チェコ好きの日記

もしかしたら木曜日の22時に更新されるかもしれないブログ

浮いた氷山の水面下には何がある?:『発酵文化人類学』を読む

知人に、発酵デザイナーの小倉ヒラクさんという方がいる。

最初にお目にかかったのは確か「灯台もと暮らし」さんのイベントだったと思うのだけど、イベント後にブログを読んだらレヴィ=ストロースのことがいっぱい書いてあって(しかもそれがすごく面白い)、そこから私の中でヒラクさんは完全に「文化人類学の人」になった。私自身は残念ながら、レヴィ=ストロース御大のことは「すごいのはよくわかるけど何がどうすごいのかは説明できない」みたいな理解しかしてないのだけど、しかしそれはそれとして、よくわかってないくせにものすごく気になる存在ではある。30歳になった今年の誕生日は家にこもって、『悲しき熱帯』を8時間くらいずっと読んでいた。

そんなヒラクさんが、この度『発酵文化人類学』なる本を上梓されたらしい! というわけで、以下はヒラクさんの『発酵文化人類学』の感想です。

発酵文化人類学 微生物から見た社会のカタチ

発酵文化人類学 微生物から見た社会のカタチ

浮いた氷山の水面下には何がある?

本の感想の前にちょっと別の話から入るけど、正直なところ私の頭は、つい最近まで世界を国境という境界線で区切り、国境は「ある」という認識によって世界を見ていた*1

「あれ? なんか変だな」と気が付いたのは昨年、インドネシアを旅したときだ。私は一大観光地であるバリ島を訪れた後、スピードボートに乗ってギリ・アイルという小さな島とロンボクというデカめの島を訪れてみたのだけど、実はこのバリ島とギリ・アイル、ロンボク島の間には、ウォレス線という生物分布境界線が走っている。ウォレス線より西のバリ島側は生物分布が東洋区に属し、東のロンボク側は生物分布がオーストラリア区に属しているのだ。ボートで2時間移動しただけなのに、島に生息している植物や動物がちょっとだけ変わっている。さらにいうと、ウォレス線を境に宗教も変わっているように見えるから面白い。西側のバリ島はヒンドゥー教だが、東側のギリ・アイル、ロンボクに行くとそこはイスラム教の島になってしまうのである。

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実際に訪れてよく観察してみると、バリもギリ・アイルもロンボクも、1つ1つの島はまったく異なる性格をしている。しかし、人間は地図の上から線を引っ張って、「国境はこっちです。だからバリもギリ・アイルもロンボクも同じ、インドネシアなんです」ということにしてしまう。あるいはユーラシア大陸なんかだと、国境によって同じ文化を共有している民族を分断してしまってたりすることもあるだろう。実際の生物分布や文化の分布と、人間の都合で便宜的に引いた国境ってのは、あんま関係ないんだな〜としみじみ思ったのである。

さらに、もう1つ別の話。私も大ファンだけどヒラクさんもファンだと言っていた、辺境作家・高野秀行さんの『謎のアジア納豆: そして帰ってきた〈日本納豆〉』という本がある。納豆といえば日本人にとってもっとも身近な食品の1つだけど、なんと、実はその正体がよくわかっていないらしい。まずありがちな勘違いとして、「納豆は日本にしかない」と思い込んでいる人が少なからずいるかもしれないが、納豆はミャンマーにもネパールにもブータンにもある。韓国にもある。ただし、中国にはないらしい。

そうなると、今我々の食卓に並んでいるこの納豆は、いったいどこから来たんだ? という疑問が浮かぶ。稲作っぽい感じで別の大陸から伝わってきたのだとしたら、中国を飛びこえているのがおかしい。納豆自体は作るのがそんなに難しくないので、じゃあ日本国内で独自に発達したのかな? と思いきや、実は納豆には方言の呼び名がなく、日本全国どこでも「納豆」と呼ぶ。国内独立起源説をとると、こんなに日常的な食品の名称が全国で統一されているのはおかしいので、この説もいまいちとなる。

納豆の起源については結局、高野さんの本の中で結論は出ない。だけどここ日本と、遠く離れたミャンマーやネパールの山岳地帯で、同じ微生物のお世話になって同じ食品を作っていたというのはちょっと不思議な気分だ。人間が作った地図上で見れば日本とミャンマー、ネパールは遠く離れた別の国だが、微生物の世界から見ると非常に近くにある「おんなじようなもん」なのかもしれない。

で、やっと『発酵文化人類学』の話につながるのだけど、ヒラクさんはこちらの本の「あとがき」で奄美群島を訪れている。微生物の働きによって色素が布地に定着する、奄美特産の大島紬という絹織物があるらしいのだけど、この大島紬の系譜をたどると、インドやジャワの絣織りにたどりつくらしい。

地図を上から見ると、そこには国境がある。それでなんとなく、私たちは日本とインドネシア、日本とミャンマー、日本とその他諸々の国は、別の国なんだと思っている。だけどそれってたぶん、間違ってるわけじゃないけど、氷山の一角というか、先っぽというか、上澄みのあさ〜い部分でしかないんだろう。私たちは人間なので、人間の体が通れる場所しか「道」だと認識していない。だけど目線を下げて体を小さくして猫になってみれば、きっとそこには人間が普段は認知していない「道」が無数に現れる。別の生き物(微生物)の目線で世界を見てみると、浮いている氷山の水面の下にまでもぐることができるのだ。

そして贈与経済

いきなりあとがきの話に飛んでしまったけれど、個人的に『発酵文化人類学』でいちばん興味深かったのは、第4章の「ヒトと菌の贈与経済」である。ニューギニア島東部にはトロブリアンド諸島というのがあって、そこに住む部族は、赤い貝の首飾りを時計回り、白い貝の腕輪を反時計回りにして、部族間でぐるぐる交換しているという。なんの意味があるんだそれ? と思わず問いただしてしまいたくなるけれど、「なぜ人間はコミュニケーション(交換)をするのか?」ではなく、文化人類学は「コミュニケーションをするから人間なのだ」と考えるらしい。

さらにいえば、コミュニケーションをしているのは人間と人間だけではない。目に見えているもの以外にも、私たちはあらゆる生命体とコミュニケーションを交わしている。『発酵文化人類学』は発酵の本なので、説明されているのは主に人間と菌のエネルギーの交換だけれど、人間とイルカとか、人間と植物とか、人間と猫とかでもコミュニケーションはできる。人間をやっているとたまに「孤独だなあ……」と感じてしまうこともなくはないけれど、それは私たちが人間であるが故に人間ばっかり見ているからで、本当はただ生きているだけで全然孤独ではないんだろう(と、いうのは前に伊佐知美さんの『移住女子』を読んだときも思った)。

都市の孤独と、地方『移住女子』のモテ - チェコ好きの日記

最近実感している個人的なことだけど、「生きる」ということはどうやら「ぐるぐるする」ということとイコールらしい。

「ぐるぐる」をもう少しわかりやすくいうと「コミュニケーション」だけど、しかしやっぱり私が思う意味により忠実なのは「ぐるぐる」のほうだ。そして、「生きる」ことが「ぐるぐる」であるが故に、「ぐるぐる」の流れはあまり止めないほうがいいらしい。すごい平易な言い方をすると、「昔は上司におごってもらったから、今度は自分が部下におごってあげよう」みたいなことになると思うんだけど、おごられっぱなしだと実は得するようでめちゃめちゃ損するようになっているっぽい。なんでかは知らないけど。あと、「上司におごってもらったので上司におごり返す」のではなく、「今度は部下におごる」というのがミソで、右から来た首飾りは右に返すのではなく左に流すのがキマリのようだ。なんでかは知らないけど。

こういうのってちょっとやばくなると「すべてのことに感謝しましょ〜!」みたいなスピリチュアルな方向に行きそうな気もするんだけど、でもあれってあながち間違ってなくて、というかあながち間違ってないが故に信者が増えるのかもしれない。

まとめ

個人的には、ブログでのヒラクさんの文体がそのまま反映されていたのが楽しかった。「発酵も人類学も関係ないじゃん」と思うかもしれないが、案外「孤独だ……!」と深夜に頭を抱えてしまっている人が読むと、斜め上の方向からすっきりするのではないかという気がする。

謎のアジア納豆: そして帰ってきた〈日本納豆〉

謎のアジア納豆: そして帰ってきた〈日本納豆〉

※私の中での「合わせて読みたい」

*1:これまでの旅は、ヨルダンから国境を越えてイスラエルに入るときなどにライフルを抱えた兵士にすごく厳しくパスポートチェックされたりとか、もしくは飛行機での移動が多かったので、「国境」を強く意識してしまう機会のほうが多かったのだ

『鬱屈精神科医、占いにすがる』を読む

生きることが苦しいと感じたとき、人は何に救いを求めるだろうか。ある人は宗教かもしれないし、ある人は哲学や文学かもしれない。ある人は心療内科に行くかもしれないし、またある人は占い師にすがるかもしれない……。

『鬱屈精神科医、占いにすがる』という本の著者である春日武彦さんは、タイトルにある通り精神科医で、普段は人に救いを与える側である。だけど還暦を迎え、生きることにどうしようもない倦怠を感じるようになり、自分のほうが救われたいと思うようになってしまう。そこから春日さんの、占い師ハシゴ生活が幕を開けるのだ。

春日さんは、「人の悩みを聞く」という点において、占い師は自分(精神科医)と同業者であると語る。実際、訪ねて行った占い師にも、自分の職業について打ち明けると、「あら、そういったお仕事の方が、わざわざご相談ですか」と少々珍奇な目で見られてしまう。同業者の世話になる、同業者の接客をする。確かに、どちらにせよやりづらいものではありそうだ。『鬱屈精神科医、占いにすがる』は、そんな珍奇な体験が綴られた、シニカルで、ユーモア溢れる、しかしどうにもこうにも人間臭いエッセイである。

鬱屈精神科医、占いにすがる

鬱屈精神科医、占いにすがる

私事だが、著者の春日さんは自分にちょっと似ている。どういうところが似ているのかというと、何につけても皮肉っぽいというか、厭世的な態度をとるところである。だけど、見苦しい弁解をしておくと、私の場合このシニカルな態度は転じてポジティブの源になっている。シニカルな態度は自分に対しても向けられているので、何かで落ち込んでしまったとき、自分で自分をおちょくることによってあまり深刻にならないのである。

春日さんも、常に悩みの多い人生だったというわけではなく、おそらく若いときは世の中にも自分にもシニカルな態度で接し、それなりに精力的に生きてこられたのではないかと思う。シニカルな生き方というのは、向き不向きがあるので万人におすすめできるものではないが、効く人にとってはものすごく効く生き方だ。前向きだし、明るい。が、どんな態度も万能ではないので、ふとしたキッカケで突如がくっと来ることは誰だってあるのだろう。

本に書かれた春日さんの苦悩を読んでも、タイトルにある通り「鬱屈としている」としか言いようのない、複雑に入り組んだ出口のないものがあるだけだ。苦しみの本質に何があるのかは、よくわからない。おそらく、容易く言語化できるようなものではないのだろう。

「今年になってからですね、二冊ばかり本を出しました。一冊は小説で、もう一冊は〈キモい〉という感覚をテーマにした評論とエッセイと哲学の混ざったような本です。内容は自分でもそれなりに自負するものがあって、表面的には軽い感触だけど実はかなりヘビーなものを包み込んだ作品です。雑誌やネットの占いを参照しますと、天秤座の今年はラッキーで、今までの不遇がやっと去って花開くみたいなことが書いてある。おおむねそういった調子で一致しています。おお、そうか。やっと世間に受け入れてもらえそうだぞと意気込んで世に問うてみたら、ほぼ反響なしの大コケでした。なぜ受け入れられなかったのか、その理由すらわからないので反省のしようがない。それこそ自分自身が世間から否定されたという気分しか生じない。おまけに〈キモさ〉を論じた本を執筆した際には、信じ難いような無礼かつ不誠実な仕打ちを編集者から受けたりして何が何だか分からないといった始末で、それこそどこかから強烈な悪意が作用しているとでも思うしかないんですよ。誰もが私のことを微妙に軽んじたり小馬鹿にしているような気がどんどん強まってくるし、とにかく明らかに変なんだけど、何がどう変なのか、それすら分からないまま自分が朽ち果てていくような気がして、もう不安でたまりません。誰もが私を見限り、みるみる孤立していく感触がリアルに知覚されるんです」

鬱屈精神科医、占いにすがる』p40-41

エッセイ前半の春日さんは、このようにただただ「鬱屈としている」。しかし、占い師をハシゴし、突如感情が高まって占い師の前で嗚咽混じりの涙を流したりしていく過程で、徐々にその苦悩の本質(に極めて近い部分)に、自分の母親がいるらしいことが朧げに見えてくる。繰り返しになってしまうけど、春日さんはもう還暦だ。母はすでにこの世を去っている。だけど考えれば考えるほど、自分の人生は「母に認められたい」というその一心だけをモチベーションに進んできたものではなかったかと、春日さんは懐古する。このあたりは、「もらい鬱」というか、読んでいるこちらのメンタルも参ってしまうような描写がある。20代後半とか30代くらいで、「本当はあのとき、とても辛かった」と幼少期の記憶を乗り越えようとする話はけっこう聞くし、実際みんな、相当辛い思いをしつつもそれをどうにか乗り越えるのだろう。だけど、乗り越えたと思ったそれは、気が付くとまたふとしたときに頭をもたげる。乗りこなし方が上手くなるだけで(それは十分立派なことなんだけど)、きっと消えるわけじゃないのだ。

私自身の話をすると、自分は母に対しても父に対してもあまり思い入れはなくて(気付いてないだけという可能性もなくはないが)、何かを選択するときに親が基準になってくることはほとんどない。だけど、いろんな本を読んだり人の話を聞いたりしているうちに、やっぱり自分にもそういう、出生ゆえの呪いみたいなのがあったりするのかなと、最近は考えるようになっている。それが何なのかは今はまだ上手く言語化できないけれど、私も還暦が近付いたら判明したりするのかもしれない。

医師として、春日さんはいつも「こちら側」から、精神を病んだ人に救いの手を差し伸べていた。だけどやっぱり、「精神的な病を抱えている人」と「精神的な病を抱えていない人」を、はっきりと区別することなんてできないのだろう。人間ならば誰しもが、皆それぞれの病を抱えている。ただ、それによって日常生活が困難になってしまっている人と、日常生活ではあたかも病など抱えていないかのように振る舞える人がいるだけなのだ。そして、その分水嶺というのは日々、湖の水面のようにゆらゆらしていて、けっこう簡単にバランスを崩す。明日の自分がどんな気分で生きていられるかなんて誰にもわからない。

本書の春日さんの物言いは一貫して、鬱屈としていて重い。だけど、『鬱屈精神科医、占いにすがる』というコミカルにも聞こえるタイトルには、まさしくそんな自分を自分でおちょくる、皮肉っぽいユーモアがあふれている。語り口は重いけど、なぜか笑ってしまう。若いときから一貫してスピリチュアルなものに馴染んできた人ならともかく、そういうものをずっとバカにしてきていそうな精神科医が、還暦になって占い師にすがるようになるなんて決してかっこいい姿ではない。というか、もっとはっきりいうとみっともない。だけどそこにこそ、人間のおかしみというか、愛おしさというか、悲しさが表れている気がして、まあ、人間なんてそんなもんでしょ、いいじゃん、と私は思う。

それにしても、本一冊分の容量を割いて精神科医が分析しているっていうのに、60歳を過ぎてもなお人間は自分のことがよくわからないらしい。もちろんそれは、春日さんが自分の人生に向き合ってこなかったからだとか、そんな軽薄な理由からではない(向き合うくらいで自分のことがわかるなら苦労しない)。そうではなくて、人も、物事も、世界のありとあらゆるものすべて、「わかった」なんてことはありえないのだろう。一つ「わかった」ことが増えたら、それは物事を簡潔にではなく、複雑にする。むしろ、何かについて「わかった」とその全容を理解したかのように思ってしまうことは、大いなる誤解と欺瞞の始まりになるだろう。

「一つ一つのことが明るみに出るたびにそれは、光ではなく、影を投げかけた。」というマーガレット・ミラーの言葉でこのエッセイは締めくくられている。この言葉はとても素敵だ。私も、自分の手帳にでも書き込んでおこうと思う。



※「もとくらの深夜枠」で、占い師さんへ取材に行く企画をやっているよ!
note.mu

星に願いを託すより

Twitterのほうを見てくれている人は知っているかもしれないけれど、現在noteの有料月額マガジン「もとくらの深夜枠」にて、【クレイジーJAPAN】という連載をやらせてもらっている。テーマは「文化人類学*1なのだけど、映画『君の名は。』の話をしてみたり、元汚部屋住人さんを取材してみたりと、我ながら「何がやりたいんだ?」感が満載の連載である。自由にやらせてくれている深夜枠編集長・くいしんさん(@Quishin)には、感謝しかない。

note.mu

そんな状況なのだが、しかしあくまで「文化人類学」がテーマと言い張りたいのであれば、この人物に触れないわけにはいかないだろう。というわけで、今回は【クレイジーJAPAN】の宣伝をかねて、レヴィ=ストロースの話を少ししてみようと思う。

インセスト・タブーと『親族の基本構造』

レヴィ=ストロースとはご存知のとおり、構造主義というやつを打ち立てたフランスの文化人類学者だ。しかし、レヴィちゃんの本は高くてあまり買う気にならないし、そもそも構造主義というやつは難しすぎて私もよくわからない。

そんなレヴィ=ストロース、おそらく有名なのは「インセスト・タブー」の話である。インセスト・タブーとは、日本語にすると「近親相姦の禁止」だ。自分の父や母や兄弟姉妹、あるいは子供と、性的な関係を持ってはいけない。これは世界中のだれもが共有している常識であり、その理由は「遺伝子的に問題のある子供が生まれる可能性が高いから」ということになっている。もちろん、理由のほうも常識だ。

しかし、この「性的な関係を持ってはいけない」とされている相手が、実は民族によって異なるらしい。

たとえば現代の日本では、イトコなら結婚OK=性的な関係を持つことが許されている。だけど、「父方のイトコは結婚禁止だけど母方のイトコならOK」みたいな、遺伝的な問題の話から考えるとわけのわからない慣習を持っている民族が、世界中のあちこちにいる。さらに、父母兄弟姉妹イトコにとどまらず、かなり広い範囲で血族との結婚を禁止している民族もいるらしい。

もし遺伝の問題のみを考えるなら、こういったバラつきが出るのはおかしい。遺伝の問題は依然あるとして、遺伝以外にも何か目的があるのではないか、とレヴィ=ストロースは考えた。そしてこのインセスト・タブーに関する考察を、『親族の基本構造』という本にまとめあげる。


『親族の基本構造』は、Amazonで一万円以上するバカなんじゃねえかと思うくらい高い本なのだけど、それはいいとして、この本はインセスト・タブーの真の目的を、「女性の交換」にあると結論づける。

たとえば、私たちは貨幣を用いてモノとモノを交換しているけれど、貨幣によるモノの交換は、人間の生存のための絶対条件ではない。今となってはもはや非現実的だけど、大昔は狩りや採集によって、あるいは農業によって、自給自足で生き延びることは十分可能だった。同じように、父母兄弟姉妹など最低限の血族結婚さえ避ければ、ただ生存するためだけならば、それでもかまわないはずなのだ。なのに、なぜ遺伝子的には無意味ともいえる範囲までインセスト・タブーを拡大し、私たちの祖先は「女性の交換」をしなければならなかったのか。

実はこれには、答えがない。「◯◯のために必要だったから」という、ありがちな考え方で女性やモノの「交換」の起源を考えることはできない。必要だから「交換」するのではなく、「交換」するから人間なのだ──と、レヴィ=ストロースは考える。そして、彼はこの話を「コミュニケーションの一般理論」というやつに発展させていく。いわく、人間は3つの水準によりコミュニケーションを行なっていて、その3つとは、財貨(経済活動)、メッセージ(言語活動)、女性(親族制度)である。

たとえば、ある男性が、妻が欲しいと思ったとする。すると、自分の母親や姉妹はもちろん、民族によってはイトコも妻として迎えることはできない。となると、どこか遠くから親族ではない女性に来てもらって、彼女に妻になってもらうしかない。そしてその妻との間にできた自分の子供も、のちに自分の新しい妻として迎えるなんてことは当然できないので、どこか知らない別の男性のところへ嫁に行ってもらうしかない。

ここから導き出せる考え方は、「自分が欲しいものは、他者から受け取り、また他者に与えなければならない」ということだ。

星に願いを託すより

と、ここでやっと今日のタイトルに結びつく。

今、私たちが欲しいものはなんだろうか。お金かもしれないし、愛かもしれないし、はたまた今はやりの「承認」かもしれない。だけど、何かに飢えている自分を見つけたら、思い出したいのは「自分が欲しいものは、他者から受け取り、また他者に与えなければならない」というレヴィ=ストロースがとなえたコミュニケーションの一般理論である。お金も、愛も、承認も、考えてみれば確かに、他者から与えられなければ手に入らない。しかしそれ以上に大切なのは、自分が受け取ったそれをまた別の他者に与え、循環させなければいけないということなのだ。なんでかは知らないけど、とにかくそうなっているらしい。逆にいうと、自分が他者に与えられないものは欲しがってはいけないとも考えられそうである。欲しがってはいけないというか、欲しいと願っても不毛なだけだ。

もし何かが欲しいと願うならば、まずは自分が、それを他者に与えることができるか・与えているかを考えたほうが早い。星に願っても不毛なだけだ。スピリチュアルな言説って大っ嫌いなのだけど、自分の実感としても、世の中に憎しみを投げると憎しみが自分に返ってくるし、世の中に愛をふりまくと愛が自分に返ってくる。ところで愛といえば、私は久里洋二の「Ai」という短編アニメが好きなのだけど、「愛」というとあのアニメの「あい……あい? あい……あい! あい……」という奇妙なセリフしか連想することができない。お暇な方はYouTubeなどで検索してみてほしい。

最後に。レヴィちゃんの本はおしなべてバカなんじゃねえかと思う値段なのだけど、『悲しき熱帯』は比較的手に入れやすいし文章自体も読みやすい。「私は旅や探検家が嫌いだ」という一文から始まる魅惑的な旅行記である。あとこのエントリは宣伝なので、連載【クレイジーJAPAN】をよろしくお願いします。

悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)

悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)

悲しき熱帯〈2〉 (中公クラシックス)

悲しき熱帯〈2〉 (中公クラシックス)

*1:ところで、昨今この「文化人類学」って聞く機会が増えた気がする。一種の流行りなのだろうか

「できる」と「できない」の間の話

Twitterで教えてくれた人がいたので、高橋秀実さんのエッセイ『はい、泳げません』を読んでみた。著者の秀実さんはカナヅチで、水が怖くてまったく泳げないのだけど、そんな秀実さんが中年になって一念発起し、スイミングスクールに通い出すというエッセイである。

はい、泳げません

はい、泳げません

が、「水泳とか興味ねーよ」という人がこのブログを読んでいる人の大半だろう。私も正直、水泳そのものにはほとんど興味がない。でも、この『はい、泳げません』という本はべらぼうに面白かった。私一人が面白いといってもきっと説得力がないので、単行本当時の帯を書いた村上春樹の言葉をここに引用しよう。

「変てこな、人の足をひっぱるような『ハウ・トゥー』本(なのか?)が、いったい世の中のどんな役に立つのか、僕には今ひとつよくわからないのだけど、まあそれはともかく、無類に面白い本です」。

そう、これはれっきとした「ハウ・トゥー」本である。ただし何のハウ・トゥーかというと、決して水泳のハウ・トゥーが書いてあるわけではない。これを読んでもたぶん泳げるようにはならない。では何のハウ・トゥーかというと、もっと広義の、今自分が「できない」あることに対して、どのように考え取り組んでいくのが正しいのか? ということ、いってみれば思考そのもののハウ・トゥーが書いてあるのだ。

どうして私は「できない」んだろう?

世の中のあらゆることには、「できる」人と「できない」人がいる。自転車に乗れる人乗れない人、泳げる人泳げない人、英語がしゃべれる人しゃべれない人、もっと複雑になると、仕事ができる人できない人、納得のいく恋愛ができる人できない人。自分がすべてにおいて「できる」側だなんて人はまずいないだろうし、反対に、自分はすべて「できない」側だという人もいないはずだ。

で、「できない」けれどあることが「できる」ようになりたい場合、練習というか鍛錬を積むことになる。あまり苦もなくすぐ「できない」から「できる」に変わるものもあるけれど、「できない」ままの状態がずっと続き、苦しむものも種類によってはある。たとえば、私は小1の頃自転車に乗る練習をし始めてわりとすぐに乗れるようになったけど、一輪車は苦手でどんなに練習しても上手くいかず、結局今もまだ一輪車には乗れないままだ。

自転車にわりとすぐに乗れるようになった人は、自転車になかなか乗れるようにならない人の気持ちはわからない。同じように、泳げる人には、泳げない人の気持ちはわからない。そんなことを示すように、『はい、泳げません』の冒頭は、「泳げる人」へ向けた秀実さんの恨み節が延々と書いてある。プールで泳いでいて人を抜く場合、挨拶があってもいいのではないかとか、泳げる人は自分さえよければそれでいいと思っているとか、泳げる人は人間として何かが欠けているとか、ゴーグルをつけた顔が怖いとか、何においてもとにかく無性に腹が立つとか、もうあまりにも卑屈というかほとんど言いがかりである。だからこの恨み節の冒頭は笑い所なのだけど(ゴーグルの顔が怖いって何だよ)、しかしまあ自分が「できない」ままの状態に長くとどまっている場合、「この世のすべてが憎い!!!」みたいな心境になることはある。私も一輪車の練習をしていた小1〜小2時代、自分の前をスイスイ通り過ぎていく同級生を見て、「こいつ頭がおかしいんじゃないか?」とよく思っていた。

しかし、泳げる人の悪口ばかり言っていても始まらないので、秀実さんはとりあえずプールの水に浸かる。が、水がとても怖い。水泳の本を読んで「水に慣れよう」「水に親しもう」「人間の体は水に浮くようにできているから大丈夫」などと書いてあっても、それを全部承知の上で怖いのだ、と反論する堂々巡りがしばらく続く。

「できる」人から見た「できない」人

この本の面白いところは、そんな卑屈なカナヅチ秀実さんと、スイミングスクールのコーチである桂さんの、往復書簡になっていることである。秀実さんの体験談が続いたあと、それを読んだ桂コーチのフィードバックが入る。そして、この「できる」人と「できない」人の認識のズレ、みたいなのがとても興味深い。通常、スイミングスクールで水泳を習っていても、その途中の心境を文章にして残すことなんてほとんどないだろう。また、それを読んだコーチ側が、文章でフィードバックを返してくれることなんてもっとない。「できる」人と「できない」人の間にはズレみたいなのが当然あるはずなのだけど、それが言語化・可視化されると、ここがこんなふうにズレてたんだ、みたいなのがわかって面白いのだ。

冒頭の卑屈な秀実さんに対して、桂コーチは「泳いでる人がプールで抜かすときに挨拶しないのは当たり前でしょうが、泳いでるんだから」とごもっともなことを返す。だけど、「それにしても、水がこんなにもこわかったのですね」とも書く。この桂コーチのパートはちょっとした答え合わせにもなっていて、ここの認識がおかしいから変えればいいんだとか、ここの考え方は普通だし合ってたとか、「できる」側は「できない」側の世界を、「できない」側は「できる」側の世界を、想像するためのヒントになっている。

あとは、単純な言った言わない論争みたいなのも「あるある」なのだけど、読んでいると面白い(というか笑える)。桂コーチはあのときこう言った、いやこうは言ってない、桂コーチはあのときこう言った、いやそれはそうじゃなくてこういうニュアンスで言ったんだ、桂コーチは言ってることがコロコロ変わる、いや秀実さんの段階に合わせてあえて変えてるんですよ、いや混乱するから変えないでくださいよ、などなど、もうホントに細かいのだけど、人間同士だとこういうことってまじでよくある。

みんな苦しかった

なんとか水に顔を浸けることには慣れた秀実さん、しかしなかなか泳げるようにならない。息継ぎができないのである。息継ぎができなくて、苦しいので、25mを泳ぎ切ることができずプールの途中で立ってしまうのだ。

すると桂コーチ、同じ水泳クラスの生徒さんたちに問いかける。

「鈴木さん、泳いでいて苦しいですか?」
「そりゃあ、苦しいですよ」
「山本さんは?」
「苦しいわよ。決まってるじゃない」
「中村さんは?」
「苦しいわ」

秀実さんは、ここで「うそ?」と驚く。自分以外は苦しくなくて、苦しくないから25mを泳ぎ切れるんだと思っていたらしい。しかし、実はみんな苦しくて、苦しいのを我慢していた。桂コーチは、驚く秀実さんに「我慢すれば息継ぎしなくても25mはいける」と説く。

しかしそうは言っても、苦しいものは苦しい。苦しいのは恐怖である。我慢すればいけると説かれても、はいわかりましたとすぐに25mいけるわけではない。が、桂コーチは「呼吸しにここに来てるんですか? 泳ぎに来てるんですよね。じゃあ泳いでください」とスパルタである。読んでるこっちが泣きそう。秀実さんも完全にビビっている。が、そう言われては仕方ないので、秀実さんは泳いでは途中で立ち怒られ、泳いでは途中で立ち怒られ、を繰り返すうちに、だんだんと25mはいけるようになってくる。しかし、「なんで立つの!」と怒り狂う桂コーチ、プールの真ん中で立ち尽くしシュンとする秀実さん、怖いのとかわいそうなのと面白いのとで、この本のいちばんの盛り上がり所である(たぶん)。

どうすれば「できる」ようになるのか

ネタバレご法度かもしれないが、結論からいうと、秀実さんは最終的に泳げる人になる。「できない」世界から「できる」世界へ、見事な飛翔を遂げる──といいたいところだが、泳げるようにはなるものの、泳げるようになっても秀実さんは未だにグジグジウジウジしている。巻末に秀実さんと桂コーチと小澤征良さん*1の鼎談があるのだけど、そこでもまだ「水が怖い」「プールに行きたくない」「泳ぎたくない」「泳げない(泳げるのに)」などと言っている。

せっかく泳げるようになったのに何でこんなに卑屈なんだ……と人によっては疑問に思うかもしれないけれど、しかしこれこそがリアルな「できる」人の世界なのだろう。水中では息が吸えなくて、それが苦しいのは泳げるようになっても変わらないのだ。各々の「できる」ことと「できない」ことを思い出してみると、心当たりがあるはずだ。

何かが「できる」ようになるためにはどうすればいいのか? となると、究極な話、「できるまで頑張る」しか道はない。しかし、できるまで頑張れないことが多いから、できるようにならない。では、「できるまで頑張る」にはどうすればいいのか、どうすれば諦めずにいられるのかというと、秀実さんみたいにエッセイのネタにするとか、ブログに書くとか、人に話すとかして、できない状況そのものを「面白がる」しかない。福音なのは、できないままでもイヤイヤでも真面目に続けていると、意外とまわりの人が世話を焼いてくれるということである。

もう一つは、「できる」人の世界を、なるべくリアルに想像することである。そして、この本はそんなリアルな「できる」人の世界を想像するのに、とても役立つ。泳げる人でも、水は怖いし息は苦しいし、プールには行きたくないのだ。

というわけで、この本はとても面白い。何かが「できない」ことで悩んでいるすべての人に、読んでみてほしいと思う。1日で読めるが、笑っちゃうので電車などで読む際は注意が必要だ。

最後に、このエッセイは以前紹介した高野秀行さんの『腰痛探検家』の続編として読むと、理解が深まる。『腰痛探検家』は「解決したい悩みがあるけどどうしたらいいかわからない」人へ、『はい、泳げません』は「どうしたらいいのかはなんとなくわかるんだけどできない」人へ、贈りたいエッセイである。どちらも、読み物として一級品であることを私が保証する。
aniram-czech.hatenablog.com

*1:指揮者の小澤征爾さんの娘。桂コーチの生徒だったらしい

タラレバ娘、抗えない老い、後悔、そして『騎士団長殺し』

村上春樹の最新長編小説『騎士団長殺し』の感想を書く。物語の核心に触れないよう細心の注意を払うけど(つまり、まだ読んでない人が目にしても大丈夫なように書くけど)、とはいえ「何も知らない状態で『騎士団長殺し』を読みたいんだッ!」という人にはこの感想はスルーしてもらったほうがいいと思う。本を読み終わったらまたブログを読みに来てください。

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

ある時点に戻ってひとつの間違いを修正できたとしても

まず読み終わって最初に思ってしまったのは、村上春樹ももう68歳、作家としては大ベテランだ。『騎士団長殺し』も過去の作品の焼き直し感が強く、特に目新しい手法が導入されていたようには思えなかった。もちろん小説として面白かったし、夢中で最後まで一気に読んでしまったけれど、村上春樹ファン以外に特別にこの作品をすすめたいか、と問われると答えはNOである。上巻で張り巡らされた伏線が下巻でカチカチとパズルがはまるように回収されていくのだけど、そのパズルが鮮やかすぎるというか、「上手くなりすぎちゃったなあ」と思ってしまったのが正直なところだ。私はもう少し、不格好でイビツで危なっかしいほうが個人的には好みである。まあ、それは読む前からある程度予測できていたことでもあるので、ここでは特に深入りしない。

それが全体的な印象ではあるのだけど、『騎士団長殺し』で個人的にグッときた部分をあげると、下巻で主人公が自らの結婚生活を振り返るシーンがある。この小説の主人公は36歳で、肖像画を描く仕事をしているのだけど、ある日突然妻から離婚を切り出されてしまうのだ。そしてそのことを、近隣に住む免色(メンシキ)という中年の男と、こんなふうに語る。

「結婚生活について悔やんでいることはなくはありません。しかしもしある時点に戻ってひとつの間違いを修正できたとしても、やはり同じような結果を迎えていたんじゃないかな」
「あなたの中に何か変更のきかない傾向のようなものがあって、それが結婚生活の障害となったということですか?」
「あるいはぼくの中に変更のきかない傾向みたいなものが欠如していて、それが結婚生活の障害になったのかもしれません」


p.140『騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編


「ある時点に戻ってひとつの間違いを修正できたとしても」、やはり同じ結果を迎える。私は人生において後悔というものをほとんどしたことがない人間なのだけど、それは「いついかなるときも目の前のことを全力で(しかし客観性は失わず)やってきたからですっ!」なんて理由からでは全然なくて、一種の諦念から来ているというか、ひとつくらいの選択を変えたところでどうせ人生はたいして変わらないだろう、という感覚を持っているからだ。「あのときああしてたらよかった」なんて思わない。「あのときああしていたとしてもきっと同じだった」と思う。だから「〜していたら」「〜していれば」なんて全然考えないのだけど、他の人は人生に対してどういう感覚を持っているのだろう。「タラ」「レバ」で自分の人生の可能性を広げて考えることができる、というのはけっこう幸福かもしれない。私の場合はまさに、自分の中に変更のきかない傾向のようなものがあって、それが人生の障害になっている。あるいは強みになっている。そういう感覚があるので、この主人公にはけっこう共感を覚えることができた。人生を点として考えるか(そしてそこから様々に枝分かれする)、線として考えるか(一時的に枝分かれしているように見えても最終的には同じ場所に着地する)。

そして、村上春樹の小説に通じているその一貫した「諦念」のようなものが、やはり私は好きなのだった。運命には抗えないというか、配られたカードで勝負するしかないというか。天から授けられたgiftに変更はきかないし、文句をいうこともできないのだ。

待ってください。あともう少しすれば──

『騎士団長殺し』の主題はなんだったのか? という話になると、それは「老い」と「子供」になるのかな、と思う。生きていると、人は老いる。世の中にはお金持ちも貧乏も、男も女も、モテる人もモテない人も、いろいろいる。だけど唯一、時間だけは平等で、「やがて老いて死ぬ」という点は残酷なことに、どんな人であっても皆同じだ。

この小説の主人公は前述したように36歳なのだけど、その主人公が追いかける存在として、90代の老齢画家・雨田具彦という人物が登場する。この老齢画家は意識が混濁していて、養護施設に入所しており、マトモな話ができる状態ではない。しかし、それは主人公そして我々が、遅かれ早かれ向かっていく避けられない姿でもある。

作者の村上春樹がなんといっても68歳なのでそういう描写にならざるを得ないのだろうけど、この小説における36歳という年齢は、まだまだ未熟な若者だ。死ぬまでの時間は、基本的にはたっぷりと残っている。が、たっぷりと残っているように見えても、それが刻一刻と減っていっていることに変わりはない。だからプロローグで、肖像画家である主人公は焦っている。ある人物に対して、あなたの顔はまだ自分には描けない、と。そして、「待ってください。あともう少しすれば──」と訴える。主人公はそうすることでとりあえずの猶予を得られるけど、しかしあと何回、チャンスがあるかはわからない。

どうしたらそのある人物の顔が、主人公は描けるようになるのか。時間を味方につけるしかない。「老い」は一般的にはネガティブな響きをともなうけど、誰にでも平等に訪れる避けられないものなのだとしたら、敵にまわすより味方につけたほうが賢明だ。だから老いることを、時間が過ぎていくことを、味方にするしかない。村上春樹自身も老齢に差し掛かっているので、この人は自分のために、そんなメッセージを込めた『騎士団長殺し』を書いたのかな、と思った。

村上春樹の小説はファンタジー要素が多いし、登場人物もすぐにパスタ茹でたりセックスしたりするのであまり現実味がないというか、個人的な香りがしないのだけど、唯一このプロローグには村上春樹自身の個人的な香りが、少しするような気が私にはした。あともう少し、時間をくださいと。まだ書きたいことがある、でも書けるようにならないんだ、と。だけどきっと、「完成」など迎えられるはずもなく、未完成のまま、中途半端に人は死ぬのだろう。

「子供」については、たぶん私以外にも感想で触れる人がたくさんいると思うので、ここでは特に言及しない。だけど繰り返すように、村上春樹自身がトシだから、「老い」とは何か、そして遺伝子的な子供を持つ人も持たない人も、何を残して自分は死ぬのか。そんなことを考える小説にしたかったのかなあと思った。

冒頭に書いたように、村上春樹ファン以外の人に特におすすめできるような要素がある小説ではない。だけど、「老い」について考えてみたい人が読むと、何がしかのヒントは得られるかもしれない。そして、「スタイルが完成されすぎちゃって上手くなりすぎちゃって面白くない」村上春樹が、そこからどう老年をあがくのかを私はメタ的に楽しみにしているので、今後も、村上春樹の小説は問答無用で発売日に買って読むと思う。まあ、こういうのは一種のお祭りだからこれでいいのだ。

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