。

しかし、これを読んで「いつか南極に行ってみたいなあ」とも思った。それほどまでに過酷な環境を私は体験したことがないから。まあ「行く」といっても安全なツアーに頼るしかなく、スコット探検隊と同じ体験ができるわけでは全然ないんだけど(というか同じ体験をしたら死ぬ)。

4位『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』奧野克巳

ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと

ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと

【感想】『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』 - チェコ好きの日記

これは最近感想を書いたので割愛。

3位 『スローターハウス5カート・ヴォネガット・ジュニア

自身の戦争体験を悲劇としてではなく、SFとして昇華させるヴォネガットの感性が好きだなと思った。そして事実を事実のまま書くより、フィクションとして書くほうがより諦観や悲痛さを表現できることがある……というのは、私が今年小説を書いてみた動機のひとつでもあったのでした。

1位『ナイン・ストーリーズサリンジャー

ナイン・ストーリーズ (新潮文庫)

ナイン・ストーリーズ (新潮文庫)

厳密にいうと「今年初めて読んだ本」という基準からは外れていて、高校生のときに読んだものを今年ちゃんと読み直したのだけど。『バナナフィッシュにうってつけの日』って、みんな読みましたか。私は、これをこえる短編小説はないのではないかと思うほど、この短編を愛している。高校生のときはこれが戦争で傷付いた人の話だとわからず、「なんか頭おかしくなっちゃった人の話」だと思っていたんだけど、年をとるといろんなことがわかるようになって良い。


今年のブログ更新は来週でおしまいです。イタリアに行ってたとき、更新が日本の22時ではなく向こうの22時になっちゃったというミスをしましたが、「木曜日、22時の更新」1年間続けられたな。よかったよかった。

インプットの季節

文フリも終わったし、公私ともに落ち着いたし、寒いし、来年の春に旅する場所も決まったしで、本を大量に買い込んでいる。来年のはじめに発表する予定の短編小説の準備などもしているのだけど、それはそれとして、しばらくは落ち着いて映画や本からインプットする時期に当てたいなと思っている。寒いし……。


積ん読になっているのは、ガルシア=マルケスセリーヌ、ブルース・チャトウィンなどなど。映画はウォン・カーウァイアンドレイ・タルコフスキーを再視聴したいな。


予告された殺人の記録 (新潮文庫)

予告された殺人の記録 (新潮文庫)

パタゴニア/老いぼれグリンゴ (池澤夏樹=個人編集 世界文学全集 2-8)

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サクリファイス [DVD]

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先週の書評でも書いたとおり、私は海外旅行から帰ってきたあと、よく変な夢を見る。体は日本に帰ってきているけれど、頭はまだ外国にいたり、飛行機の上だったりするから、バランスがとれないんだろうなと思う。だけど、そういう変な夢を見続けている少しの間が、私にとっては何よりも「生きてるなあ」と感じる瞬間だったりもする。


私が上で読む本、観る映画は、そんなふうにたぶん少しだけバランスを崩している。だけどそれはファンタジーでも夢でもなく、それこそが「本当のこと」なのだ。真っ白なシーツにくるまって天に昇っていく女、香水のかおりにおびきよせられて全身にまとわりつく熱帯の蝶。そういうことは、本当にある。私は、ちゃんと現実を生きていたい、と思う。現実は、幻想なんかよりもよっぽど幻想的だ。


あとは春に向けて、語学の勉強をする。春に行くと決めた旅先は英語がほとんど通じないらしいので、約3ヶ月間で突貫工事をしなければならない。覚えた言葉は、帰って少し経ったら綺麗さっぱり忘れるだろう。イタリア語も、インドネシア語も、私はもうほとんど覚えていない。


だけど、知らない言葉を覚えて、知らない国の文学を味わって、地図を広げると、やっぱり、現実を生きてるなって感じがする。東京で働くのも嫌いじゃないが、こっちの「現実」もやっぱり捨てられないよなと、私は懲りずに考えているのでした。

【感想】『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』

これは前々から思っていたことだけど、実は「カルチャーショック」よりも、「逆カルチャーショック」のほうが、3倍くらいショッキングだったりしませんか? 自分が他の文化圏を旅して異なる文化に触れたそのときよりも、異なる文化に数週間浸かってみて自国に帰ってきたとき、「なぜ私は今までこのシステムに何の疑問も抱かなかったのか?」と驚く瞬間のほうが、私にとってはやっぱり3倍くらいショックである。


ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと

ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと


『ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと』を書いた人類学者の奥野勝巳さんは、学生時代にメキシコの先住民テペワノのもとをたずね、日本に帰国したときのことをこう綴っている。

テペワノの日々が楽しく思い出されるとともに、自分自身がおこなっていること、日本でおこなわれていることが、何もかも虚しく感じられるようになったのである。本を読んでも、誰かと話をしても、何をやっても上の空だった。テレビを見ていても、言葉や音が私の中に入って来なかった。電車に乗って、ふと見ると、乗客に顔がないことがあった。どうしてしまったのか、まるでわからなかった。
(p.7)


私にも、似たような経験がないわけではない。中東に1ヵ月ほど行って帰ってきたあとは、日本や欧米の音楽がノイズにしか聞こえなくなってしまい、中東イスラム圏の民族音楽みたいなのをずっと聴いていた。誰かと話しているより、録音されたアザーンの音声を聴いているほうがよっぽど落ち着いた。今はそんな妙な熱病状態も冷め、やっぱりこちらの文化圏の音楽や人と話すほうが好きになっているんだけど、体が帰ってきても、頭と心も同時に帰ってこられるわけではないのである。他の旅でも、帰国したすぐあとはだいたいいつも、心身がバラバラの状態で、よく変な夢を見る。


そんな奥野勝巳さんは2006年から1年間、熱帯のボルネオ島で、プナンという狩猟採集民と生活をともにする。ボルネオ島は、マレーシア、インドネシアブルネイからなる東南アジアの島で、多様な生態系を育む自然豊かな場所らしい。『ありがとうもごめんなさいもいらない〜』は、奥野さんがプナンと暮らしながら考えたことが綴ってあるエッセイである。

反省しない

プナンと生活している中で奥野さんが気付いたことは、どうも彼らには、「反省する」という態度・習慣がないらしい。本のタイトルにあるとおり、「ごめんなさい」に相当する言葉が、プナンにはどうも見つからないのだという。プナンの人々は、過失に対して謝罪もしなければ、反省もしない。他人のバイクを盗んでぶっ壊したとしても、決して謝ったりなんかしない。


もちろん、これは現代日本に生きてる私たちからすると、だいぶ居心地が悪い。仕事でも私生活でも、過失があったならば謝罪と反省をすること。これは人として生きる上での基本中の基本であると、私たちは幼少時代から教え込まれてきた。


ではプナンは、共同体の中で何かトラブルが起きたとき、それをどのように解決するというのだろうか。本によると、失敗や不首尾をプナンは「個人」の責任とせず、場所や時間や道具、「共同体」や「集団」の方向付けの問題として扱う。1人が起こした過失はみんなの責任だから、みんなで解決策を考えるのである。このあたりは、「自己責任」という言葉が大嫌いな私はとても共感する一方で、そんなハイパーな社会が築けるわけないだろバカ、という思いもあって、読んでいてけっこう戸惑った。


なぜプナンの人々は反省しないのか、個人の過失という概念を持たないのか、奥野さんはこんなふうに分析している。


ひとつは、プナンが徹底した「状況主義」であること。反省なんてしてもしなくても、万事、上手くいくこともあれば上手くいかないこともある。彼らはそんな状況判断的な価値観の中で生きている。


もうひとつは、直線軸的な時間の観念を持っていないこと。よりよき未来を目指して向上するために、常に反省やフィードバックを重ね、自己と社会を改善し高めていく。そういった観念を、プナンの人々は持っていないというのである。よりよき未来のためではなく、彼らは常に「今」を生きている。

よい心がけ

「ごめんなさい」に相当する言葉がないのと同時に、プナンの人々は「ありがとう」に相当する言葉も持たない。これもまた、周囲の人への感謝を忘れずに生きなさいと日々諭されている私たちにとっては、なかなか受け入れがたい世界観である。


ただし、「ありがとう」という言葉の代わりに、何か自分へ物を与えてくれた人に対して、「jian kenep(よい心がけだね)」ということはあるらしい。私たちの感覚からするとずいぶん上から目線の言葉だなという気がするし、日本でこんなこと言われたらイラっとしちゃうが、彼らはそもそも「所有」に関する観念が私たちとは異なるみたいである。「貸す/借りる」という言葉もまた、プナンにはない。他人の持ち物が欲しくなったとき、プナンの人々は「ちょうだい」というし、持ち主もそう言われた際には快く持ち物を差し出さねばならない。

〈彼〉/〈彼女〉はつねに〈私〉の持ちものをねだりにやって来て、〈私〉から持ちものを奪い去っていく。〈私〉にとっての〈彼〉/〈彼女〉である他者は、何も持たない者であるからこそ、〈私〉を脅かしつづける。〈私〉はつねに物欲を抱えているからである。そのうちに、物欲とともに、〈私〉はこの仕組みの渦に呑み込まれる。〈私〉は、やがて持たないことの強みに気づくようになり、最後には、持たないことの快楽に酔い痴れるようになる。
(p.72)


プナンの人々はまた、「親しき人々」も共同で所有するらしい。子育てをする際、子には実の親と育ての親という二種の親が存在し、男女の恋愛も結婚も、排他的な権利を個人に帰属させない。あらゆるものをみんなでシェアする。反省しない、感謝しない、精神病理がない、水と川の区別がない、方位・方角に当たる言葉がない。感謝や負債という概念を、プナンの人々は持たない。

********


最後に、これはごくごく私的な感想である。


もちろん、この本にあるような事実を知って、プナンの人々の社会は純粋だとか、学ぶべきところがあるとか、私たちの社会もそうなるべきだとか、そんなことはとても言えない。奥野さんも書いているが、私たちにできるのはただ、目の前にあるこの現実が、「絶対ではない」と知ることだけだ。


「絶対ではない」「絶対なんか存在しない」と知ることは、恐怖でもある。私が今必死で守っているもの、置かれている立場、生きている意味、全てを失う可能性があるからである。だけど、私はやっぱり「絶対なんか存在しない」を日々確認するために、こういう本を読んじゃうし、懲りずに旅行に行ってしまう。自ら、守るものや生きる意味を、失いに行っているともいえる。


だけど奥野さんも紹介していたニーチェの考え方に、「『無意味だからどうでもいい』と考えるのではなく、『無意味だからこそ、自由に、やりたいように、力強く生きるのだ』」とあるらしいのを知って、なんとなく、なぜ私がこういう生き方をしているのか、我ながら腑に落ちた。


「徹底した厭世観虚無主義で絶望しきることによって、逆に力強く生きる」ってのもまた、けっこう悪くないのですよ。まあそんな生き方は、なかなか他人に勧められるもんじゃないんだけど。