チェコ好きの日記

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2017年上半期に読んで面白かった本ベスト10

2017年上半期が終了したので、今年の1月から6月にかけて、私が読んだ本の中で面白かったものを10冊まとめておきます。この時期恒例のやつです。長いので注意!

ちなみに2016年編はこちらです。
aniram-czech.hatenablog.com

10位 『悲しき熱帯〈1〉〈2〉』レヴィ=ストロース

悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)

悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)

悲しき熱帯〈2〉 (中公クラシックス)

悲しき熱帯〈2〉 (中公クラシックス)

本書は「私は旅や探検家が嫌いだ」という有名な一文から始まる文化人類者・レヴィ=ストロースのフィールドワーク体験記。主な舞台は中南米とインド。なぜ旅が嫌いかというと、現地で自分が体験した疲労、空腹、病気、危険、そういったものは語ることによってすべて、口当たりのいい食物として呑み下されてしまうかららしい。

これは何となくわからんでもない話で、私も旅の中でもっとも色濃く記憶しているのは、疲労困憊で意識が朦朧としていた瞬間のことだったりする。具体的にいうと、大嵐の中、船酔いしまくりながらスペインからモロッコへ渡るためジブラルタル海峡を越えた日のことですね。いちばん最悪な日だったのに、いちばん目に入ってきたものが美しい日だった。それを他人に綺麗なところだけ切り取られてしまうと、ちょっと違うんだよなーと思ってしまう。あの美しさは、あの最悪さとセットなのだ。

9位 『センス・オブ・ワンダーレイチェル・カーソン

センス・オブ・ワンダー

センス・オブ・ワンダー

センス・オブ・ワンダー』は、著者のレイチェル・カーソンが甥のロジャーに捧げて書いた本。ロジャーと一緒に海辺や森を散歩しながら、そこに住む様々な生き物や植物の1つ1つにすごくびっくりする。

人間は飽きる生き物で、飽きると退屈する。ただそういうとき、安易にお祭り騒ぎをしてみたり強い刺激を求めたりしてしまうと、感覚が麻痺してしまう。退屈だな〜と思ったときは、自分の中の「センス・オブ・ワンダー(美しいもの、未知なもの、神秘的なものに目を見はる感性)」が何かに反応するのを、じっと待っているのがいい。本書はその「センス・オブ・ワンダー」を呼び覚ます一助となるはずだ。

誰が言ってたのか忘れたけど(村上春樹?)、人は恋が始まるとき「あなたのことをもっと知りたい」と思い、恋が終わるとき「あなたのことはもうわかった」と思うという。なかなか言い得て妙だ。世界に対しても同じで、「わからない、知りたい、びっくりする」は生きる原動力になり、「だいたいわかった、もう知っている」は人を死に向かわせるのだろう。本書の終わりの部分には、「死に臨んだとき、わたしの最期の瞬間を支えてくれるものは、この先に何があるのかというかぎりない好奇心だろうね」という言葉がある。

8位 『アピチャッポン・ウィーラセタクン──光と記憶のアーティスト』夏目深雪ほか

アピチャッポン・ウィーラセタクン  ──光と記憶のアーティスト

アピチャッポン・ウィーラセタクン ──光と記憶のアーティスト

アピチャッポン・ウィーラセタクンという超覚えにくい名前のこの人は、タイの映画監督である。20世紀の映画史におけるもっとも重要な人物がジャン=リュック・ゴダールであるとするなら、21世紀におけるもっとも重要な人物はアピチャッポンであると言われている。

私はアピチャッポンの映画を観るといつも途中で寝てしまう。だけどそれはつまらないからではなくて、一種の催眠のようなものだと思っている。途中で目が覚めたとき、映画のシーンと自分がうたた寝しながら見ていた夢が混ざり合っていて、ものすごく変な気分になる。

いちばん好きな作品は『ブンミおじさんの森』なのだけど、ブンミおじさんというのは実在の人物らしい。ブンミさんは、自分の生きた複数の人生のことをすべて記憶している。水牛だったときのこと、王女だったときのこと、さまよう亡霊だったときのこと。ブンミさんには映画はいらない。だけど、私たちは今のこの1つの人生しか覚えていないから、映画という記憶の集合体が必要なのだ……みたいなことを本書でアピチャッポンが語っている。

7位 『鬱屈精神科医、占いにすがる』春日武彦

これはすでに感想を書いているので割愛。

『鬱屈精神科医、占いにすがる』を読む - チェコ好きの日記

6位 『永い言い訳西川美和

永い言い訳 (文春文庫)

永い言い訳 (文春文庫)

映画を観るのがめんどくさかったので小説を読んだ。妻をバスの事故で亡くした小説家が主人公。

詳しくはネタバレしそうなので書かないけれど、私は『ベルサイユのばら』の最後のほうにあるマリー・アントワネットの独白がすごく好きだ。アントワネットは若い頃、派手な生活を送りながら、ダサい夫は放ったらかしにしてスウェーデンの貴族フェルゼンと熱烈な恋に溺れる。だけど晩年、夫ルイ16世が処刑されるという段階になって、「恋ではなかったのかもしれない。フェルゼンとの恋のように燃えるような思いを夫に抱いたことはなかった。でも、フェルゼンとは違った形で、私は夫を確かに愛していたのだ」みたいなことを言う。

人と人との繋がりは、本当は「夫婦」や「恋人」なんていう言葉にはあてはめられないくらい多様で歪で、二人の関係の本質は、当事者の二人以外が理解することはできない。そういうことを考えた小説だった。

5位 『バッタを倒しにアフリカへ』前野ウルド浩太郎

バッタを倒しにアフリカへ (光文社新書)

バッタを倒しにアフリカへ (光文社新書)

バッタが大好きで、夢はバッタに食べられること──そんなバッタを愛してやまない著者が研究のためモーリタニア渡航するが、アフリカで計画が予定通りに進むことはまずないといっていい。夜の砂漠で迷子になったり(怖い)、サソリに噛まれて死にそうになったり(超怖い)、野生のハリネズミと友達になったり(楽しそう)、研究職に就けるかヒヤヒヤしたりしながら、バッタの群れを追いかけまくる。

著者は最終的には無事に京大の研究職のポストをゲットするのだけど、本書はとにかくユーモアとエンタメ性を重視して書かれているのでとても楽しい。緑色の全身タイツを着てバッタの群れに飛び込み「私を食べたまえ!」とかまえる著者の写真だけでも、書店で立ち読みして見てみるといいと思う。狂ってる。

4位 『中動態の世界』國分功一郎

これも感想をすでに書いているので割愛。

自身には冷酷に、そして他者には寛容に:『中動態の世界』 - チェコ好きの日記


3位 『恋するソマリア高野秀行

恋するソマリア

恋するソマリア

上半期に読んだ『恋するソマリア』はベストセラーになった『謎の独立国家ソマリランド そして海賊国家プントランドと戦国南部ソマリア (集英社文庫)』の続編だけど、前作よりエッセイっぽいというか、抒情的なので、個人的にはこちらのほうが好き。

本書の主人公は、表紙にもなっているソマリア美女のハムディ。ただし彼女はただの美女ではなく、ホーン・ケーブルTVというテレビ局の剛腕なボスである。高野さんいわくハムディは「母性本能」と「ボス性本能」を持ち合わせており、イスラム過激派アル・シャバーブが潜む南部ソマリアの戦地をレポーターとして駆け回る。州知事から脅しの電話がかかってきても動じず、「私は有名になりたいの。目標は大統領になること」と言って笑う。同僚の男が自分の前で下ネタをいえばサンダルでぶっ叩く、そんな22歳! いい女すぎて手も足も出ない。

最終的には彼女は「敵が増えすぎた」といってノルウェーで難民申請をするのだけど、「先進国の大学を出て政治家になる」と命を狙われてもなお野心満々。高野さんもハムディのことが大好きで、世話になりすぎて始終頭が上がらない感じでいるのもまた面白い。

2位 『はい、泳げません』高橋秀実

はい、泳げません (新潮文庫)

はい、泳げません (新潮文庫)

これもすでに感想を書いているので割愛。

「できる」と「できない」の間の話 - チェコ好きの日記

1位 『バビロンに帰るスコット・フィッツジェラルド

バビロンに帰る―ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック〈2〉 (村上春樹翻訳ライブラリー)

バビロンに帰る―ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック〈2〉 (村上春樹翻訳ライブラリー)

表題作の『バビロンに帰る』は、主人公の男が、自分の娘を迎えに行くためにかつて住んでいた街へ帰るという話だ。

その街に住んでいたころ、自分は酒を飲んで奔放に遊びまわり、妻を病気にさせて亡くしてしまった。当然、主人公は妻の親族に嫌われ、娘も妻の姉夫婦が引き取って育てていた。若き日の後悔、死んだ妻への思い、自分にはもう娘しかいないという孤独──という、フィッツジェラルド作品でおなじみのなよなよとした女々しいストーリー。私なんでこんなのが好きなんだろうな〜でも超泣けるんだよな〜。

本書には訳者・村上春樹のエッセイもついているのだけど、このエッセイがまた泣かせる。私は村上春樹の小説は実のところそんなに好きじゃないけど、村上春樹のエッセイと翻訳はやっぱり死ぬほど好きみたいだ。

フィッツジェラルドは、精神を病んだ妻に対して「僕はもうゼルダをかつてのようには愛していない。僕の中には彼女に対する深い同情があるだけだ」と何度か周囲に漏らしていたらしい。この部分はなんだか、『永い言い訳』で夏子が残した「もう愛していない。ひとかけらも。」というメッセージを想起させる。だけど、恋が愛に変わり、その愛すら希薄になってもまだ続く二人の関係というのはある。フィッツジェラルドはそれを「同情」と言っているが、その本質はやはりフィッツジェラルドゼルダの間にしかない独特のもので、他者が理解することはできないのだろう。


というわけで、最後はちょっと辛気臭くなってしまったけど、下半期も頑張りましょう。

自身には冷酷に、そして他者には寛容に:『中動態の世界』

「自分の頭で考える」「自分の幸せの定義は自分で決める」

なーんて言葉をよく耳にするようになって早数年、当初はそれなりに目新しかったこれらの言葉も今じゃすっかり手垢がついたように感じられ、むしろ陳腐にすら聞こえる。それは私自身が、自分の1つ1つの選択に関して「これは本当に私の意志か? どこまでが私の意志だ?」と疑い出したらキリがなくなってしまったということがあって、今年の2月にはちょうどこんなツイートをしている。

そしたらちょうど都合よく、この私の疑問を徹底的に考え尽くしている書籍があった。國分功一郎さんの『中動態の世界』である。これを読んで、はたして「自分の意志」というのを私たちはどのレベルまで信用していいのか、ということを今回はちょっと考えてみたい。

──ちょっと寂しい。それぐらいの人間関係を続けられるのが大切って言ってましたよね。
「そうそう、でも、私たちってそもそも自分がすごく寂しいんだってことも分かってないのね」

──ああ、それはちょっと分かるかもしれないです。
「だから健康な人と出会うと、寂しいって感じちゃう」


『中動態の世界』p2

ハーバードに入れたのはあなたの実力ですか?

いきなり本の話ではないところに飛ぶのだけど、数年前にマイケル・サンデル先生の「ハーバード白熱教室」という番組が流行った。そこでサンデル先生が出していた印象的な議題があるのだけど、教壇のサンデル先生は学生たちに、「君たちの中で、自分の努力と実力でハーバード大学に入ったと思う者は手をあげなさい」と聞いていた。

大多数の学生がそこで手をあげたのだけど、サンデル先生はそれを一蹴する。

「なるほど、君たちは確かにここに来るためによく努力をした。しかし、その『雑事を気にせず勉強に集中できる』という環境、努力を奨励してもらえる環境、それらの多くは君たちの親御さんの教養や経済力が実現したものだ。そして、そんな親御さんの元に君たちが生まれることができたのはただの偶然であって、君たちの努力の結果ではない。つまり、君たちがここにいるのは努力とか実力とかじゃなくてただの偶然である」と、だいたいそんなことを話していた。

私はハーバード大学の出身ではないのでただの僻みに聞こえるかもしれないけど、確かに、と思った。自分の意志、自分の実力、自分の努力、それってあんまり信用ならないものなんじゃないか? と私が疑問を抱いたのは、思えばここが始まりだった気がする。

『中動態の世界』で展開されていくのは、平たくいうと上のサンデル先生のような話である。たとえば、「カツアゲされたのでしぶしぶ財布からお金を出す」は【自分の意志】か? 「本当はラーメンが食べたかったけど、友達が蕎麦を食べようと言ってきたのでまあいっかと思い蕎麦屋に行った」は【自分の意志】か? ……などなど。

前者は拒否すると暴力的な圧力を加えられるので【自分の意志じゃない】けど、後者は拒否しようと思えば拒否できるので【自分の意志】である──とか考えていくこともできなくはないけど、たとえば友達といえど自分がのび太で相手がジャイアンだったりした場合は? なんて可能性を考えると、こういう区分けは実はめちゃくちゃ難しいということがわかる。物騒な話につなげると、たとえば強姦の加害者と被害者の間で「同意があった」「いやあれは同意ではなかった」ということで揉めることがあるけれど、これも被害者が【自分の意志】で行為を受け入れたか否かを第三者的に判断するのはすごく難しい(私は女性なので、個人的にはできるだけ女性の味方をしたいけど)。【自分の意志】の所在は実はかなり曖昧で、他者が(あるいは自分が)都合のいいように捻じ曲げることも十分可能だ。

身近に起きていることでちょっとした皮肉をいうと、たとえば「会社員を辞めてフリーランスになります! フリーランスという生き方を、ぼくは【自分の意志】で選択したのです! 社畜乙!」みたいなことを言っている人を見ると、「ふう〜〜〜〜ん」と思う。確かに、その選択はなかなか立派なものだ。ただ、もし今が2017年じゃなくて1970年だったら、1900年だったら、1800年だったら? とか考えると、絶対にフリーランスなんて生き方をあなたは選ばないじゃん、というかそもそもフリーランスという生き方を選択できるのはインターネットやテクノロジーの恩恵であってあなたの意志はそこにないじゃん、それは【自分の意志】って本当に言い切れる? 環境にその選択をさせられているだけ、と考えることはできない?【自分の意志】の存在を驕りすぎでは? なーんて思ってしまう。まあこれは私の性格が悪いからですけど……。

性格が悪いことは認めるけれど、著者の國分さんもこの本で「われわれはどれだけ能動に見えようとも、完全な能動、純粋無垢な能動ではありえない。外部の原因を完全に排することは様態には叶わない願いだからである。完全に能動たりうるのは、自らの外部をもたない神だけである(p258)*1」と書いているので、私の指摘もあながち的外れとも言い切れないのではないだろうか。

と、まあそれを言い出すとキリがないので

『中動態の世界』を読み進めていくと、「つまり【私の意志】なんてのはどこにもないんだ、あるのは【そうさせる環境】だけだ……」という虚無的な思想に陥っていくのだけど、しかし実生活でこの思想を適用するのはあまりにも「飛びすぎ」であることは認める。「自分の生き方を自分で決める」とか「自分の幸せの定義は自分で決める」とかは、環境要因を完璧に排除することはできない以上100%は無理だけど、60%くらいは実現したい、ですよね。

そのために必要なのは、本書にあるスピノザの考えを借りると、「状態を明晰に認識する」ことであるという。つまり、ある種のメタ思考だ。これを私の言葉で言い直すと「自身には冷酷に、そして他者には寛容に」ということになる。

たとえば、私がハーバード大学の出身でなんかの会社を起業して儲けまくってウハウハな上にイケメンでモテモテだとする(想像力が貧困ですいません)。ただ、それは私の意志・実力ではない。ハーバードに入れてウハウハな会社を作れたのはそういう環境に生まれることができてラッキーだったからだけだし、イケメンなのは言わずもがな、自分が努力したからではない。そういう環境にいたのがたまたま自分だったのだ。*2どんなに調子のいいことがあっても、自身に対してはそういう冷酷な視線を持っていたいし、だからこそ欧米では寄付文化とかが盛んなのだろう。

他者に対しては、たとえば本書の例を採用すると、よくわかんないけどなんかめっちゃ怒ってる人がここにいたとする。そういうとき、「こいつ何怒ってんの?」と考えるのではなく、「何がこの人を【怒らせた】のだろう?」と考える。その人自身に責任を負わせるのではなく、外部要因を考えてみる。アルコール依存症の人を見かけたら、「自分の意志で酒をやめられない弱い奴」と考えるのではなく、「何がこの人に酒を【飲ませる】のだろう?」と考える。確かに、そういう考え方の癖をつけると、他者に寛容な、優しい視線を持てる気がする。全部偶然だし、たまたまだし、持ちつ持たれつだし、お互い様なのだ。

自分の生き方を自分で決めたい。だけど、私たちは60%(あるいはもっと少ない)くらいしか、自分のことを自分で決められない。良くも悪くも、誰においても、外部に左右されない人間というのはいない。

空虚感にやられる考え方ではある。ただ、この考え方を出発点にしたい、とは思う。ここからスタートして初めて、【自分の意志】の範囲をちょっとだけ広げることができるのだろう。

まあ、ほんとにちょっと、ちょっとだけかもしれないけれど。

おまけ:「自分の意志ってやっぱよくわかんないな」がわかる本

利己的な遺伝子 <増補新装版>

利己的な遺伝子 <増補新装版>

私たちはすべて遺伝子のヴィークルであり、魅力的な異性を魅力的だと判断するのは自分の意志ではなく、生殖に有利そうだから、みたいな遺伝子の判断であることが多いという話。自分の意志より遺伝子のほうが強い。

「自分の意志で判断した!」と思い込んでいることも、無意識レベルの脳の反応であるというようなことを様々な実験結果から説いている本。やはり、「自分の意志」なんかでは説明のつかないことのほうが多い。

(哲学の世界と生物学・脳科学の世界がつながったー! 感があり、どの本も非常に刺激的です。)

*1:下線はわたくし

*2:この考えを悪いほうに応用すると、自分の調子が悪いときに「これはアタシのせいじゃなくてまわりが【そうさせる】のが悪いのよ!」となってしまうので注意したい。が、「何が私を【調子悪くさせている】のだろう?」と第三者的に考えることは、やっぱり有効である気がする。自分を責めすぎるのは良くない。

旅行に飽きたので、演劇とかやりたい。

ブライアン・クランストンという役者がいる。アメリカのテレビドラマ『ブレイキング・バッド』の主演俳優で、がんを患い余命2年を宣告された化学教師を演じている人だ。死ぬ前に家族に財産を残そうと、この人は覚せい剤の製造密売に手を染めていく。


Breaking Bad Trailer for STRAIN THEORY

で、同じくブライアン・クランストンが主演を務めているのが映画『潜入者』。こちらは、コロンビアの麻薬王の息の根を止めるため、ベテラン捜査官のロバート・メイザーが麻薬組織の潜入捜査に挑むという実話をもとにした作品だ。


潜入捜査官の衝撃の実話を映画化! 『潜入者』 予告篇

この映画でブライアン・クランストンは、ベテラン捜査官というエリートの顔と、潜入のため麻薬カルテルに近づく裏社会の男の顔とを演じ分けているのだけど、これは一言でいうと「怪演」である。エリートでいるときのロバートと、裏社会の男でいるときのロバートは、まったくの別人に見える。仕草、姿勢、言葉遣い、目線のやり方、それらがちょっとちがうだけで、同じ顔をした男が同一人物に思えない。

さらにいえば、ブライアン・クランストンは『ブレイキング・バッド』で冴えない中年の教師を演じているわけだけど、これもまったくちがう人物みたいに見える。私は『潜入者』の主演が『ブレイキング・バッド』の人であると知った上で映画を観に行ったのだけど、最初は「え、どれがブライアン・クランストン?」と思ってポカーンとしていた。思いっきり主演で映りまくっていたのに気づかなかった。

日本の俳優は、これは文句ではなくてそういう特徴があると言っているだけなのだけど、「雰囲気」で役者をやっている人が多い印象がある。てきとうに例をあげると、窪塚洋介とかはどの映画・ドラマでも全部「やんちゃなキチガイ」みたいな役である。作品が変わるたびに「えっ、これ誰?」みたいになる役者は少ないように思うのですが、どうでしょう。

別にどちらが良い悪いではないんだけど、私はこの2作品3役を見て、「ブライアン・クランストンめちゃめちゃかっこいいな……!」と思ってしまった。雰囲気で魅せちゃう人も素敵だけど、映画のために自分は「コマ」になることに徹する泥臭いプロ根性とか、単純にその役者としての技術の高さとかに、感動してしまった。そして妙な言い方になるけど、同時に、「こんなふうに仕草や言葉遣いを変えることで別人みたいになれたら、きっと楽しいだろうな〜!」と思った。


と、ここまでが前置きで以下から本題なのだけれど、最近、旅行に飽きている。

理由はたぶん、20代のときに行きたい場所にはだいたい行ってしまったからだ。まあそれでも細かく考えると行きたい場所はまだまだあるが、「この場所を見るまでは死んでも死ねない」みたいな強い憧れを抱いているところはもうなくなってしまった。別の言い方をすると、Lv30で倒せる敵はもうあらかた倒してしまったので、次の敵に立ち向かうためにはやみくもに旅に出るのではなく、まずは自分のレベルを30から40くらいまで上げてからじゃないとあんま面白くないな〜と思うようになってしまった。

なので、最近は「いかにしてレベルを上げるか」ということにご執心な私なのだが、「これやるとレベルアップできるのでは……?」とアタリをつけているのが、「身体(芸術)」とか「非言語」の分野である。格闘技を頑張っているのはそのためだし、「演劇をやりたい」というのは本当に役者を目指して演技を学びたいわけじゃなく一種のたとえなのだけど、ブライアン・クランストンみたいになれたら楽しいんだろうな、というのは今本当に思っていることだ。「私以外私じゃない」のは知ってたけど、「私だってそんなに私じゃない」のかもしれない。他人を支配したりコントロールすることはできないって知ってたけど、自分の体だって、自分が思ったとおりには動かないことがある。

演技したり、踊ったり、走ったりしたら楽しいんだろうなと思う。

今の気持ちを飾らずに率直に言うと、デヴィッド・リンチの『インランド・エンパイア』のエンディングに出てくるおねーちゃんたちに混ぜてもらいたい!

Inland Empire ending

「メンタルが強い」とはどういうことか

昔、知人に聞いた話だけど、彼が中学生くらいの頃、学校で「失神ゲーム」なるものが流行したことがあるらしい。

何回か深く深呼吸したあと、息を止めて胸を圧迫するような体勢をとり、その背中を友達が思いっきり叩く。すると、気絶したような状態になるので、その浮遊するような酩酊を楽しむことができる。

「それって危ないのでは……?」と聞くと、「危ないよ」と即答された。実際、このゲームがきっかけで脳に障害が残ることもあるし、そうすれば友達同士で同意の上とはいえ、傷害罪に問われることもある。なんでそんな物騒な遊びするのかしら、もうほんと男子ってやーね、と話を聞いた私は思った。

そんな失神ゲームのことはどうでもよくて、今回は中村うさぎさんの話をしたい。KindleUnlimitedに(またか)、『ショッピングの女王』なるエッセイが入っているのだけど、面白かった。全5巻。

ショッピングの女王

ショッピングの女王

中村うさぎさんといえば、買い物依存症、ホスト狂い、整形、デリヘル嬢と、女の業という業を全部抱え込んでやってみちゃいましたみたいな人だ。しかし、「性」「ジェンダー」「フェミニズム」などがテーマになっている『私という病』は、良い本ではあるがちょっと重いな、と思わなくもない。

私という病 (新潮文庫)

私という病 (新潮文庫)

重い本には重い本ゆえの良さがあるのでそれは別にいいのだけど、一方『ショッピングの女王』はこのマンガ調の表紙からもわかるように、どこまでも軽い。

タイトルのとおり、これは、ショッピングの女王と化した中村うさぎ買い物依存症になった際の体験をつづったものだ。だけど、悲壮感がまったくない。シャネル、グッチ、ドルガバ、エルメス、超高級ブランドの靴やらコートやらスーツやら鞄やらを毎度毎度ドタバタ買っては家のソファに蟻塚のように積み上げていく。蟻塚にあるぐちゃぐちゃになった服の山の値段を勘定してみたら、なんと400万円。いくら売れっ子とはいえ、作家ってそんなに儲かるのか!?と思ったら、毎月のカード引き落とし日には借金のアテをたどって遁走し、出版社から印税を前借りし、住民税や国保を滞納し、区役所に銀行口座を差し押さえられる。何十万もするシャネルのスーツは買うけれど、ガス代と電話代は払えない。まあ、控え目に言っても人間のクズだと思う。

4巻に差し掛かると、今度は買い物に飽きたのか、ホストにハマる。自分が指名したホストの順位が悪いと悔しいから、見栄と意地でドンペリをガンガンあけ、散財の額は一晩で50万、100万、120万と釣りあがっていく。こういう金の使い方をしてみたいかと問われたら私自身はしたくないし(嘘。ちょっとしてみたい)、身を滅ぼすのでほんとやめたほうがいいよと思うんだけど、しかし中村うさぎが湯水のごとく思いっきり金を使うと、ちょっと気持ちいい。これは何も、私の性格が悪いからではないだろう(たぶん)。

買い物依存症になってしまった心の病について、など語らない。『ショッピングの女王』の文章はどこまでもユーモアたっぷりで読者を笑わせ、品はないけど、「あっぱれ!」と拍手したくなるような底抜けの明るさがある。

以前書いたブログと同じ結論になってしまうけど、「誘惑から身を守るように生きている人間と、誘惑の波に溺れてもなお岸にたどりつける人間と、どちらが強いといえるのか」。これはもちろん、後者だろう。別に強い人がえらいというわけじゃないし、下らない誘惑から身を守って丁寧に生きることだって、尊いと思うけど。というかそもそも、普通に生きていたら誘惑なんてそんなにない。「誘惑が多い」と感じるならば、それはある意味才能だ。

中村うさぎのエッセイを読んで、なぜか知人が昔話していた、失神ゲームのことを思い出してしまった。これは冗談抜きで危ないからやっちゃだめなんだけど、限界の一歩手前で引いて帰って来なくちゃだめ、なんてことはない。限界をこえてもなお自分を保ち続けられる人というのが、いちばん「メンタルが強い」のだと思う。まあそれ、心を鍛えてどうにかなるもんでもなさそうだし、凡人には無理じゃんって話になっちゃうのかもしれないけど……。

もう少し現実的によせた話をすると、人間は調子の良いときではなく、調子の悪いときにこそ、真価が問われるのだと思う。

格闘日記② 〜短足はつらいよ編〜

「せんせー、テストを担当するせんせーは、だれに、なる、ますか?」


私の横で、上手とカタコトの中間くらいの日本語でトレーナーに質問しているのは、フランス人のシルヴィである。

「あー、担当トレーナーは当日まで教えられない規則なんですよ。申し訳ないけど」
「え〜〜、でも、わたし、初めてのせんせーだと、日本語が、聞きとれないかも……です。フランス人だから」

シルヴィいわく、慣れているトレーナーならばアクセントの癖などを把握しているので日本語の指示が聞きとれるが、対面するのが初めてのトレーナーだと言葉を聞きとりづらいことがあるらしく、それが不安だというのである。

「そういうことなら、ちょっと掛け合ってみるけど、僕からはなんとも言えないっていうか」
「せんせー、お願い。お願いします〜〜〜」


棒のように突っ立っている私の横で、トレーナーに必死に懇願するシルヴィ。私も一緒になんかいってあげようかなと思ったけれど、ていうか本来はそのために横にいるんだけど、いうべきことが思いつかない。トレーナーとシルヴィの顔を交互に見ながら、「そっスよね」「うん、そっスよね」といった具合で、無言で頷くことしかできなかった。

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シルヴィとは、練習日のタイミングが重なることが多く、気が付いたら毎回一緒にペアを組んで練習する仲になっていた。シルヴィは私よりだいぶ身長が高いし筋肉量も多いので、体格の上で最適な練習相手といえるかどうかはわからない。とはいえ、いつも誰と組むかわからない状態で練習に行くよりは、「今日もシルヴィがいるかも」と思いながら教室に行くほうが精神的にはだいぶラクだ。そのうち、通っている回数もほぼ同じであることが会話しているうちに判明し、「一緒の日に昇級テストを受けようぜ!」という中学生のような約束を、私とシルヴィは交わした。


「わたし、顔面を防御する練習のとき、すごく不利〜〜。なぜならフランス人で、鼻が高いから。フフフ」


彼女はいつも絶妙なフレンチ・ジョークで私を笑わせてくれる。文章で書くとあんま面白くないが、実際に彼女がいうと、なんだかとても気の利いた冗談であるような気がしてしまう。うーん、これがエスプリってやつなのだろうか。私もウィットに富んでかつエスプリの効いたジョークをさらっとかませる人間になりたいぞ。


さらに、シルヴィと話していると、自身の日本語能力を試されている気分になる。

「あのー、日本語の質問デス。わたしは、テストを、受ける。せんせーは、テストを、なんという?」
「えっ、『受けさせる』じゃない……???」
「へ〜〜、ほんとに? ほんとに『受けさせる』〜〜〜!?」
「え、たぶん……。間違ってたら、ごめん…………」

他、「足の指のことはなんという?」「えっ、足の指は、『足の指』でいいんじゃない……?」などなど、私はシルヴィに日本語の質問をされるといつも挙動不審になりオドオドしてしまう。そしてその場でiPhoneを取り出しGoogle先生に「足の指 別 言い方」とあまり賢いとは思えないお伺いを立て、「いや、やっぱ、足の指は『足の指』だと思う……」と自信なさげに再度返答し、「ほんとに〜〜!?」と疑われ、ますます日本語の自信を失っていくのであった。
(※これに関しては後日、シルヴィは「親指」「中指」など個別の指の名称を知りたかったのだということが判明した。)


そんなシルヴィに、「テストについて、せんせーに聞きたいことがあるから、一緒に来てっ」と頼まれると断れない。冷静に考えると「大人なんだから質問くらい一人で行ってくれよ」という感じであるが、シルヴィの前では私はどうも「NOと言えない日本人」になってしまうらしかった。

かくして、齢30歳にして「友達が先生に質問するのにくっついてく」というめちゃめちゃ既視感のある貴重な体験をさせてもらうことができ、シルヴィが「せんせー」と呼びかけている横で、「うわ、これ昔めっちゃやったやつ。中学生のときにやったやつ」と私は15年前の記憶を蘇らせていた。なんか、テスト範囲とかについてやたら細かい質問を先生にしたがる女子、いませんでしたか。私はそういう子に、こんなふうによく「一緒に来てっ」と言われてくっついていって、先生とその子のやりとりを何も言わずに聞きながら「早く帰りてえな〜」と思っていた。それからさ、私も一応女子だったから、得体の知れないカラフルなペンで手紙とか書いて、それをハート形に折って授業中に友達と回したりしていたんだよネ。大人になって、そんなこと、もうすっかり忘れていたよ。


何の話をしてるんだっけ、そう、格闘技の話である。そんな具合で私とシルヴィはともに6月上旬の昇級テストに臨むことになったのだが、申し込みの際に「テストの受検に、月謝とは別に8000円と受検用Tシャツ代3000円をいただきま〜す」と受付のお姉さんに言われ、そのときは「ちくしょ、ボロい商売しやがってクソが」と思った。

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4時間にわたる体力テスト、打撃テスト、護身テストになんとか耐え、結論からいうと、私は昇級テストに合格した。

後日トレーナーからいただいた講評は、意訳すると以下のようなものだった。


総合評価(A〜E) B−合格


長時間のテストたいへんお疲れ様でした。
打撃・護身ともにフォームに忠実であり、頭では、非常によく動きを理解していると思います。なぜそこで体重移動をするのか、どこで力を最大限にすべきなのか、頭では、とてもよくわかっているという印象を受けました。


さて、頭で理解しているということは、教室内ではそれなりの力を発揮できますが、逆にいうと、パニックになって頭が真っ白になってしまったら、手も足も出ないということです。つまり、一歩教室の外に出てしまったら、あなたはチンピラに襲われても何もできません。上級クラスではぜひ、頭ではなく身体に染み込ませるように動きを覚え、頭が真っ白になっても、何も考えられなくなっても、考えるより先に手足が出るようになりましょう。


それと、あなたの体格だとどうしても打撃の威力に限界があるので、今もけっこう頑張ってるとは思いますが、さらにもうちょっと頑張って筋肉をつけましょう。以上

頭では、という部分がいやに強調されていた気がする文面だったが、それは私が超言語優位の人間で、いつも頭の中で理屈をこねまわしていることをコンプレックスに思っているが故の被害妄想かもしれない。しかし何はともあれ、合格は合格である。

後日、上級クラスの時間帯に合わせて練習に行くと、そこにはシルヴィの姿があって、私たちは中学生みたいに手を取り合って互いの合格を喜んだ。30歳になっても私は「一緒に来てっ」と言われて友達の質問にくっついていくし、中学生みたいに友達と合格を喜んでいる。この事実を15年前の私が好ましく思うか、それとも失望するかわからないが、それはそれとして、私はこんな大人になってしまった。

さて、上級クラスの練習は、下級クラスの練習よりも、とても面白い。どこがどう変わって、どこがどう面白いのか説明しろと言われると難しいのだが、覚える技が少し高度になって、「私の体でもこんなことができるんだ!」という発見がある。

人間の体には、強い部分と弱い部分がある。弱い部分は一般的には「急所」といい、男性のだいじなところなどがその代表例であるわけだが、「ここね、急所なんだよ〜ホラ」とトレーナーにひざのあたりを軽く突っつかれて「ぎゃあああああああ!」と悶絶している人を見ると、私たちは本当に自分の体なのに何も知らないんだな、と思う。「ここをこうするとね、力のない女性でも簡単に相手の骨を折ることができるんだよ」などというトレーナーの説明を、私はものすごく熱心に聞いている。いつ使うつもりなんだその知識。

さしあたって、今の悩みは、上級クラスで使用することになった「シンガード」だ。こういう、練習に必要な備品を教室ではレンタルしてくれるのだが、私は足が短いので、シンガードを足にはめると上がだいぶ余ってぺこぺこしてしまうのである。「女性用(ていうか、短足用)はないんですか……?」と受付のお姉さんに聞いたら「ない」と言われたので、私は今、ぺこぺこを我慢するかマイ・シンガードを買うかで悩んでいる。別にケチってるわけじゃなくて、まあケチってもいるけど、あれを練習日のたびに家から持って行ったり持ち帰ったりするのがめんどくさいのよ。


そんなわけで、私の格闘の日々は、まだ続きそうだ。