読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

チェコ好きの日記

旅 読書 アート いいものいっぱい 毎日楽しい

「できる」と「できない」の間の話

Twitterで教えてくれた人がいたので、高橋秀実さんのエッセイ『はい、泳げません』を読んでみた。著者の秀実さんはカナヅチで、水が怖くてまったく泳げないのだけど、そんな秀実さんが中年になって一念発起し、スイミングスクールに通い出すというエッセイである。

はい、泳げません

はい、泳げません

が、「水泳とか興味ねーよ」という人がこのブログを読んでいる人の大半だろう。私も正直、水泳そのものにはほとんど興味がない。でも、この『はい、泳げません』という本はべらぼうに面白かった。私一人が面白いといってもきっと説得力がないので、単行本当時の帯を書いた村上春樹の言葉をここに引用しよう。

「変てこな、人の足をひっぱるような『ハウ・トゥー』本(なのか?)が、いったい世の中のどんな役に立つのか、僕には今ひとつよくわからないのだけど、まあそれはともかく、無類に面白い本です」。

そう、これはれっきとした「ハウ・トゥー」本である。ただし何のハウ・トゥーかというと、決して水泳のハウ・トゥーが書いてあるわけではない。これを読んでもたぶん泳げるようにはならない。では何のハウ・トゥーかというと、もっと広義の、今自分が「できない」あることに対して、どのように考え取り組んでいくのが正しいのか? ということ、いってみれば思考そのもののハウ・トゥーが書いてあるのだ。

どうして私は「できない」んだろう?

世の中のあらゆることには、「できる」人と「できない」人がいる。自転車に乗れる人乗れない人、泳げる人泳げない人、英語がしゃべれる人しゃべれない人、もっと複雑になると、仕事ができる人できない人、納得のいく恋愛ができる人できない人。自分がすべてにおいて「できる」側だなんて人はまずいないだろうし、反対に、自分はすべて「できない」側だという人もいないはずだ。

で、「できない」けれどあることが「できる」ようになりたい場合、練習というか鍛錬を積むことになる。あまり苦もなくすぐ「できない」から「できる」に変わるものもあるけれど、「できない」ままの状態がずっと続き、苦しむものも種類によってはある。たとえば、私は小1の頃自転車に乗る練習をし始めてわりとすぐに乗れるようになったけど、一輪車は苦手でどんなに練習しても上手くいかず、結局今もまだ一輪車には乗れないままだ。

自転車にわりとすぐに乗れるようになった人は、自転車になかなか乗れるようにならない人の気持ちはわからない。同じように、泳げる人には、泳げない人の気持ちはわからない。そんなことを示すように、『はい、泳げません』の冒頭は、「泳げる人」へ向けた秀実さんの恨み節が延々と書いてある。プールで泳いでいて人を抜く場合、挨拶があってもいいのではないかとか、泳げる人は自分さえよければそれでいいと思っているとか、泳げる人は人間として何かが欠けているとか、ゴーグルをつけた顔が怖いとか、何においてもとにかく無性に腹が立つとか、もうあまりにも卑屈というかほとんど言いがかりである。だからこの恨み節の冒頭は笑い所なのだけど(ゴーグルの顔が怖いって何だよ)、しかしまあ自分が「できない」ままの状態に長くとどまっている場合、「この世のすべてが憎い!!!」みたいな心境になることはある。私も一輪車の練習をしていた小1〜小2時代、自分の前をスイスイ通り過ぎていく同級生を見て、「こいつ頭がおかしいんじゃないか?」とよく思っていた。

しかし、泳げる人の悪口ばかり言っていても始まらないので、秀実さんはとりあえずプールの水に浸かる。が、水がとても怖い。水泳の本を読んで「水に慣れよう」「水に親しもう」「人間の体は水に浮くようにできているから大丈夫」などと書いてあっても、それを全部承知の上で怖いのだ、と反論する堂々巡りがしばらく続く。

「できる」人から見た「できない」人

この本の面白いところは、そんな卑屈なカナヅチ秀実さんと、スイミングスクールのコーチである桂さんの、往復書簡になっていることである。秀実さんの体験談が続いたあと、それを読んだ桂コーチのフィードバックが入る。そして、この「できる」人と「できない」人の認識のズレ、みたいなのがとても興味深い。通常、スイミングスクールで水泳を習っていても、その途中の心境を文章にして残すことなんてほとんどないだろう。また、それを読んだコーチ側が、文章でフィードバックを返してくれることなんてもっとない。「できる」人と「できない」人の間にはズレみたいなのが当然あるはずなのだけど、それが言語化・可視化されると、ここがこんなふうにズレてたんだ、みたいなのがわかって面白いのだ。

冒頭の卑屈な秀実さんに対して、桂コーチは「泳いでる人がプールで抜かすときに挨拶しないのは当たり前でしょうが、泳いでるんだから」とごもっともなことを返す。だけど、「それにしても、水がこんなにもこわかったのですね」とも書く。この桂コーチのパートはちょっとした答え合わせにもなっていて、ここの認識がおかしいから変えればいいんだとか、ここの考え方は普通だし合ってたとか、「できる」側は「できない」側の世界を、「できない」側は「できる」側の世界を、想像するためのヒントになっている。

あとは、単純な言った言わない論争みたいなのも「あるある」なのだけど、読んでいると面白い(というか笑える)。桂コーチはあのときこう言った、いやこうは言ってない、桂コーチはあのときこう言った、いやそれはそうじゃなくてこういうニュアンスで言ったんだ、桂コーチは言ってることがコロコロ変わる、いや秀実さんの段階に合わせてあえて変えてるんですよ、いや混乱するから変えないでくださいよ、などなど、もうホントに細かいのだけど、人間同士だとこういうことってまじでよくある。

みんな苦しかった

なんとか水に顔を浸けることには慣れた秀実さん、しかしなかなか泳げるようにならない。息継ぎができないのである。息継ぎができなくて、苦しいので、25mを泳ぎ切ることができずプールの途中で立ってしまうのだ。

すると桂コーチ、同じ水泳クラスの生徒さんたちに問いかける。

「鈴木さん、泳いでいて苦しいですか?」
「そりゃあ、苦しいですよ」
「山本さんは?」
「苦しいわよ。決まってるじゃない」
「中村さんは?」
「苦しいわ」

秀実さんは、ここで「うそ?」と驚く。自分以外は苦しくなくて、苦しくないから25mを泳ぎ切れるんだと思っていたらしい。しかし、実はみんな苦しくて、苦しいのを我慢していた。桂コーチは、驚く秀実さんに「我慢すれば息継ぎしなくても25mはいける」と説く。

しかしそうは言っても、苦しいものは苦しい。苦しいのは恐怖である。我慢すればいけると説かれても、はいわかりましたとすぐに25mいけるわけではない。が、桂コーチは「呼吸しにここに来てるんですか? 泳ぎに来てるんですよね。じゃあ泳いでください」とスパルタである。読んでるこっちが泣きそう。秀実さんも完全にビビっている。が、そう言われては仕方ないので、秀実さんは泳いでは途中で立ち怒られ、泳いでは途中で立ち怒られ、を繰り返すうちに、だんだんと25mはいけるようになってくる。しかし、「なんで立つの!」と怒り狂う桂コーチ、プールの真ん中で立ち尽くしシュンとする秀実さん、怖いのとかわいそうなのと面白いのとで、この本のいちばんの盛り上がり所である(たぶん)。

どうすれば「できる」ようになるのか

ネタバレご法度かもしれないが、結論からいうと、秀実さんは最終的に泳げる人になる。「できない」世界から「できる」世界へ、見事な飛翔を遂げる──といいたいところだが、泳げるようにはなるものの、泳げるようになっても秀実さんは未だにグジグジウジウジしている。巻末に秀実さんと桂コーチと小澤征良さん*1の鼎談があるのだけど、そこでもまだ「水が怖い」「プールに行きたくない」「泳ぎたくない」「泳げない(泳げるのに)」などと言っている。

せっかく泳げるようになったのに何でこんなに卑屈なんだ……と人によっては疑問に思うかもしれないけれど、しかしこれこそがリアルな「できる」人の世界なのだろう。水中では息が吸えなくて、それが苦しいのは泳げるようになっても変わらないのだ。各々の「できる」ことと「できない」ことを思い出してみると、心当たりがあるはずだ。

何かが「できる」ようになるためにはどうすればいいのか? となると、究極な話、「できるまで頑張る」しか道はない。しかし、できるまで頑張れないことが多いから、できるようにならない。では、「できるまで頑張る」にはどうすればいいのか、どうすれば諦めずにいられるのかというと、秀実さんみたいにエッセイのネタにするとか、ブログに書くとか、人に話すとかして、できない状況そのものを「面白がる」しかない。福音なのは、できないままでもイヤイヤでも真面目に続けていると、意外とまわりの人が世話を焼いてくれるということである。

もう一つは、「できる」人の世界を、なるべくリアルに想像することである。そして、この本はそんなリアルな「できる」人の世界を想像するのに、とても役立つ。泳げる人でも、水は怖いし息は苦しいし、プールには行きたくないのだ。

というわけで、この本はとても面白い。何かが「できない」ことで悩んでいるすべての人に、読んでみてほしいと思う。1日で読めるが、笑っちゃうので電車などで読む際は注意が必要だ。

最後に、このエッセイは以前紹介した高野秀行さんの『腰痛探検家』の続編として読むと、理解が深まる。『腰痛探検家』は「解決したい悩みがあるけどどうしたらいいかわからない」人へ、『はい、泳げません』は「どうしたらいいのかはなんとなくわかるんだけどできない」人へ、贈りたいエッセイである。どちらも、読み物として一級品であることを私が保証する。
aniram-czech.hatenablog.com

*1:指揮者の小澤征爾さんの娘。桂コーチの生徒だったらしい

タラレバ娘、抗えない老い、後悔、そして『騎士団長殺し』

村上春樹の最新長編小説『騎士団長殺し』の感想を書く。物語の核心に触れないよう細心の注意を払うけど(つまり、まだ読んでない人が目にしても大丈夫なように書くけど)、とはいえ「何も知らない状態で『騎士団長殺し』を読みたいんだッ!」という人にはこの感想はスルーしてもらったほうがいいと思う。本を読み終わったらまたブログを読みに来てください。

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

ある時点に戻ってひとつの間違いを修正できたとしても

まず読み終わって最初に思ってしまったのは、村上春樹ももう68歳、作家としては大ベテランだ。『騎士団長殺し』も過去の作品の焼き直し感が強く、特に目新しい手法が導入されていたようには思えなかった。もちろん小説として面白かったし、夢中で最後まで一気に読んでしまったけれど、村上春樹ファン以外に特別にこの作品をすすめたいか、と問われると答えはNOである。上巻で張り巡らされた伏線が下巻でカチカチとパズルがはまるように回収されていくのだけど、そのパズルが鮮やかすぎるというか、「上手くなりすぎちゃったなあ」と思ってしまったのが正直なところだ。私はもう少し、不格好でイビツで危なっかしいほうが個人的には好みである。まあ、それは読む前からある程度予測できていたことでもあるので、ここでは特に深入りしない。

それが全体的な印象ではあるのだけど、『騎士団長殺し』で個人的にグッときた部分をあげると、下巻で主人公が自らの結婚生活を振り返るシーンがある。この小説の主人公は36歳で、肖像画を描く仕事をしているのだけど、ある日突然妻から離婚を切り出されてしまうのだ。そしてそのことを、近隣に住む免色(メンシキ)という中年の男と、こんなふうに語る。

「結婚生活について悔やんでいることはなくはありません。しかしもしある時点に戻ってひとつの間違いを修正できたとしても、やはり同じような結果を迎えていたんじゃないかな」
「あなたの中に何か変更のきかない傾向のようなものがあって、それが結婚生活の障害となったということですか?」
「あるいはぼくの中に変更のきかない傾向みたいなものが欠如していて、それが結婚生活の障害になったのかもしれません」


p.140『騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編


「ある時点に戻ってひとつの間違いを修正できたとしても」、やはり同じ結果を迎える。私は人生において後悔というものをほとんどしたことがない人間なのだけど、それは「いついかなるときも目の前のことを全力で(しかし客観性は失わず)やってきたからですっ!」なんて理由からでは全然なくて、一種の諦念から来ているというか、ひとつくらいの選択を変えたところでどうせ人生はたいして変わらないだろう、という感覚を持っているからだ。「あのときああしてたらよかった」なんて思わない。「あのときああしていたとしてもきっと同じだった」と思う。だから「〜していたら」「〜していれば」なんて全然考えないのだけど、他の人は人生に対してどういう感覚を持っているのだろう。「タラ」「レバ」で自分の人生の可能性を広げて考えることができる、というのはけっこう幸福かもしれない。私の場合はまさに、自分の中に変更のきかない傾向のようなものがあって、それが人生の障害になっている。あるいは強みになっている。そういう感覚があるので、この主人公にはけっこう共感を覚えることができた。人生を点として考えるか(そしてそこから様々に枝分かれする)、線として考えるか(一時的に枝分かれしているように見えても最終的には同じ場所に着地する)。

そして、村上春樹の小説に通じているその一貫した「諦念」のようなものが、やはり私は好きなのだった。運命には抗えないというか、配られたカードで勝負するしかないというか。天から授けられたgiftに変更はきかないし、文句をいうこともできないのだ。

待ってください。あともう少しすれば──

『騎士団長殺し』の主題はなんだったのか? という話になると、それは「老い」と「子供」になるのかな、と思う。生きていると、人は老いる。世の中にはお金持ちも貧乏も、男も女も、モテる人もモテない人も、いろいろいる。だけど唯一、時間だけは平等で、「やがて老いて死ぬ」という点は残酷なことに、どんな人であっても皆同じだ。

この小説の主人公は前述したように36歳なのだけど、その主人公が追いかける存在として、90代の老齢画家・雨田具彦という人物が登場する。この老齢画家は意識が混濁していて、養護施設に入所しており、マトモな話ができる状態ではない。しかし、それは主人公そして我々が、遅かれ早かれ向かっていく避けられない姿でもある。

作者の村上春樹がなんといっても68歳なのでそういう描写にならざるを得ないのだろうけど、この小説における36歳という年齢は、まだまだ未熟な若者だ。死ぬまでの時間は、基本的にはたっぷりと残っている。が、たっぷりと残っているように見えても、それが刻一刻と減っていっていることに変わりはない。だからプロローグで、肖像画家である主人公は焦っている。ある人物に対して、あなたの顔はまだ自分には描けない、と。そして、「待ってください。あともう少しすれば──」と訴える。主人公はそうすることでとりあえずの猶予を得られるけど、しかしあと何回、チャンスがあるかはわからない。

どうしたらそのある人物の顔が、主人公は描けるようになるのか。時間を味方につけるしかない。「老い」は一般的にはネガティブな響きをともなうけど、誰にでも平等に訪れる避けられないものなのだとしたら、敵にまわすより味方につけたほうが賢明だ。だから老いることを、時間が過ぎていくことを、味方にするしかない。村上春樹自身も老齢に差し掛かっているので、この人は自分のために、そんなメッセージを込めた『騎士団長殺し』を書いたのかな、と思った。

村上春樹の小説はファンタジー要素が多いし、登場人物もすぐにパスタ茹でたりセックスしたりするのであまり現実味がないというか、個人的な香りがしないのだけど、唯一このプロローグには村上春樹自身の個人的な香りが、少しするような気が私にはした。あともう少し、時間をくださいと。まだ書きたいことがある、でも書けるようにならないんだ、と。だけどきっと、「完成」など迎えられるはずもなく、未完成のまま、中途半端に人は死ぬのだろう。

「子供」については、たぶん私以外にも感想で触れる人がたくさんいると思うので、ここでは特に言及しない。だけど繰り返すように、村上春樹自身がトシだから、「老い」とは何か、そして遺伝子的な子供を持つ人も持たない人も、何を残して自分は死ぬのか。そんなことを考える小説にしたかったのかなあと思った。

冒頭に書いたように、村上春樹ファン以外の人に特におすすめできるような要素がある小説ではない。だけど、「老い」について考えてみたい人が読むと、何がしかのヒントは得られるかもしれない。そして、「スタイルが完成されすぎちゃって上手くなりすぎちゃって面白くない」村上春樹が、そこからどう老年をあがくのかを私はメタ的に楽しみにしているので、今後も、村上春樹の小説は問答無用で発売日に買って読むと思う。まあ、こういうのは一種のお祭りだからこれでいいのだ。

関連エントリ
aniram-czech.hatenablog.com