チェコ好きの日記

もしかしたら木曜日の22時に更新されるかもしれないブログ

3時33分と4時44分と『偶然性と運命』

少し前、友人たちと、「私たちはSNSがなかったら今頃どこで何をやってたんだろうか……」という話をしていた。私は今の仕事をSNS上のつながりの中で偶然に見つけているし、友人たちも似たようなものである。私においては、暇を見つけてはインターネットとSNSの有害性や空虚性を説いて文句ばっかり垂れているが、それはそれとして、恩恵のほうはがっつりと受けまくっているのであった。自己矛盾が甚だしいが、それはそれ、これはこれ、ということにしておきたい。

回顧的錯覚


「偶然の積み重ねによって、ある方向に導かれていく」という感覚を、体験したことのある人は少なくないだろう。はじめからねらってこの場所に来たわけではない。さまざまな人、ものとの偶然の接触があって、自分はそれらに導かれ、「たまたま」この場所へ来てしまったのだ、という感覚だ。逆に言うと、あのときふとした思いつきでアレをやっていなかったら、あのときSNSであの人のコメントを見逃していたら、あのとき雨宿りに入った本屋であの本に出会わなかったら、今の自分はなかった──という、綱渡りのような経験もあるはずで、そのときのことを振り返っては少しヒヤッとして、やはり不思議な気持ちになる。


この類の、ある種の運命的な「偶然」はなんなのだろう? と疑問に思った人はけっこういたらしい。スピノザやカント、ヘーゲルもこの疑問に言及している。ただし、理性を重視する近代哲学においては、「偶然」なんていう曖昧なもんはいずれにしろ信用ならなかったみたいだ。スピノザもカントもヘーゲルも、みんなそろって、「偶然」や「運命」などの概念に対して「バッカじゃねーの」みたいなコメントを残している*1


個人的には、こういった「あのときのアレがなかったら……」という感覚は、「回顧的錯覚」ってやつなんじゃないかと思っている。「回顧的錯覚」は、現状にそこそこでも満足していると生まれる。今に満足しているから、今が上手く行っているから、今に至るまでの積み重ねの一つ一つを肯定することができる。逆に、私の場合で言えば、もしもインターネットやSNSによって導かれた「今」に満足できていなかったら、ここに至るまでの一つ一つの過程や、偶然の不思議さに思いを馳せることもなかっただろう。「過去は変えることはできないけれど、今と未来は変えることができる」とはよく言うが、なんてことはない、過去だって変えられるのだ。人間は事実なんて見ちゃいない。あるのは解釈だけだ。そういう意味では、アレもコレも全部錯覚なんだから、スピノザやカントやヘーゲルが言う「バッカじゃねーの」も、まあまあ同意できる。


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麻雀をきっかけに生まれた『偶然性と運命』


木田元さんがこの「あのときのアレがなかったら問題」について考察しているのが、『偶然性と運命』という本だ。なんでもこの本、書かれたきっかけは木田さんが熱中していた麻雀だったらしい。親近感のわく動機だ。


偶然性と運命 (岩波新書)

偶然性と運命 (岩波新書)


勝負事をする人間にとっては、〈運〉は非常に重要なファクターである。ツイているときには、統計的には絶対にありえないような牌の組み合わせが、次々に起こるらしい。この〈運〉をコントロールできはしまいかと考えた末に生まれたのが本書だったらしいのだけど、結論から言うと、〈運〉をコントロールすることはできない。木田さんいわく、心身の調子を整えるといいセンは行くらしいが、限界はあって、やっぱりダメなときは何をしてもダメらしい。まあでも、いいセンは行くのだから、調子が悪いときは体に良いものを食べて早く寝るとか、部屋を掃除するとか、いらないものを捨てるとか、そういうのってバカにせずにやったほうがいいんだろう。


この問題をもっと本格的に考えるとしたら、たぶん九鬼周造とか読まなきゃいけないし、『偶然性と運命』自体がふわっとしているわりに難しい本なので、結論めいたことを言うことはできない。ただ、そういう非科学的なものをバカにしそうな経営者とか政治家に意外と占いを信じている人がいたり、神社に熱心にお参りする人がいたりすることの説明は、なんとなくこれでつくのではないかという気がしてきた。


夜中にふと目が覚めて時計を見ると、3時33分だったり4時44分だったりすることが私にはよくある。こういう現象には、呪われている説とラッキーの前触れ説と、両方あるらしい。ただこれも「回顧的錯覚」の一種で、ようするに、ゾロ目で並んだ数字は印象に残りやすいっていうだけの話なんじゃないかと思っている。3時33分にも4時44分にも、それ自体には特に意味はない。あるのは解釈だ。


経営者や政治家で占いに頼る人が少なくないのは、これから起きることの意味付けをしやすくするためだろう。起きたことに対して、「これはあのとき言われたあのことじゃないか」と解釈することで、ただの偶然は運命になる。3時33分は呪いか、あるいはラッキーの前触れになる。神社でお参りをすることで、起きたことに対して感謝の気持ちが起きやすくなり、4時44分もまた、呪いか、あるいはラッキーの前触れになる。


だから、もしも「運を良くする方法」なんてものがあるとしたら、「起きたことをすべてポジティブに解釈する」なんていうのがバカバカしいけどいちばん有効なんじゃないかと思う。ポジティブなことなんて全然起きないよ! という場合でも、この世には「人間万事塞翁が馬」という素敵な言葉があるから大丈夫だ。人の死に関わるようなあまりにも重い不運はさすがに難しいが、骨折したとか財布をなくしたとかいうレベルだったら、いくらでもポジティブに解釈できる。


いちばん抜け出したほうがいいと思われるのは、「良いことも悪いことも何も起きない」という状況だ。解釈するためのネタがあって初めて、呪いもラッキーも生まれる。ネタさえあったら解釈の幅はいくらでも広げられる。


そういう意味では、偶然性も運命もその人の脳内にしかない完全な主観だから、やっぱり幽霊みたいなものなんだろうなと私は思う。

*1:木田元『偶然性と運命』p49

新しいことを始めるのに、恐怖心は捨てなくていい

何かしらのカルチャーにそれなりの造詣がある者にとって、「1968年」という年について語る際、ネタに事欠くことはない。


私にとってはまず、ワルシャワ条約機構軍によるチェコスロバキアへの侵攻である。他にも、全共闘運動が日本の主要大学を活動停止に追い込んだり、アメリカでキング牧師が殺されたり、フランスで五月革命が起こったり、あるいはスタンリー・キューブリックが『2001年宇宙の旅』を公開したり、フィリップ・K・ディックが『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』を発表したり、『ホール・アース・カタログ』が創刊されたり、あとは鈴木清順が日活を解雇されたりと、後の年代に生きる者からすると「そんなにいっぺんにやらなくても」という感じである。

暮らしかたという病。シアーズカタログに見る、暮らしをカタログ化する欲望 | hirakuogura.com
(※『ホール・アース・カタログ』については小倉ヒラクさんのブログを読むと面白いよ!)


それで、これは後から知ったのだけど、1968年といえばカルロス・カスタネダが『呪術師と私』を刊行した年でもある。カスタネダについては実在を疑う声もあるようだが、一応、ブラジルで生まれ、カリフォルニア大学ロサンゼルス校で学んだ人類学者だということになっているらしい。そのカスタネダが、ヤキ・インディアンの呪術師ドン・ファンの教えのもと、幻覚誘発植物を使って不可思議な世界を旅するというのが、『呪術師と私』の内容である。


呪術師と私―ドン・ファンの教え

呪術師と私―ドン・ファンの教え


この本における「幻覚誘発植物」とは、ペヨーテ、ダツラ、キノコ。この手の植物は出てくる本によって呼び名がちがったりするので、以前読んだ別の本に登場していて「あああ、あれか〜〜!!!」とかなると個人的に大興奮である。

ペヨーテはメスカリト、もしくはウバタマサボテン。ダツラはキチガイナスビ、マンダラゲ、あるいはチョウセンアサガオとも呼ばれる。キノコはよくわからん。ていうか、「キチガイナスビ」って呼び名やばくないです??? ちなみに、『ワセダ三畳青春記』で著者の高野秀行さんが柿の種のごとくボリボリ食べていたのがこのチョウセンアサガオである。


ワセダ三畳青春記 (集英社文庫)

ワセダ三畳青春記 (集英社文庫)


1968年、時代はヒッピーカルチャーの全盛期だ。そんな中、カスタネダの『呪術師と私』は世界的なヒットをはたし、カウンター・カルチャーに大きな影響をあたえた。幻覚誘発植物を使った訓練をし、知者になることを目指す。日常のリアリティを離れ、もう1つのリアリティ、「セパレート・リアリティ」を手に入れる。んもう怪しさムンムンの桜満開だけど、いいの。面白いから……。


でも、本当のネイティブ・アメリカンからすると、白人たちを中心に広がったペヨーテ(幻覚サボテン)の使用法は間違っているという。ネイティブ・アメリカンにとってペヨーテは「薬(メディスン)」であり、「スピリットを高めるもの」であり、「ドラッグ」ではないのだ。


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で、あれ、何の話をしたかったんだっけ。


とにかく、『呪術師と私』は8割くらい差っぴいて斜め読みするくらいでちょうどいいだろう。カスタネダは、ペヨーテやダツラやキノコの力を使って、セパレート・リアリティに入る。そしてそこで、知者になることを目指すのだ(う、胡散臭え〜〜)。


しかし8割差っぴくとしても、カスタネダが知者への道を歩む過程はけっこう興味深いし、汎用性もあるような気がする。幻覚誘発植物なんて一切関係ない私たちにとっても、だ。


知者の道を歩む者は、

①注意を払わねばならない
②恐怖心を持たねばならない
③しっかり目覚めていなければならない
④自信を持たねばならない


と、カスタネダは語る。新しい道を歩むと決めたとき、恐怖心なんか持つなと言われそうだが、恐怖心は持っていていいのだ。カスタネダドン・ファンに、「恐ろしいか?」とたずねられ「本当に恐ろしい」と答えている*1。恐れていることを意識し、その感覚を正しく評価しろ、とドン・ファンは語る。


私なりに解釈すると、たぶんだけど、恐ろしいと思っているものに対して、一度、一瞬だけでもいいからおっかなびっくりタッチしてみて、でもその後はすぐにダッシュで逃げていい。しかしダッシュで逃げた後、必ずもう一度タッチしにくること。タッチとダッシュを繰り返していたら、いつか恐怖は克服できる。


まあ、カスタネダの本は地下鉄サリン事件に関わったオウム真理教の信者の家にあったとかなかったとかいう話があるので、克服する恐怖の種類によっては良からぬ事態を招く可能性があるが、きっとこのブログを読んでいる人であれば心配はないだろう。とりあえず、今、私が良からぬ事件を起こして逮捕されたら、本棚からカスタネダの本を引っ張り出されて「猟奇的殺人事件で逮捕された噂のブロガー・チェコ好きは精神世界に傾倒していた!」とかNAVERまとめにまとめられかねないので、私は今日も品行方正な社会人として振るまわなければならない。


そんなわけで、あけましておめでとうございます。2018年、何か新しいことを始めたい人のヒントになれば幸いです。

*1:p72

お金と時間。私らしくないことを、する。

1.お金と時間。

今年に入ってからというもの、私は、「ああ〜お金と時間が自由だなあ」と感じることが多々あり、すごく解放感を覚えていた。


というと、私のおおよその収入や勤務形態を把握できそうな近しい間柄の人たちに「いや、アンタそんなに稼いでないでしょうよ! 時間だってけっこう縛られてるでしょうよ!」とツッコミを入れられそうだけど、もちろん、これはあくまで主観の話である。


ただ、私はよく「もし、今4億円手に入ったらどうする?」というアホな妄想をするのだけど、たぶん4億円が手に入っても、私は今と変わらない生活を送ると思う。い、家だけ、もうちょっと都心に引っ越そうかな。でも今の家は今の家で気に入っているし、ほんと、それくらいだ。お仕事は今、複数かけ持ちしているけど、ぜんぶ面白いからやってる or お仕事を通して会いたい人がいるからやってるのであって、4億円手に入ったところでそれらを手放す理由はないのだった。4億円手に入っても今とそんなに生活変えない=(持ってないけど)4億円持ってるのと同じ=自由! というロジックである。


しかし、だからといって私が今の生活に満足しているかというと、全然満足できていない。よく自己啓発界隈の怪しいセミナーで「好きなことを仕事に! お金と時間の自由をあなたに!」みたいなやつがあるけど、好きなことを仕事にできても、(主観とはいえ)お金と時間の自由が手に入っても、所詮こんなもんだ。お金と時間の自由は、私の理想の生活において、必要条件ではあるけど十分条件ではないのだった。あんまり「圧倒的成長!」みたいなことを言うと気持ち悪いけど、もっともっと自分自身のレベルを上げていかないと、お金がいくらあったって時間がいくらあったって全然楽しくないのだった。


「お前ごときが、ふてぶてしい……!」と思われるかもしれないけど、今年はずっとそんなことを考えていた。まあ、こういうことを感じるのは、元来私に物欲というものが著しく欠如していることもおおいに関係はしていると思う。相変わらず、本と旅行以外に使い道が思い浮かばない。服や化粧品もそれなりに好きだけど、私は「家に使っていないものがある」とか「まだ使えるのに捨てる」とかがものすごく嫌なので、こっちもそんなに過剰に増やせない。あと、これは人としてダメだと思うのでむしろ改善しようとしているのだけど、美味しい食べ物に興味がない。興味は、持とう!


あと、ガチなお金の話をすると、みんな、歯医者に行ったほうがいいよ! 歯は、虫歯が進行すればするほど健康を害すしお金がかかりまくるので、予防したり初期段階で治したりしたほうが絶対にいいよ! 私は、危うくめちゃめちゃお金がかかるところだったのを滑り込みセーフで治したので、「危機一髪!」と思いました。予防歯科の重要性を説くブロガーに転向しようかな?

2.私らしくないことを、する。

誰かが昔*1「いつものその人らしくないことをしているとき、その人のセクシーさがにじみ出る」ということを言っていた。

セクシー路線を歩みたいグラビアアイドルの卵である私は「なるほど」と思い、2017年はそんなわけで、「私らしくないこと」をけっこうたくさん頑張った1年になったかなと今振り返っている。たとえば、これは始めたの自体は2016年だったけど、格闘技はその一例といえるかもしれない。


aniram-czech.hatenablog.com

身辺雑記的なことを書くと、2016年、私は1月に前の会社を退職し、2月から3月にかけて中東へ旅行し、その旅行中にTwitter上のご縁から次の職場のアテを見つけ、5月からそちらの職場でお世話になり始め、11月にバリ島へ旅行し、12月に引っ越し……となんかわたわたしていたのだけど、2017年は私の脳が「じっとしてたい〜〜〜!」と申していたので、けっこうじっとしていた。2016年ははるばるイスラエルまで行ったのに、2017年は、なんと、関東地方から出なかった……! いちばんの遠出で静岡とかな気がする。静岡県、地味に好きなんですよね*2。あと職場や居住地をコロコロ変えるのも実のところそんなに好きではないので(前の職場5年勤めたしな)、今年はもちろん転職・引っ越し等もしておりません。


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ただ、あくまで旅行に関していうのであれば、半年前くらいに「飽きた」と書いたのだけど、やっぱり私は定期的に外国に行かないと、どうも脳細胞が死ぬらしい。多動症だとか、いてもたってもいられなくなる! という感じでは全然ないのだけど、むしろ根本は「え〜外行くのめんどくさ〜い」みたいなタイプだから半径1キロ内で生活しろとか言われても全然余裕なんだけど、それが快適であるだけに、たまには嫌がる体を無理に引きずってでも遠方に行かないと、静かに、でも確実に、脳細胞がプチプチ死んでいくようである。カラーだった日常の光景が、徐々に色あせてセピアになり、気がつくとモノクロになっているような。おそろしいのは、本人はモノクロになっていることに気づかず、まるで世界が最初からそうで今後も永遠にそうなのではないかと錯覚してしまうことである。……みたいな危機を感じたので、来年は、またどこかに出かけると思う。


下のヤマザキマリさん『世界の果てまで漫画描き*3』のエピソード、すごく共感してしまった。 わ、わかる〜! 旅行前の私は30%のワクワクと、70%の「めんどくせえ」でできているのだ。


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そんな感じで、来年もよろしくお願いします! みんな、歯医者に行こう。

*1:本当に誰だったか忘れた。身近な人なのか著名人だったのかも忘れた。すみません

*2:静岡県は関東地方じゃないが、近場という意味で。

*3:1巻が今、無料だった! 世界の果てでも漫画描き【期間限定無料】 1 キューバ編 (マーガレットコミックスDIGITAL)

「夜のお店」の入り口には、よく盛り塩がしてある

取材の一環で体験入店をしてみたキャバクラの入り口に、盛り塩がしてあった。以来、夜のお店とか、あとはラブホテルの入り口にある盛り塩に目が行くようになり、そういえば今まで通りかかったお店にもそういうところが多かったな、と思い出した。


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最初に盛り塩に気が付いたときはつい、何かおどろおどろしいものを連想してしまったのだけれど、調べてみるとどうやら、魔除けとか幽霊が出るとかっていうよりは、単に商売繁盛を願ってという意味合いが強いみたいだ。でも、本当に商売繁盛だけでいいんなら招き猫でもいいじゃんって思うし、塩を取り替えるのってけっこうめんどくさいし、「夜のお店」に多い、っていうのはきっとその慣習に何かしらの意味はあるんじゃないだろうか。人間の欲望が入り乱れる場所なので、清めておかないと悪いものが溜まるとか考えられているのかもしれない。そういえば、シチリアエクソシストに迫ったドキュメンタリー『悪魔祓い、聖なる儀式』では塩を水に溶かして聖水(スピリチュアルウォーター!)を神父が作っているシーンがあるのだけど、塩に魔除けの意味合いを持たせている文化圏は、世界各所にある。なんでだろ。


聖と呪力の人類学 (講談社学術文庫)

聖と呪力の人類学 (講談社学術文庫)


古い本なので今はまた変化しつつあるのかもしれないが、『聖と呪力の人類学』によると、日本の民俗学シャーマニズムを研究する際、東京や大阪などの大都市は無視されることが多かったようである。確かに、シャーマニズム研究ってなると青森のイタコか沖縄のユタか、みたいな話になりそう。しかし、当然ながら大都市にもシャーマン(霊能者)はいて、こちらの本ではその“大都市圏のシャーマニズム”にきちんと言及している。


大都市圏のシャーマニズムの大きな特徴は、青森のイタコや沖縄のユタのような「型」がないことだという。特徴がないことが特徴、と言われているみたいで「はぁ!?」と思うが、一般の人と同じように、大都市においてはシャーマンもまた地方出身者が多い。そのため、それぞれの出身地域の型を独自に持ち込むので、「東京」「大阪」など全体としての型は定まらないんだそうだ。


ただ世界の大都市と比較してみると、実はシンガポールやクアラルンプールや台北のシャーマンには「型」があるそうで、大都市だから型がない、と一般論で語ることはできないらしい。このへんは深く掘ると、そもそもの「都市の成り立ち」みたいなのを考える話になってしまいそうなので、面白そうだけど今回は割愛。


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「霊能者に会って以来、人の心が見えるようになった」と語った知人がいた。


話を聞いたときは、うわ、めっちゃ胡散くさ〜〜と思ったが、しかしまあ彼の言い分によると、知り合いのツテで会った霊能者にアドバイスされた通りに日本全国のパワースポットを巡ってみたら、眠っていた力が開花したのだそうだ。人の心が見えるので、仕事の商談などで役に立ちまくりで、その日も億単位の契約を取り付けてきた、と誇らしげに語っていた。週末になると、「今日は箱根だな〜」などと思い立って、日本全国の温泉にエネルギーをチャージしに行くという。


「私にもその霊能者、紹介してくださいよ〜〜」と揉み手でモミモミしながら言ったら「ダメ」と言われたので、話半分に受け取っているが、その霊能者はタロット占いが得意らしい。神奈川出身で関東にしか住んだことのない私は、いわゆる「東京」と「地方」の比較はできないのだが、東京は本当にいろんな人がいる。


「夜のお店」自体は地方にだって全然あるけど、ラブホテルや風俗店が百花絢爛と咲き乱れているのは、大都市だけだ。


東京って、食べ物とか建築とか自然とか、物理的な魅力はもうほとんどないんじゃないかと私は思うんだけど、唯一やっぱりまだ魅力的に映る点は、「とにかく人が多い」という部分だろう。この部分だけは絶対に地方都市は勝てない。人が多いから、人に寄せ付けられてさらに人が集まる。嫉妬も醜い欲望も、嘘も真実も全部集まる。「うさんくさい金をうさんくさいとも思わず、金で願いごとをかなえた街──。」これは私がブログで何度も引用している、フィッツジェラルドグレート・ギャツビー』に出てくるマンハッタンを形容した一節だけれど、いつ読んでもなんて美しい文章だろうと感心してしまう。


東京の飲食店や風俗店の入り口にある盛り塩を全部合わせたら何キロになるだろう。それらを持ってしてもなお浄化できない、大都市に入り乱れる醜い欲望のことを、私はやっぱり嫌いになれないのだった。

2017年に読んで、面白かった本ベスト10

メリークリスマス! 今年も、読んで面白かった本ベスト10をまとめてみる。もし気になる本があったら、サンタさんにお願いしてみてください(今からじゃ遅いか)。

ちなみに2017年上半期編はこちら。年間ランキングなので一部重複しております。
aniram-czech.hatenablog.com

2016年編はこちら。
aniram-czech.hatenablog.com

10位 『珍世界紀行』都築響一

珍世界紀行 ヨーロッパ編―ROADSIDE EUROPE (ちくま文庫)

珍世界紀行 ヨーロッパ編―ROADSIDE EUROPE (ちくま文庫)

全ページ閲覧注意な勢いで気持ち悪い本なので、夜に読んではいけません。蝋人形博物館とか拷問博物館とかセックスミュージアムとか医学研究所とか、ヨーロッパの気持ち悪い観光名所をひたすら紹介しています。私はこの中だと、イタリア・フィレンツェのラ・スペーコラ、ローマ近郊のボマルツォの怪物庭園、それからローマの骸骨寺に行ったことアリ。

私はエログロがイケるクチ、というかそれが専門みたいなところすらあるので*1、ちょっとくらい変なところは全然許容範囲なんだけど、これを読んで拷問博物館だけはダメかもと思った。ね、ねずみをさ、胸の上に置いたゲージに入れて、その上で炭を焼くと、ねずみが熱から逃げようとして胸の皮膚を食い破って体内にもぐるらしいのね。そんなとこいちいち蝋人形で再現してくれるなっていう。私は痛いのがダメなんですわ。山本英夫の『殺し屋1』が読めないタイプなんですわ。でも拷問博物館以外はわりと全部行ってみたい。


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(※これはボマルツォの怪物庭園のエロい彫刻)

9位 『風姿花伝・三道』世阿弥

風姿花伝・三道 現代語訳付き (角川ソフィア)

風姿花伝・三道 現代語訳付き (角川ソフィア)

「良い文章ってどうやったら書けるんだろう?」というのは私にとって終わりのない命題だ。今年はちょこまかといろいろなことに挑戦しつつも、裏ではずっとずっとそれだけを考えていた気がする。そして世阿弥の『風姿花伝』は、「良い文章を書くために」という問いに対する1つのアンサーであり、また広く芸事に従事する人にとって必読の書ではないかと思う。

栄光は長く続かない。時の運によって獲得した名声を、自分の実力だと思ってはいけない。世間はいつも気まぐれである。「面白い」とは何か。それは咲いて散る花であり、常に自分が変化し続けなければ手に入らないものである。

などなど、要約するとめちゃ意識高いことが書いてあるんだけど、600年以上も前の人が言うんだったらまあちょっとくらい意識高くてもいっかという気になる。ちなみに角川文庫の『風姿花伝』を読むのがダルイという人は、NHK「100分de名著」シリーズのほうもあるので、これも内容が上手くまとまっていておすすめです。

NHK「100分de名著」ブックス 世阿弥 風姿花伝

NHK「100分de名著」ブックス 世阿弥 風姿花伝

8位 『とらわれない生き方』ヤマザキマリ

実は長年、「女性の書いたエッセイ」があまり好きではなかった。好きではないというか、別に嫌いではないのだけど、「いい本だったなあ」で終わってしまうことが圧倒的に多く、作者自身の思想や生き方に共感することがほぼ皆無だった。まあ本くらい別に好きに読めばいいんだけど、「ひょっとして、私は名誉男性の地位が欲しいのかな? 女性としてのアイデンティティを受け入れられないのかな?」と自分で自分を心配したりしていた。

でも、去年の終わり頃から少しずつ読むようになったヤマザキマリさんのエッセイはそういえばすごく共感できて、SOLOのコラムで「憧れの年長女性がいない」と書いた私にしては珍しく「こういうふうになれたらいいなあ!」と素直に思える女性だったことに気が付いた。尊敬できる憧れの女性、いるじゃん! いたわ!

というわけで、別に私は名誉男性の地位が欲しかったわけでも女性としてのアイデンティティを受け入れられなかったわけでもなく、女性の思想や生き方があまり響かないのは単に趣味嗜好の問題だったという話にできそうで一安心している。ヤマザキマリさんは物事を楽観的かつ大局的に捉える人なので、私と同じようなタイプの人は落ち込んでしまったときとかに読むのおすすめ。悩みに寄り添ってくれるというよりは、「そんなんで悩む必要あります?」みたいなことを言う人だ(だから合わない人にはすすめない)。

7位 『日本人の身体』安田登

日本人の身体 (ちくま新書)

日本人の身体 (ちくま新書)

能楽師の安田登さんが書いた身体論。ついでに言うと、安田さんが連載しているウェブのコラムが大好きで、毎回楽しみにしている。

風姿花伝』に続き能関係の本ではあるのだけど、能楽論の中に出てくる「老」についての思想が私は好きだ。「老」は現代では醜いものであり、避けるべきものとして扱われるけど、本当に実力のある役者は老いてなお輝くものを持っているらしい。芸事に従事する人間は、「若さ」に頼っていては危険なのだ。

6位 『断片的なものの社会学』岸政彦

断片的なものの社会学

断片的なものの社会学

「語られて」しまうもの、あるいは編集された人生 - チェコ好きの日記

詳しい感想は前に書いたので割愛。この本、「断片的」というだけあって全体がぼわ〜んとしているし、かなり捉えどころのない本だと思う。にも関わらず私のまわりでとても評判がいいので、もしかしたらみんな「編集」に疲れているのかもしれないな。

5位 『神を見た犬』ディーノ・ブッツァーティ

神を見た犬 (光文社古典新訳文庫)

神を見た犬 (光文社古典新訳文庫)

どうしても「待てない」人たちへ - チェコ好きの日記

この本の感想、というわけではないんだけどそれに近いものを以前書いた。『神を見た犬』は短編集で、表題作の他『七階』という作品が人気らしい。『七階』はめちゃめちゃに後味が悪い話なんだけど、ブッツァーティらしくて良い。カフカとか星新一が好きな人は読んでみてください。

4位 『はい、泳げません』高橋秀実

はい、泳げません

はい、泳げません

「できる」と「できない」の間の話 - チェコ好きの日記

このエッセイ、やっぱりいいな〜。いつかこんな文章が書けたら素敵だな、と思う本。笑ってしまうので電車とかではなくおうちで読みましょう。

3位 『バビロンに帰るスコット・フィッツジェラルド

バビロンに帰る―ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック〈2〉 (村上春樹翻訳ライブラリー)

バビロンに帰る―ザ・スコット・フィッツジェラルド・ブック〈2〉 (村上春樹翻訳ライブラリー)

30歳を過ぎたら - チェコ好きの日記

私やっぱりフィッツジェラルドが好きなんですよね。あと彼の作品で読んでないのは『ラスト・タイクーン』かな。遺作。でもこれ未完なんだよな。

2位 『「待つ」ということ』鷲田清一

「待つ」ということ (角川選書)

「待つ」ということ (角川選書)

この本については、2018年に新たに何か書けたらいいなと思っている。これもまた全体がぼわ〜んとしてる系の本なのだけど、最近の私はそういうのが好きなのかもしれない。

1位 『嘘つきアーニャの真っ赤な真実米原万里

嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (角川文庫)

嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (角川文庫)

コミュニティに執着しない - チェコ好きの日記

前にも感想を書いているけど、改めて、私がいちばん好きなのは表題作の「嘘つきアーニャの真っ赤な真実」。これはエッセイだからハッピーエンドもバッドエンドもないんだけど、「アーニャ」をどちらかに分類しろと言われたら、やっぱりバッドエンドということになってしまうんだろう。

子供の頃に仲良くしていた大切な友達。大人になってから会っても変わらず大好きで、かけがえのない存在。でも月日は残酷で、久々に再会した旧友との間には、子供の頃には意識することのなかった政治的思想の対立が生まれていた。米原さんはアーニャのことが理解できないし、アーニャは米原さんを理解しようともしない。対立は決定的な溝となって二人の間に表出してしまった。

米原さんの場合は幼少期をチェコスロバキアソビエト学校で過ごしているので、大人になってからできてしまった女友達との溝が「政治的思想の対立」だったわけだけど。角田光代さんの『対岸の彼女』は、同じことをもうちょっと日本人的なテーマで書いていると思う。女同士の一方が結婚や出産を経て、人生の中で大切なものが変わってしまい、お互いのことが理解できなくなってしまうという話だ(ずいぶん前に読んだのでちょっと記憶が曖昧なんだけど、確かそういう話だったと思う)。

対岸の彼女 (文春文庫)

対岸の彼女 (文春文庫)

友達同士に限らず、恋人でも家族でも、長い年月を経て互いの環境や考え方が変わり、かつてのように語り合うことができなくなってしまうことは、全然珍しくない。誰もが、多かれ少なかれ経験することだ。

人は変化し続けなければ面白くなれないし、変化し続けなければ「世界」を見ることはできない。だけど、変化はやはり苦痛を伴うのだ。だからこそ、変化し続けることをやめない人が、魅力的に思えるのかもしれないけど。

世界を見る、とは - チェコ好きの日記


というわけで、気になる本があったらぜひ手にとっていただき、年末あたたかくしてお過ごしください! 私は寒いのが苦手なので外に出ません。

*1:ヤン・シュヴァンクマイエルが卒論の人間なので